Chapter 1 of 8

「八、今のは何んだい」

「へエ――」

錢形の平次は、後ろから跟いて來る、八五郎のガラツ八を振り返りました。正月六日の晝少し前、永代橋の上はひつきりなしに、遲れた禮者と、お詣りと、俗用の人が通ります。

「人樣が見て笑つてゐるぜ、でつかい溜息なんかしやがつて」

「へエ――相濟みません」

八五郎はヒヨイと頭を下げました。

「お辭儀しなくたつていゝやな、――腹が減つたら、減つたといふがいゝ。八幡樣の前で余つ程晝飯にしようかと思つたが、朝飯が遲かつたから、ツイ油斷をしたんだ。家までは保ちさうもないのかえ」

「へエ――」

「へエーぢやないよ。先刻は橋の袂で飼葉を喰つてゐる馬を見て溜息を吐いてゐたらう。あれは人間の食ふものぢやないよ。諦めた方がいゝぜ」

「へツ」

八五郎は長んがい顎を襟に埋めました。まさに圖星と言つた恰好です。

「どうにもかうにも保ちさうもなかつたら、その邊で詰め込んで歸るとしようよ。魚の尻尾を噛つてゐる犬なんか見て、淺ましい心を起しちやならねエ」

平次はそんなことを言ひながら、その邊のちよいとした家で、一杯やらかさうと考へてゐるのでした。

「犬は大丈夫だが、橋詰の鰻屋の匂ひを嗅いだら、フラフラつとなるかも知れませんよ」

「呆れた野郎だ」

二人は橋を渡りきつて、御船手屋敷の方へ少し歩いた時。

「あツ、危ねエ、氣を付けやがれ、間拔け奴ツ」

飛んで來て、ドカンと突き當りさうにして、平次にかはされて、クルリと一と廻りした男、八五郎の前に踏止つて遠慮のないのを張り上げたのです。

「何をツ、其方から突つかゝつて來たぢやないか」

「八、放つて置け。空き腹に喧嘩は毒だ」

平次は二人の間に割つて入りました。

「あツ、錢形の親分」

「何んだ。新堀の鳶頭ぢやないか」

革袢纒を着た、中年輩の男、年始廻りにしては、少しあわてた恰好で、照れ隱しに顏の冷汗を拭いてをります。

「相濟みません。少しあわてたもんで、ツイ向ふ見ずにポンポンとやる癖が出ちやつて、へツ、へツ」

「恐しい勢ひだつたぜ。火事はどこだい。煙も見えないやうだが」

「からかつちやいけません、ね親分。こゝでお目にかゝつたのは、丁度いゝ鹽梅だ。ちよいと覗いてやつて下さい。大變な騷ぎが始まつたんで」

「何が始まつたんだ。喧嘩ぢやあるまいね。夫婦喧嘩の仲裁なんざ。御免蒙るよ」

「殺しですよ、親分」

「へエ、松の内から、氣の短い奴があるぢやないか」

「殺されたのは、新堀の廻船問屋、三文字屋の大旦那久兵衞さんだ。たくらみ拔いた殺しで、恐ろしく氣の長い奴の仕業ですぜ、親分」

「成程、そいつは鳶頭の畠ぢやねえ」

「だからちよいと覗いて下さい。さう言つちや濟まねえが、富島町の島吉親分ぢや、こね廻してゐるばかりで、何時まで經つても埒が明かねえ。あんまり齒痒いから、あつしは深川の尾張屋の親分を呼んで來て、陽のあるうちに下手人を縛つて貰はうと思つて飛んで來たんだが、橋の上で錢形の平次親分と鉢合せをするなんざ、八幡樣の御引合せ見てえなもので――」

「八幡樣が迷惑なさるから、こんな馬鹿なことは言はないことにしてくれ。外ならぬ島吉兄哥が困つてゐるなら、ちよいと手傳つてやつてもいゝ。案内してくれるかい、鳶頭」

平次は思ひの外氣輕に引受けました。滅多に人の繩張りに足を踏込んで、仲間の岡つ引に恥をかかせるやうなことをしない平次ですが、富島町の島吉は先代から懇意で、わけても先代の島吉に、平次は親身も及ばぬ世話になつてをります。その伜の島吉――まだ十手捕繩をお上から許されたばかりの若い御用聞が、いきなり厄介な事件に直面して面喰つてゐると聽いては、ジツとしてもゐられません。まして、川を越して深川の尾張屋が乘出すやうなことになると島吉の顏は丸潰れでせう。平次が氣輕に乘出したのも無理のないことだつたのです。

豊海橋を渡つて南新堀へ入ると、鳶頭は三文字屋の方へは行かずに、四日市町から天神樣へ行きます。

「道が違やしないかえ、鳶頭」

八五郎は先刻の啖呵の仕返しに、一本抗議を申込みました。

「三文字屋のお店は南新堀だが、大旦那は癇性で多勢人のゐるところでは寢られないと言つて、毎晩亥刻(十時)になると、靈岸島の隱居家へ引揚げて休みなさるんで」

「その隱居家に凄いのを圍つてあるといふ寸法かい」

と八五郎。

「飛んでもない、三文字屋の大旦那と來た日にや、江戸一番の堅造だ。尤も取つて六十三とか言つたが、――隱居家は下女のお作一人、雌猫も置かねえ」

「その下女が――」

「三十過ぎの出戻りで、稼いで溜めて、在所へ歸るより外に望みのねえ女だ」

そんな話をするうちに、三人は隱居所の前、何んとなく穩かならぬ人立の中に立つてをりました。

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