一
笛の名人春日藤左衞門は、分別盛りの顏を曇らせて、高々と腕を拱きました。
「お師匠、このお願ひは無理でせうが、亡くなつた父一色清五郎から、お師匠に預けた禁制の賦、あれを吹けば、人の命に拘はるといふ言ひ傳へのあることも悉く存じて居りますが、お師匠の許を離れる、この私への餞別に、たつた一度、此處で聽かして下さるわけには參りませんでせうか」
一色友衞は折入つて兩手を疊に突いて、斯う深々と言ひ進むのです。春日藤兵衞に取つては、朋輩でもあり、競爭者でもあつた一色清五郎の忘れ形見、一時は酒と女に身を持ち崩しましたが、近頃はすつかり志を改めて、藝道熱心に精進し、今度は愈々師匠藤左衞門の許を離れて、覺束ない乍らも一家を興さうとしてゐる男でした。取つて二十七、少し虚弱で弱氣ですが、笛の方はなか/\の腕前で、もう一人の内弟子の、鳩谷小八郎と、孰れとも言はれないと噂されました。
「一々尤も、お前の言葉に少しの無理もない。が、『禁制の賦』は三代前の一色家の主人、一色宗六といふ方が、『寢取り』から編んだ世にも怪奇な曲で、あれを作つて間もなく狂死したと言はれる。その後あの曲を奏する毎に、人智の及ばぬ異變があり、お前の父親一色清五郎殿が、嚴重な封をしてこの私に預けたのだ。流儀の奧傅祕事、悉くお前に傅へた上は、あの『禁制の祕曲』も還しても宜いやうなものだが、何んと言つても、まだ三十前の若さでは、萬一の過があつては取返しがつかぬ。決してあの曲を憎むわけではない、せめてあと三年待つがよからうと思ふがどうだ」
春日藤左衞門は道理を盡して、斯う言ふのです。
「よく判りました、お師匠。でも、私のやうな若い者には、笛を吹いて祟があるといふことは受け取れません。それはほんの廻り合せか、吹く人の心構への狂ひから起つた間違ひでございませう。それに私は自分の未熟もよく存じて居ります、『禁制の祕曲』をこの私に渡してくれといふやうな、そんな大それた事は申しません。たつた一度で宜しうございます。後學のために、お師匠の許を去るこの私に、一色家に傅はる祕曲を、吹いて聽かして下さればそれで堪能するのでございます」
「――」
藤左衞門は口を緘んで友衞の後の言葉を待ちました。
「禁制の曲に魔がさすと言ふのは、夜分人に隱れて、そつと吹くからでございませう。一日中で一番陽氣の旺んな時、例へば正午の刻と言つた時、四方を開け放ち、皆樣を銘々のお部屋に入れ、火の元の用心までも嚴重に見張つて、心靜かに奏したなら、鬼神と雖も乘ずる隙が無いことでせう」
一色友衞は、藝道の執心のために、どんな犧牲でも忍び兼ねない樣子でした。
「いかにも尤も、――それほど迄に言ふなら、この祕曲の封を解いて、お前にも聽かせ、この私も心の修業としよう」
春日藤左衞門は到頭折れました。この話の始まつたのは丁度辰刻半(九時)それから準備を整へ、正午刻少し前には、妻玉江、娘百合、あやめ、下女お篠、下男作松、内弟子鳩谷小八郎を、それ/″\の部屋へ入れ、主人春日藤左衞門は、一色友衞とたつた二人、奧の稽古部屋に相對して、三十年前友衞の父一色清五郎の封じた、禁制の賦の包を解きました。
中から出たのは、平凡な能管の賦が一册、それを膝の前に開いて春日藤左衞門は見詰めました。
「よいか」
「はツ」
一色友衞は五六尺下がつて、疊の上に兩手を突きます。
虻が一匹、座敷を横切つて庭へ飛去ると、眞夏の日はクワツと照り出して、青葉の反影が、藤左衞門の帷子や、白い障子を、深海の色に染めるのでした。
高々と籐を卷いたぬば玉の能管、血のやうな歌口をしめし乍ら、藤左衞門はさつと禁制の賦に眼を走らせます。
一寸見たところでは、何んの變哲もない、『寢取り』の變奏曲ですが、心靜かに吹き進むと、その旋律に不思議な不氣味さがあつて、ぞつと背に水を流すやうな心持。藤左衞門は幾度か氣を變へて途中から止さうとしましたが、唇は笛の歌口に膠着して、不氣味な調べが劉喨と高鳴るばかり。
これは併し、いろ/\の先入心が、強迫觀念になつて、技倆に自信を持ち過ぎる、春日藤左衞門の心を脅かすのでせう。
「――」
吹き了つた笛を、流儀の通り膝の前に置いて、藤左衞門はホツと溜息を吐きました。暫くは師匠も弟子も、物を言ふことさへ忘れてゐたのです。
「有難うございました」
やゝ暫く經つて、緊張の弛んだ一色友衞は、丁寧に一禮しました。
その時、――
「わツ、た、大變ツ」
下男の作松の凄まじい聲が、遙かの方から眞晝の部屋々々を筒拔けて響きます。