Chapter 1 of 7

「親分、向島は見頃ださうですね」

ガラツ八の八五郎は、縁側からニジり上がりました。庭一杯の春の陽ざし、平次の軒にもこの頃は鶯が來て鳴くのです。

「さうだつてね、握り拳の花見なんかは腹を立てゝ歸るだけだから、お前に誘はれても附き合はねえつもりだが――」

平次は相變らず世上の春を、貧乏臭く眺めて居るのでせう。

「へツ、不景氣ですね、錢形の親分ともあらうものが、――。駒形の佐渡屋が、三日に一度でも、七日に一度でも宜い、錢形の親分が見廻つてくれたら、用心棒代と言つちや惡いが、ほんの煙草錢だけでも出しませうと、執こく持込んだのも斷つたでせう」

「馬鹿なことを言へ。金持の用心棒になる位なら、俺は十手捕繩を返上して、女房に駄菓子でも賣らせるよ。向島へ誘ひ出さうといふのも佐渡屋に誘はれたのぢやないか。あすこには結構な寮がある筈だが」

「呆れたものだ」

「俺の方が餘つ程呆れるよ。そんなに向島が眺めたかつたら、縁側に昇つて背伸して見ろ、梁に顎を引つかけると、丑寅の方にポーツと櫻が見える――」

「冗談言つちやいけません。いくら背伸したつて、明神下から向島が見えますか」

「見えなきや諦めろ、ロクロツ首に生れつかなかつたのが、お前の不運だ」

「有難い仕合せで」

額を平手で叩いて舌をペロリと出し乍らも八五郎は諦めてしまひました。此上セガむと平次は花見の入費に女房の身の皮を剥ぎかねないのです。正月からの交際や仕事の上の諸入費で、親分の平次が首も廻らないことを、八五郎はよく知つてゐたのです。

それでも諦め兼ねたものか八五郎は、良いお天氣に誘はれて、フラフラと向島に行つたのも無理のないことでした。

駒形の地主で佐渡屋平左衞門、實は八五郎に旨を含めて、その日向島諏訪明神裏の寮に花見といふことにして錢形平次をつれ込み、一杯御馳走した上で、平次に頼み度い用事があつたのですが、金持ちに誘はれてノコノコ呑みに出かける平次でもなく、うまく持ちかけた八五郎の誘ひもはぐらかされて、仕樣ことなしに、八五郎一人だけ、佐渡屋の寮に面目次第もない顏を持込んだわけです。

「まア/\宜い、八五郎親分も氣になさることは無い。餘計な細工をして、堅いので通つた錢形の親分を、おびき出さうとしたのが惡かつたよ。まア/\花でも見乍ら、ゆつくり呑んで行つて下さい」

佐渡屋平左衞門は、まことによくわかつた旦那でした。その頃の大通の一人で、金があつて智慧があつて、男前が立派で、よく氣がつくのですから、誠に申分の無い人柄でした。

「ところで、親分に御相談といふのは、どんなことでせう。あつしでは役に立ちませんか。花を眺めて、御馳走になりつ放しぢや、氣になりますね」

寺島村の田圃から、遠く櫻の土手を見晴らした南座敷に、佐渡屋平左衞門と八五郎は相對しました。この時主人の平左衞門は四十前後、色の淺黒い、燻したやうな澁い感じで、態度の落着いて居るのは、その信心のせゐだと言はれて居りました。

一方、相手の八五郎はかなり醉が廻つて居りました。本人はその積りは無くとも、なんとなく絡んだ調子になります。

「飛んでも無い。八五郎親分で役に立たないなんて、そんなわけぢやありませんよ。あんまり馬鹿々々しい話で、ツイ言ひ出し兼ねて居るんで」

「へエ、それは又變ですね。話にならないほどのつまらない事で、錢形の親分を、用心棒に雇はうと――」

「錢形の親分を用心棒などと、そんな大それた望みはもちません――月に二兩の煙草代と申したのは、私が惡うございました。實はね、八五郎親分」

「へエ、へエ」

「この私は、命を狙はれて居るやうな氣がしてならないのです」

「命を、ね。誰がまた、そんなものを?」

八五郎も少し眞劍になりました。命を狙ふといふのは、容易ならぬことです。

「それがわかれば、手輕に防ぎもつきますが、全く見當がつかないのに、間違ひもなく私の命が狙はれて居るんだから、こいつは手のつけやうがありません。錢形の親分のやうな方でも相談相手になつて下さらなきや――」

明かに、八五郎は甘く見られたわけですが、本人はそんな氣にもならないほど、もうお酒が廻つて居りました。

「すると、旦那のやうな良い人を怨んでゐる者もあるわけで?――」

「怨んでゐる者ばかりが、命を狙ふとは限りません。私を羨やむ者、私が生きてゐると邪魔になるもの、世の中には、いろ/\の敵があると思はなきやなりません」

「例へば?」

「駒形の私の店の隣は、丹波屋の淺吉さん、地境のことから公事(訴訟)になつて、私と私の弟の伯次をうんと怨んで居ります。義理の弟の伯次は、公事師見たいなことが大好きで」

「それぢや、相手はわかつて居るぢやありませんか」

「いや、なか/\以つて、丹波屋さんは頑固で始末は惡いが、人間は立派な人で、間違つたことなどをする人ではありません」

「すると?」

「女房のお榮も、召使のお房のことで、私を怨んでゐないとは言ひ切れません」

江戸の大通ともあらうものが、召使にチヨツカイを出して内儀にうんと油を絞られてゐることでせう。

「それだけで?」

「まだあります。手代の駒三郎は、これは遠縁の者ですが、私の娘のお春と一緒になり度いと言ひ出し、親類の者に頼んで執こく言つて來ましたが、身持がよくない上に、娘の婿といふのは、佐渡屋の跡取を狙つてのことで、腹が見え透いてゐるから、手ひどくはねつけました。娘のお春は十六ですが、男つ振りの良い駒三郎が、夢中になるやうなきりやうぢやございません」

「成程ね」

「まだありますよ。弟の伯次だつて、私には義理のある仲で、隨分よくしてやつて居る積りでも、何彼と不足もあるでせう。怨めば怨むわけで」

斯う聽くと、有徳人の佐渡屋平左衞門も、全く八方敵の中に居るわけです。

「で、どんなことがあつたんで?」

「さア、これぞと申すほどのことはありませんが、何となく無氣味で、夜中に寢首を掻かれはしないか、三度の食事の中に、毒でも入つてはゐないかと、氣の安まる隙もありません」

「へエ、そいつはどうも、手のつけやうがありませんね」

八五郎もさすがに匙を投げてしまひました。

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