Chapter 1 of 7

話はガラツ八の八五郎から始まります。

「あら親分」

「――」

「八五郎親分」

素晴らしい次高音を浴びせられて、八五郎は悠揚として足を止めました。意氣な單衣を七三に端折つて、懷中の十手は少しばかり突つ張りますが、夕風に胸毛を吹かせた男前は、我ながら路地のドブ板を、橋がかりに見たてたい位のものです。

「俺かい」

振り返るとパツと咲いたやうな美女が一人、嫣然として八五郎の鼻を迎へました。

「八五郎親分は、江戸にたつた一人ぢやありませんか」

「お前は誰だい」

「隨分ねエ」

女はちよいと打つ眞似をしました。見てくれは二十二三ですが、もう少しヒネてゐるかもわかりません。自棄な櫛卷にした多い毛にも、わざと白粉を嫌つた眞珠色の素顏にも、野暮を賣物にした木綿の單衣にも、つゝみ切れない魅力が、夕映と一緒に街中に擴がるやうな女でした。

「見たやうな顏だが、どうも思ひ出せねえ。名乘つて見な」

「まア、大層なせりふねえ、――遠からん者は音にも聞け、と言ひたいけれど、實はそんな大袈裟なんぢやありませんよ、――兩國の篠をお忘れになつて、八五郎親分」

女は少しばかりしなを作つて見せます。

「何だ、水茶屋のお篠か。白粉ツ氣が無くなるから、お見それ申すぢやないか」

「まア、私、そんなに厚塗りだつたかしら?」

お篠はそんな事を言ひ乍ら、自分の頬へ一寸觸つて見せたりするのです。笑ふと八重齒が少し見えて、滅法可愛らしくなるくせに、眞面目な顏をすると、屹とした凄味が拔身のやうに人に迫るたちの女でした。

「赤前垂を取拂ふと、すつかり女が變るな。一年近く見えないが、身でも固めたのかい」

「飛んでもない、私なんかを拾つてくれ手があるものですか」

「さうぢやあるめえ、事と次第ぢや、俺も拾ひ手になりてえ位のものだ」

「まア、親分」

お篠の手がまた大きく夕空に弧を描くのです。

「ところで何か用事があるのかい」

「大ありよ、親分」

「押かけ女房の口なら御免だが、他の事なら大概相談に乘つてやるよ。ことに金のことなどと來た日にや――」

「生憎ねえ。親分、金は小判といふものをうんと持つてゐるけれど、亭主になり手がなくて困つて居るところなの」

「ふざけちやいけねえ」

「ね、八五郎親分。掛合噺は又來年の春にでもゆつくり伺ふとして、本當に眞劍に聽いて下さらない?」

「大層また改りやがつたな」

「私本當に困つたことがあるのよ、八五郎親分」

「あんまり困つたやうな顏ぢやないぜ、何がどうしたんだ」

ガラツ八も引き込まれるともなく、少しばかり眞面目になりました。

「親分は私の妹を御存じねエ」

「知つてるとも、お秋とか言つたね。お前よりは二つ三つ若くて、お前よりも綺麗だつた――」

「まア、御挨拶ねエ」

「その妹がどうしたんだ」

「兩國の水茶屋を仕舞つた時の借りがあつたので、私と別々に奉公したんです。私は――今は止したけれど淺草の料理屋へ、妹は堅氣がいゝと言ふんで、湯島の山名屋五左衞門樣へ――」

「そいつは料簡が惡かつたな、山名屋五左衞門は、界隈に知らぬ者のない癖の惡い男だ」

「それも後で聞きました。驚いて妹を取戻しに行きましたが、どうしても返しちやくれません」

「給料の前借でもあるのか」

「そんなものはありやしません」

「證文を入れるとか、受人をたてるとか、何か形の殘るものが向うへ入つて居るんぢやないか」

「知つた同士で話をつけ、何一つ向うへは入つて居ません」

「それぢや戻せないことはあるまい」

ガラツ八は一向手輕なことのやうに考へて居るのでした。

「女一人行つたところで、馬鹿にされて戻されるのが精々です。今までにもう、三度も追ひ歸されました」

「フーム」

「今つれて歸らなきや、妹のお秋にどんな間違ひがあるかも判りません。獨り者の山名屋はお秋を妾にする氣で居るんです。あの娘には、まだ祝言こそしないが、決つた許婚があるのも承知の上で」

「そいつは氣の毒だが、本人が歸る氣が無きやどうすることも出來ない」

「本人は歸りたいに決つてゐます。あんな蛸入道が瘧を患つたやうな、五十男の手掛になつて、日蔭者で一生を送りたい筈はありません」

「――」

「この間も私が行くと、逢はない乍らも、二階の格子の中で泣いて居るぢやありませんか。私はもう可哀想で可哀想で」

「それで、俺に何をしろと言ふんだ」

ガラツ八も大分呑込みがよくなりました。

「決して無理なことをお願ひするんぢやありません。山名屋の店先へ行つて、見えるやうに見えないやうに、その懷中の十手をチラチラさして下さりやいゝんです。私が一人で乘込んで、主人を始め番頭手代と掛合ひ、きつと妹のお秋を救ひ出して來ます」

お篠は一生懸命説きたてるのです。一時兩國の水茶屋で、鐵火者で鳴らしたお篠が、妹のお秋を虎狼のから救ひ出したさに、ガラツ八の十手のチラチラまで借りようと言ふのは、全く並々ならぬ危險を感じたからのことでせう。

お秋のらふたき美しさをガラツ八は知り過ぎて居るだけに、この頼みを蹴飛ばしかねました。

「よし、それぢや行つてやらう」

「有難うございます、八五郎親分」

「その代り、俺は店の中へは入らないよ。外に居て、十手をチラチラさせるだけだよ」

ガラツ八は馬鹿々々しくも念を押します。

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