一
「親分、小便組といふのを御存じですかえ」
八五郎は長んがい顎を撫でながら、錢形平次のところへノソリとやつて來ました。
いや、ノソリとやつて來て、火のない長火鉢の前に御輿を据ゑると、襟元から懷手を出して、例の長いのを撫で廻しながら、こんな途方もないことを言ふのです。
「俺は腹を立てるよ、八。まだ朝飯が濟んだばかりなんだ、いきなりそんな汚ねえ話なんかしやがつて」
平次は妻楊枝ををポイと捨てて、熱い番茶を一杯、やけにガブリとやります。
「てへツ、汚ねえどころか、それが滅法綺麗だからお話の種で」
「何をつまらねえ。容顏美麗だつて、垂れ流す隱し藝があつちや附き合ひたくねえよ。馬鹿々々しい」
平次がかう言ふのも無理のないことでした。貞操道徳が全く弛廢してしまつて、遊女崇拜が藝術の世界にまで浸潤して來た幕府時代には、男の働きで妾を蓄へることなどは寧ろ名譽で、國持大名などは、その低能臭い血統の保持のために、江戸屋敷の正妻の外に國許に妾を置き、それを見慣ふ有徳な武家、好色の大町人は申すまでもなく、甚しきに至つては學者僧侶に至るまで、公然妾を蓄へて聊かも恥ぢる色がなかつたのです。
この風潮に應ずるために、一方にはまた妾奉公を世過ぎにする、美女の大群の現はれたのも當然の成行でした。尤も、その美女の群が、まともな人間ばかりである筈はなく、中には非常な美人で、たつた一と眼で雇主をすつかり夢中にさせてしまひ、何百兩といふ巨額の支度金を取つて妾奉公に出た上、鴛鴦の衾の中で、したゝかに垂れ流すといふ、大變な藝當をやる女もあつたのです。
どんな寛大な好色漢も、したゝかに寢小便を浴びせられては我慢のできるわけはなく、これは簡單に愛想を盡かされて、お拂ひになつてしまひます。素より一度やつた支度金は、暇をやつた妾から取戻すわけにも行きません。
かうして次から次へと渡り歩く美人を、貧乏で皮肉でおせつ介な江戸ツ子達は、小便組と呼んで、嘲笑と輕蔑と、そしてほんの少しばかり好意をさへ寄せてゐたのです。現に江戸の風俗詩川柳に、小便組を詠んだ洒落れた短詩が、數限りなく遺つてゐるのを見ても、その盛大さがわかります。
ガラツ八の八五郎が、朝つぱらから持つて來た話の種は、この美しき惡魔『小便組』の一人に關係した、世にも平凡で皮肉で、そのくせ捕捉し難き小事件です。
「ね、親分。その小便組の一人が、一向垂れないんで、騷ぎが始まつたとしたら、どんなものです」
八五郎はまだ顎を撫でてをります。
話があんまり下卑てゐるので、平次の女房のお靜も、さすがに恐れをなしたものか、熱い番茶を一杯、そつと八五郎の膝の側に滑らせて、默つてお勝手に逃げ込んでしまひました。
「何んだか、ひどく間拔けな話だなア、――良い若い者が、色氣がなさ過ぎるぜ。朝つぱらから小便の話なんか持込んで來やがつて」
「さう言はずに、まア聽いて下さいよ。話の相手は淺草三間町の材木屋で若松屋敬三郎――」
「評判の良い男ぢやないか」
「男がよくて腹が大きくて、情け深くて古渡りの俳諧の一つも捻つてみようといふ――」
「古渡りの俳諧といふ奴があるかい」
「近頃流行の冠附けや沓附けぢやないから、多分こいつは古渡りだらうと思ふんだが」
「無駄が多いな、それからどうした」
錢形平次もツイ膝を前めます。
「その若松屋が二年前に女房に死なれて、四十一の厄前で獨り者だ。後添への口は降るほどあるが、二人の小さい子供を繼母の手で育てるのも可哀想だからと、そのまゝ聽流してゐたが、雇人も多勢ゐることだし、何彼につけて不自由で叶はない。そこですゝめる人があつて、三月前に無類飛びきりといふ入山形に二つ星の妾を雇ひ入れた、――その支度金大枚百兩」
「入山形に二つ星の妾てえ奴があるかい」
「一々お小言ぢや困りますね。兎も角、大した代物だ。お扇と言つて年は二十一、骨細で、よく脂が乘つて、色白で愛嬌があつて――あツ」
八五郎は飛び上がりました。身振りが過ぎて、お靜が置いて行つた番茶の湯呑を引つくり返したのです。
「たうとう垂れ流しやがつた。仕樣のねえ野郎だ、――お靜、雜巾だよ」
「へツ、へツ、これで支度金は丸儲け」
「馬鹿だなア」
掛け合ひ話は、こんな調子で運んで行くのでした。八五郎の話の筋だけを書くと、――その若松屋敬三郎の雇ひ入れた支度金百兩といふ妾のお扇は、素より生無垢の娘である筈はないのですが、美しさも拔群、立居振舞も尋常な上に新嫁のやうに純情で、先妻の遺した二人の子供や、奉公人達へのあたりもよく、まことに豫想もしなかつた良い女でした。
そのうち一と月、二た月と日が經ちましたが、お扇の勤め振りは、日を經るにつれて益々よく、主人敬三郎の喜びは、何に比べやうもありません。
このまゝ無事な日が續けば、まことに申分のない仕合せでしたが、お扇が來てからものの一と月とも經たぬうちから、若松屋の内外にいろ/\の變つたことが起り、それが嵩じてたうとう人一人の命にかゝはる破局までのし上げてしまつたのです。