Chapter 1 of 9

「あ、錢形の兄さん」

平次は兩國橋の上で呼留められました。四月の末のある朝、申分なく晴れた淺黄空、初鰹魚の呼び聲も聽えさうな、さながら江戸名所圖繪の一とこまと言つた風情でした。

「おや、お品さんぢやないか、こんなに早くどこへ行くんだ、お詣りや物見遊山でも無ささうだが――」

呼び留めたのは、平次の大先輩で、昔は相當に顏を賣つた御用聞き、石原の利助の娘で、お品といふ美しいの。

「まア、私は」

お品は取亂した樣子が耻かしくなつた樣子で、あわてゝ、髮を直したり、帶を叩いたりして居ります。蒼白く冴えた細面が、少しばかり鼻白んで、二十五の若さが匂ふ年増でした。父親の利助は、事毎に錢形平次と爭つた練達無比の男でしたが、去年の春から輕い中氣で寢込んでしまひ、子分達の離散を防ぐため皆のものに勸められて、出戻りの娘お品が、女だてらに十手捕繩を預かり、辛くも父親の代理を勤めて居る有樣だつたのです。

お品は氣象者で、申分なく怜悧な女でしたが、それでも血腥い事件には怖氣をふるひ、神田明神下に飛んで行つてはツイ、仲の好いお靜に助太刀を頼んで、事毎に錢形平次を引つ張り出すのでした。

物好きな江戸つ子達は、蔭ではお品のことを『女御用聞き』と呼んで居りましたが、本人のお品はそれをまた、どんなに嫌がつたことでせう。

「大層急いでゐるやうだが」

平次は取なし顏にさう言ひました。後ろではガラツ八の八五郎が、うさんらしい鼻をヒクヒクさせて居るのです。

「大變なんです。兄さん、――龜澤町の加納屋に、昨夜殺しがあつて、家の者が二、三人行つて居りますが、とても手に了へさうもありませんし、お願ひですから、どうぞ」

お品は矢張り、平次の迎ひにやつて來たのでした。

「行くのはお安い御用だが、そいつは矢張り、お品さんと石原の子分衆で、ラチを明けるのが本當ぢやないのかな、石原町と龜澤町ぢやお膝元過ぎて、おれがちよつかいを出すと、また何んとかいはれるだらう」

「でもね、錢形の兄さん」

お品は泣き出しさうでした。

近頃、石原の利助の病氣と無能をいひ立てゝ、その預つてゐる十手捕繩を、横取りしようと、手ぐすね引いて居る者が少くないことを、平次は知り拔いてゐたのです。

女御用聞きといはれた美しいお品を、この凶惡無殘な役人鬼と相對させ、必死の鬪爭に追ひやつた平次にもまた理由があつたのです。

「薄情なやうだが、父さんのためだ。子分衆を手一杯に働かせて、お品さん一人の手にこいつを裁いて見る氣はないか」

「やつて見ませう、私は怖いけれど」

平次に激勵されながらも、お品にはまだ割切れないものが殘つてゐる樣子です。透き通るやうな青白い額、白粉つ氣も何にも無いのですが、仕樣ことなしにニツと苦笑すると、引きしまつた薄肉色の唇の曲線が、少しばかり上弦に緩んで、非凡の媚が湧くのです。

「何が怖いんだ」

「加納屋の殺しのあつた晩、石原の私の家の格子から、これを投げ込んだものがあるんです」

お品はさういひながら、帶の間から引出した紙片を一つ、不氣味なものゝやうに、シワを伸ばして平次の手に渡すのです。

「どれ」

手に取つて見ると、薄い半紙表に下手つ糞な字を不揃ではあるが剋明に並べたもので、

加納屋のものを皆殺しにしてやる。外のものは餘計な手出しをして後悔するな

と書いてあるのです。

「見付けたのは今朝、その時はもう、加納屋の手代の磯松が殺されてゐたんです」

「成程こいつは手が混んでゐる。その代り骨折り甲斐はあるだらう」

「錢形の兄さんは、何處へいらつしやるんです?」

お品はまだあきらめ兼ねる樣子でした。

「小梅に用事があるんだ、その序でに、八の野郎に誘はれて、毛虫の見物さ」

「毛虫ぢやない、葉櫻ですよ」

「さう/\毛の生えた葉櫻を見るんだつけ」

平次はその日八丁堀の餘儀ない頼みで、小梅村へ調べに行く用事を持つて居たのです。

「では、錢形の兄さん」

「まア、確りやつて見ることだ。脅かしなんかは氣にすることは無いぜ、惡者が惡事を前以つて知らせるのは、何かそれをやらなきやならないワケのある事さ――その變な手紙を念入りに調べるが宜い」

やがて橋を渡ると平次は向島へ、お品は龜澤町へ別れました。

「ね、親分」

「何だえ」

「可哀想ぢやありませんか、お品さんは涙ぐんで居ましたぜ」

「それで宜いんだよ、何時までも俺を頼つて居ると、利助兄哥が何んとか言はれるから、お上でも放つて置けなくなる」

平次は自分に言ひ聽かせるやうに、顎をしやくるのです。

「わツ、親分、大變なことになりましたよ」

ガラツ八の八五郎が、泳ぐやうに飛込んで來たのは、その翌る日のまだ薄暗い時分でした。明神下の平次の家も、早起きの女房お靜が漸く表戸を開けたばかりといふところ。

「何んて聲だ、御町内の方が胆をつぶすぜ、まだ夜が明けたばかりといふのに」

「そんなことに係り合つちや居られませんよ、龜澤町の加納屋で、二人目が殺されたんだ」

「お前はまた、どうしてそんな事を?」

平次も合點が行きませんでした。昨日夕方、平次と一緒に小梅から歸つた筈のガラツ八が、龜澤町の事件を嗅ぎ出して來る筈は無かつたのです。

「親分と一緒に、向う柳原のあつしの家へ歸つたのは、もう薄暗くなつてゐたでせう」

「それで?」

「早速飯にして、床へ入つたが、さて寢付かれねえ、しよんぼり歸つていつたお品さんのことが氣になつて――お節介なやうだが、飛び起きて、龜澤町へいつてみましたよ、もう亥刻半(十一時)過ぎ子刻近かつたでせう」

「なる程な、お節介には違げえねえが、お前がやりさうなことだ」

「ところが、加納屋の店は、どんでん返しを打つたやうな騷ぎだ。前の晩に手代の磯松を殺した下手人もわからねえといふのに、翌る晩の昨夜、二番目の伜の吉三郎といふ、十七の若いのが、庭で突殺されてゐるぢやありませんか」

八五郎の話には手眞似が入ります。

「それからどうした」

「石原の子分衆と一緒に、一と晩調べてみたが、口惜しいけれど、なんにもわからねえ、お品さんも持て餘して、もう一度錢形の兄さんにお願ひしてくれと手を合せて拜むから、足元のみえるのを合圖に龜澤町を飛びだしてきましたよ」

「フーム」

「まづ、最初から話すと、かうです」

「待ちなよ、お前の話を聽いてゐちや、日が高くなりさうだ、それになるべく、この眼で現場をみるまで、お前の量見なんか耳へいれない方がいゝかも知れない」

「チエツ、そんなにあつしは頼りない人間ですかね」

「いや、頼りがあり過ぎて、おれまでお前の利巧に引ずり廻されるんだ、サアいかうぜ、八」

平次は手輕に支度をして、八五郎を促すのです。

「へツ、あつしのいふことなんかどうでも構はねえとして、昨夜からなんにも食はずに働いてゐる、あつしの腹はどうして下さるんで?」

「まア、八五郎さん」

お靜はあわてました、ツイ話の重大さに釣られて八五郎の丈夫な胃の腑の存在を忘れてゐたのです。

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