一
「へツへツ、親分、今晩は」
ガラツ八の八五郎、箍のはじけた桶のやうに手のつけやうの無い笑ひを湛へ乍ら、明神下の平次の家の格子を顎で――平次に言はせると――開けて入るのでした。それは兩の手で彌造を拵へて、格子をまともに開けられる筈はないからだといふのです。
五月のある日、爽やかな宵、八が來さうな晩でしたが、お仕着せの晩酌を絞つて、これから飯にしようといふ頃になつて、漸く個性的な馬鹿笑ひが、路地の闇をゆさぶるのでした。
「お前が笑ひ込んで來ると、御町内の衆は皆んな膽を潰すぢやないか、何がそんなに可笑しいんだ」
「へエ、あつしはどうかしてはゐませんか、親分」
「臍のロクロが、少し損じて居るんだらうよ、どうしても笑ひの止らないところを見ると」
「そんな間拔けな話ぢやありませんよ、あつしといふ人間は、どうして斯うも、綺麗な新造に好かれるかと――へツ、へツ」
「止さないかよ、馬鹿々々しい、お靜はお勝手口から逃出したぢやないか、お前の話を聽いて居ると、命に拘はる」
「それほどでも無いでせう。兎も角、田原町から此處まで來る間に三人の新造に首つ玉に噛りつかれたんだから、大したものでせう」
「少し變だな、氣は確かゝ。おい、野良犬にじやれつかれたのを、新造と間違へたわけぢやあるまいな」
「飛んでも無い、野良犬があんな結構な香りを匂はせるもんですか」
八五郎はやつきとなります。
「どうも少し變だぜ、順序を立てゝ話して見な」
「順序を立てると、先づ田原町の八人藝、苫三七郎の家へ行つたことから話が始まります」
「苫三七郎――フム、變な男と掛り合ひをつけたものだな」
「御存じの通り、江戸中何處へでも、小屋を掛けて藝當を始めるから苫三七郎、ちよいと貧乏臭くて器用で、世間では大したものでないやうに思つて居るが、座頭の三七郎はなか/\の藝達者で、その上氣持の良い男だ。あつしとは長い間の附き合ひで」
「妙な友達を持つたものだな、まア、宜い。先を話せ」
「その三七郎の藝を一度親分に見せ度いな、家の藝は手踊だが、物眞似、小唄、一人芝居から、品玉までやるといふ藝達者で、とりわけ、二つ面を使つての所作は大したものですぜ」
「それがどうした」
八五郎の話は長くなりさうです。
「その三七郎が、兩國廣小路に小屋を掛ける時、あつしが世話をしたのが縁で懇意になり、ちよい/\行つて無駄話をしてをりますがね」
「フーム」
「その三七郎が此間から、妙にふさいでゐるから、何うしたことかと、二三度訊いたら、すまねえが、八五郎親分にはうつかり話せねえ、――と笑つて相手にしなかつたんで」
「――」
「ところが、今日といふ今日、田原町の三七郎の家で一杯飮んでゐると、よく/\思ひ詰めたらしく、『どうも氣になつてならねえことがあるから、こいつを當分預かつて置いて、萬一のことがあつたら開けて見てくれ』と、ひどく勿體をつけて、紙に書いたものを、小さく疊んで、封をしてあつしに預けましたよ」
「フム、面白さうな話だが、――それからどうしたんだ」
「田原町を出たのは薄暗くなつてから、ホロ醉ひ機嫌で、鼻唄なんか歌つて門跡前まで來ると、いきなり一人の女が、前から飛んで來て、ドカンと突き當るぢやありませんか」
「どんな女だ?」
「若くて綺麗な女でしたよ、薄暗くてよくは見れなかつたが、若くて綺麗だつたことにしなきや、突き當られたあつしが納まりませんよ。兎も角、前屈みになつたまゝ、島田髷をあつしの鼻のあたりへ叩きつけて、あれツとか何んとか、精一杯噛りつきましたが、氣が付いて極りが惡くなつたものか、あつしが備へを立て直して、女の顏を覗いて見ようとすると、キヤツともスウとも言はずに、宵闇の路地の中に消えてしまひましたよ」
「何んか盜られはしなかつたのか」
「盜られるやうな氣のきいたものは持つちや居ません。あつしは御存じの通り、江戸の町を歩く時は、路用は持たねえことにして居るんで」
「路用だつてやがる、少しは小錢を持つて歩け。それがたしなみといふものだ」
「へツ、そのたしなみ、生憎、懷中に三日と逗留したことはありませんよ、空つぽになると、紙入ほど邪魔なものはありやしません」
「煙草入位はあるだらう」
「それも、この月に入つてからは、お先煙草ときめましたよ。なまじつか、空つぽの煙草入をぶら提げて歩いて、人樣の煙草を貰つて吸ふより、煙草入を忘れて來たといふことにした方が立派でせう」
「立派だつてやがる、――成程それだけサバサバして居ると、巾着切が車掛りで攻め寄せても驚かねえ」
「でせう、だから此方は膽がすわつてますよ。三七郎に預つた代物は、肌守りの中へ封じ込んであるし、此のまゝで泥棒の巣へ轉がされても、憚りながら盜られるものなんかありやしません」
「で、二度目は」
「向柳原の叔母さんの家へ寄つて、――晩飯は濟んだし、これから明神下の親分のところへ行くから、歸りは遲くなるかも知れない、――と言つて、路地の外へ出ると、今度は背後から、恐ろしく肥つた油臭いのが『口惜しいツ』と首つ玉へ噛りつきましたよ」
「油臭いの?」
「へツ、少し胸の惡くなるやうな、變な匂ひでしたよ。あんなのは、盆と正月にしか、髮を洗ひませんよ。――いきなりあつしの首つ玉にぶら下がつて、懷ろへ手が入るぢやありませんか」
「それも顏を見なかつたのか」
「小話の太田道灌ぢやないが、あの路地は歌道が暗い」
「洒落を言つてはいけない」
「肥つた、ネツトリした女でしたよ。口惜しいが、これは若くなかつたやうで」
「三度目は?」
「明神下のこの路地の入口ですよ」
「フーム、お膝元にも、そんな化け物は居たのか」
「その上、こいつは化物の方でも大眞打で、横から這出して、あつしの腰へ抱きつくと、――兄さん逢ひ度かつた――と來た」
「それは若かつたか」
「お膝元の路地も太田道灌で、年もきりやうもわからないが、何しろ、ヤハヤハと絡みついて、鼻聲で囁いて、いや、その惱ましいといふことは」
「髮は?」
「大一番の島田」
「大一番の島田は變だな」
「兎も角、なよ/\としなだれ掛かるから、少し氣味が惡くなつて、――おい人違ひだよ、――と突つ放して、此處へ飛込みましたがね、一と晩に若い女三人に獅噛みつかれたのは、あつしも生れて始めてですよ。江戸といふところは、若い者には張合のあるところだと思ふと、腹の底から嬉しくなつて」
八五郎はさう言つて又ニヤニヤするのです。