一
相變らず捕物の名人の錢形平次が大縮尻をやつて笹野新三郎に褒められた話。
その發端は世にも恐ろしい『疊屋殺し』でした。
「た、大變ツ」
麹町四丁目、疊屋彌助のところに居る職人の勝藏が、裏口から調子つ外れな聲を出します。
「何だ、又調練場から小蛇でも這出して來たのかい」
と、その頃は贅の一つにされた、猿屋の房楊枝を横くはへにして、彌助の息子の駒次郎が、縁側へ顏を出しました。
「それどころぢやねえ」
「町内中の騷ぎになるから、少し靜かにしてくれ。麹町へ巨蠎なんか出つこはねえ」
「今度のは巨蠎ぢやねえ、丈吉の野郎が井戸で死んで居るんだ」
「何だと」
駒次郎は、跣足で飛降りました。其處から木戸を押すと直ぐ釣瓶井戸で、その二間ばかり向うは、隣の屋敷と隔てた長い黒板塀になつて居ります。
丈吉の死體は、井戸端にくみ上げた釣瓶に手を掛けて、其儘崩折れたなりに冷たくなつて居たのでした。
抱き起して見ると、右の眼へ深々と突立つたのは、商賣物の磨き拔いた疊針。
「あツ」
駒次郎も驚いて手を離しました。
「ね、兄哥、丈吉の野郎が、何だつて疊針を眼に突つ立てたんでせう」
「そんな事は解るものか。親父へさう言つてくれ」
「親方はまだ寢て居ますぜ」
「そんな事に遠慮をする奴があるものか」
勝藏が主人の彌助を起して來ると、井戸端の騷ぎは際限もなく大きくなつて行きます。
變死の屆出があると、町役人が立會の上、四谷の御用聞で朱房の源吉といふ顏の良いのが、一應見に來ましたが、裏木戸やお勝手口の締りは嚴重な上、塀の上を越した跡もないので、外から曲者が入つた樣子は絶對にないと言ふ見込みでした。
それに、丈吉はなか/\の道樂者で諸方に不義理の借金もあり、年中馬鹿々々しい女出入で惱まされて居たので、十人が十人、自害を疑ふ者はありません。
「持ち合せた疊針で眼を突いて、井戸へ飛込む積りだつたんだね。ところが此處まで來ると力が脱けて井戸へ飛込む勢ひもなくなつた――」
朱房の源吉は獨り言を言ひ乍ら、尤もらしく其邊を見廻したりしました。
「親分の前だが、こいつは自害ぢやありませんぜ」
不意に横合から、變な口を利く奴があります。
「何だと?」
振り返ると其處に立つて居るのは、錢形の平次の子分で、お馴染のガラツ八、長い顏を一倍長くして、源吉の後ろから、肩へ首を載つけるやうに覗いて居るのでした。
「ね、朱房の親分、井戸へ飛込んで死ぬ氣なら、何も痛い思ひをして、眼なんか突かなくたつて宜いでせう」
「何?」
「それに、商賣柄、繩にも庖丁にも不自由があるわけはねえ」
八五郎は少し調子に乘りました。さすがに死體には手は着けませんが、遠方から唇を尖らせ、平次仕込の頭の良いところをチヨツピリ聽かせます。
「手前は何だ」
「へエ――」
「何處から潜つて來あがつた」
源吉の調子は壓倒的でした。
「神田の平次親分のところに居る八五郎で、へエ――」
「ガラツ八は名乘らなくたつて解つて居るよ、その長い頤が物を言はア、看板に僞りのねえ面だ」
「へエ――」
「俺が訊くのは、何處から何の用事で來たか――てんだよ。此處へそんな頤を突つ込むのは繩張り違げえだらう」
「朱房の親分、決してそんな譯ぢやありません。平川天神樣へ朝詣りをして、三丁目へ通りかゝると町内中の噂だ。知らん振りもなるまいと思ふから、ちよいと顏を出した迄で」
「面だけで澤山だ。口なんか出して貰ひたくねえ」
「相濟みませんが、親分、どう見たつてこれは自害ぢやありません。自分の手で、眼玉へ疊針を三寸も打ち込めるもんぢやありませんぜ」
ガラツ八も容易に引下がりません。
「目玉へ疊針を當てゝ、井戸端へ頭を叩きつけたらどうだ」
「それなら井戸端へ血がつく筈ぢやありませんか」
「血なんか幾らも出ちや居ないよ」
「もう一度調べ直して下さい。外から曲者が入つたんでなきア、家の中の者でせう。其男は金廻りも惡いが、女癖が惡かつたつて言ひますから」
「さア、もう歸つて貰はうか、ガラツ八親分なんざ、物を言ふだけ恥を掻くぜ、――昨夜はあの良い月だ。井戸端で立ち廻りをやるのを、家の者が知らずに居る筈もなし、第一、人間の眼は八五郎兄哥の前だが、何處かの岡つ引きよりは、餘つ程敏捷いぜ。疊針を突つ立てられる迄、開けつ放しになつちや居ねえ、瞬きをするとか、顏を反けるとか、何とかするよ」
「――」
「疊針は眞直ぐに突つ立つて居るし、頬にも瞼にも傷はねえ」
源吉はしたり顏でした。死體になつた丈吉は、衣紋の崩れもなく、瞳へ眞つ直ぐに立つた疊針を見ると、爭ひがあつたとは思ひも寄らなかつたのです。
「――」
ガラツ八はごくりと固唾を呑みました。丈吉が氣でも違つて居ない限り、丈夫な繩も、鋭利な庖丁も捨てゝ、一番無氣味な、一番不確實な、疊針で死ぬ氣になつた心持が呑込めなかつたのです。
「神田の八五郎兄哥は、此家の中に下手人が居る見込だとよ、皆んな顏を並べて、人相でも見せてやんな、――自棄に良い男が揃つて居るぢやないか。女出入なら駒次郎兄哥などが早速やられる口だぜ。金が欲しきア、彌助親方だ、――何だつて又選りに選つて、醜男で空つ尻で、取柄も意氣地もねえ丈吉などの眼玉を覗つたんだ」
朱房の源吉は、井戸端に集つた多勢の顏を見渡し乍ら、宜い心持さうにこんな事を言ひました。
主人の彌助は五十を越した年配、その伜、駒次郎は取つて二十三、これは山の手の娘に大騷ぎされて居る男前、職人の勝藏も、二十五六の苦み走つた男、源吉が言ふのは、滿更出鱈目ではなかつたのです。
「やい、八兄哥、歸つたら平次へさう言ひな、近頃少し評判が宜いやうだが、あんまり出しや張るとろくな事にあるめえ――とな」
シヨンボリ歸つて行くガラツ八の後姿へ、源吉は思ふ存分の惡罵を浴びせました。平次には餘つ程怨みがある樣子です。