Chapter 1 of 14

「世の中に何が臆病と言つたつて、二本差の武家ほど氣の小さいものはありませんね」

八五郎はまた、途方もない哲學を持ち込んで來るのです。

「お前の言ふことは、一々調子ツ外れだよ、武家が臆病だつた日にや、こちとら年中腰を拔かして居なきやなるまい」

平次は大して氣にも留めない樣子でした。障子を一パイに開けると、建て混んだ家並で空はひどく狹められて居りますが、一方から明神樣の森が覗いて、何處からか飼ひ鶯の聲も聞えてくると言つた長閑さ、八五郎の哲學を空耳に聽いて、うつら/\とやるには、申分の無い日和です。

「でも、さうぢやありませんか、親分、武家も大名ともなれば、年がら年中自分の首ばかり心配して、障子に棧をおろしたり、お妾との睦言にまで、見張りの宿直が、屏風の蔭で耳を濟まして頑張つてゐるといふぢやありませんか、さうなつた日にや、色事だつて身につきませんね、親分」

「だから大名にはなり度くないと言ふんだらう、良い心掛けだよ、お前は」

「旗本は家人だつて自分の首を何時取られるかと思つて、ビクビクし乍ら一生を送つて居るやうなのは、隨分澤山ありさうぢやありませんか。武家屋敷といふと、町人の家より戸締りが嚴重な上に、長押には槍が掛けてあるし、御本人は御丁寧に冷たい人斬庖丁を、二梃も三梃も取揃へて、生涯添寢をしてゐるんだと思ふと、あつしは氣の毒で、氣の毒で」

「安心しなよ、誰もお前を武家に取立てるとは言はないから」

「聽くと何んでも、主持ちの武家がうつかり押込にでも入られて、手籠にでもされやうものなら、腹を切るか永のお暇になるか、兎も角も、生涯人に顏を見せられないことになるんですつてね」

「そんなこともあるだらうよ」

「だから起きるから寢るまで、人斬庖丁を傍から離せなくなる」

武士の魂たる兩刀を、脅迫觀念の禁呪のせゐにしてしまつたのは、まさに八五郎の新哲學だつたのです。

「それはわかつた、岩見重太郎だつて、宮本武藏だつて、八五郎よりは膽つ玉が太くなかつたかも知れないといふことにして、お前は一體何んの話をしに來たんだ」

平次は膝をツン向けました。八五郎の『武士臆病論』には何やら含みのありさうな匂ひがするのです。

「その武士の中にも、とりわけ臆病な武家があるから、お話の種なんで」

「誰だえ、それは?」

「どうせこちとらの友達や親類ぢやありませんがね」

「當り前だ」

「青山長者丸の万兩分限、村越峰右衞門樣。江戸生え拔きの豪士で、大地主で、山の手切つての物持で、若い時は、學問武藝、いづれも愚かは無かつたが、年を取つて金が出來ると、急に世の中といふものが怖くなつた」

「フーム、強さうな名前ぢやないか、俺はまた、何處かのお大名のお抱關取かと思つたよ」

「家柄がよくて金があつて、人間が利巧で腕が達者だから、若い時は全く大した者だつた相ですよ。隨分元氣に任せて喧嘩も買ひ、金にモノを言はせて横車も押し切つたが、年を取ると滅切り氣が弱くなつて、若い時にひどい眼に逢はせた奴が、鼓を鳴らして仕返しに來さうで、どうも、夜もオチオチ眠られない」

「やれ情けないことになるものだな」

「そこで、屋敷をお城のやうに造り、濠をめぐらし、東西南北に物見櫓をあげ、濠にはハネ橋を掛けて――」

「おい/\青山長者丸だつて、江戸八百八町のうちには違ひあるめえ、そんな大袈裟なことをしたら、第一公儀が默つて見ちや居ない筈だ。忽ち謀反人扱ひを受けて、磔刑柱を背負はされるぜ」

「それは大丈夫で、長者丸は親分も知つての通り百姓地が多くて、何萬坪となく田圃だし、村越の家といふのは、その田圃の眞ん中だ」

「それにしても、お濠や櫓は大袈裟過ぎるだらう」

「話はそれ位大きくないと、面白かありませんよ。お濠と言つたつて、冬になれば大根を洗ふ用水堀、夏になると半分は深田になつて、お米の木を植ゑようといふ都合の良いお濠だ」

「馬鹿にするなよ」

「四方の物見櫓は、火の見とも言ふ、一本づつ龍吐水を備へて、用心をさ/\怠りない」

「良い氣なものだ」

「ところで、家の中の要愼はそんな生やさしいことぢや無い」

八五郎の話は、これからが愈々佳境に入りさうです。

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