一
「親分、退屈だね」
「――」
「目の覺めるやうな威勢のいゝ仕事は無えものかなア。此節のやうに、掻つ拂ひや小泥棒ばかり追つ掛け廻して居た日にや腕が鈍つて仕樣がねえ」
ガラツ八の八五郎は、そんな事を言ひ乍ら、例の癖で自分の鼻ばかり氣にして居りました。
「大層な事を言ふぜ、八。先刻から見て居ると、指を順々に鼻の穴へ突つ込んで居るやうだが、拇指の番になつたら何うするだらうと、俺はハラハラして居るぜ」
錢形平次は、早春の日向縁に寢轉んだまゝ、斯んな無駄を言つて居ります。
「つまらねえ事を心配するんだね、親分」
「俺は苦勞性さ、その指を何處で拭くか、そんなつまらねえ事まで心配して居るんだよ。今晩あたりは、うけ合ひ、大きな鼻の穴の夢を見るよ。ウナされなきア宜いが」
「天下泰平だなア」
「だがな八、今に面白い仕事が舞ひ込んで來るよ、――退屈なんてえのは、鼻の穴のでつかい人間とは縁が無い代物だよ」
「へツ、いやに鼻に祟られる日だぜ」
「怒るなよ、八。仕事が舞込みかけて居ることだけは本當なんだ、――聞えるだらう、あの足音が――」
「成程ね、路地の中だ」
「そんな恰好で耳を澄すのは按摩と八五郎ばかりさ、鼻の穴で物音を聞いて居るやうだぜ」
「又鼻かい、親分」
「怒るなよ、八。お前の鼻がよく利くから、俺の仕事が運ぶんだ、平次の手柄の半分は、言はゞ八五郎の鼻の御蔭さ。今度お目にかゝつたら、笹野の旦那に申上げて置かう」
「冗談ぢやねえ」
「ところで、あの足音だ、――後金の緩んだ雪駄を引摺り加減に歩くところは、女や武家や職人ぢやねえ、落魄れた能役者でなきア先づ思案に餘つたお店者だ」
「――」
縁側に寢そべつて、路地の外の人間を透視する平次の話を、八五郎は小鼻を膨らませて聽き入りました。
「先刻から格子を開けかけて、三度も引返して居るよ。大の男があれほど迷ふのは、よく/\の事があるんだね」
「行つて見ませうか、親分、――文句を言つたら、力づくで引張り込む」
「そんな事をしちやブチ壞しだ。さうでなくてさへ、迷ひ拔いて居るんだ。うつかり聲を掛けると、逃げ出さないまでも、用心深くなつて、田螺見たいに口を緘むに決つて居る、――知らん顏をして居るんだ」
「――」
「それ格子を開けたらう、お靜が出て行つた樣子だ、放つて置け/\、――精一杯知らん顏をして、お前さんの話なんか、少しも聞き度くない、つて顏をするんだよ、解つたか、出しや張ツちやならねえ」
平次の言葉の終らぬうちに、お靜は一人の男を案内して來ました。
「親分さん――始めてお目にかゝります、私は――」
お店者風の四十男、澁い好みですが、手堅いうちにも贅があつて、後金の緩んだ雪駄を穿く人柄とは見えません。
「まア、宜い、番頭さん、お急ぎの用事でなきア、一服やつてからお話を伺ひませう、此處は陽が入つて飛んだ暖かだから」
「へエ、――有難う御座います、さう呑氣にしても居られません」
「まア宜いだらう、あつしは岡つ引には相違ないが、こんな好い心持の日は、仕事の話を聞くのは大嫌ひさ。ウツラウツラし乍ら、三度の飯を待つなんざ、洒落たものさね。この男は八五郎と言つて、家に居る下つ引だ、遠慮なんか要るものか、朝から鼻ばかり掘つて居るんで、遠慮の方で驚いて逃出したつてね」
「有難う御座います、親分さん、何を隱しませう、私は日本橋通三丁目越前屋總七の番頭徳三郎と申すもので――」
「――」
平次とガラツ八は、それとなく顏を見合せました。越前屋といふのは日本橋切つての大きな金物問屋で、江戸分限番附の前頭筆頭に上る家柄、先代の總七は三年前に死んで、今は手代上りの養子總七の代になつて居ることは、岡つ引きならずともよく知つて居ることです。