Chapter 1 of 18
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七月二十五日、自分は湯ヶ島温泉の落合樓に滯在してゐた。朝飯の膳に向つた時、女中がさりげない風でたづねた。
「小説家の芥川といふ人を知つてゐますか?」
「うん、知つてる。それがどうした?」
「自殺しました。」
「なに?」
自分は吃驚して問ひかへした。自殺? 芥川龍之介が? あり得べからざることだ。だが不思議に、どこかこの報傳の根柢には、否定し得ない確實性があるやうに思はれた。自分はさらに女中に命じて、念のために新聞を取り寄せさせた。けれども新聞を見る迄もなく、ある本能の異常な直覺が、變事の疑ひ得ないことを斷定させた。
何事か、ある説明のできない不安な焦燥と、恐怖に似た眞青の感情とが、火のやうに自分の全神經を驅けまはつた。彼、つい旅行に出る數日前に、あれほど親しく逢つて話した彼が、眞實にも自殺をしたのだ。何たる意外、何たる青天の霹靂だらう。むしろ自分は、荒唐無稽の夢にうなされてるやうな感じもした。しかし心の隅の一方では、どこかまたそれが豫期されて居り、或る自覺のない意識の影で、内密のものに觸れたやうな思ひもした。
「やつたな!」
新聞の寫眞を見た時、悲痛に充ちた自分の心は、唇を噛んで低く呻いた。自分は苦しくなり、恐ろしくもなつてきた。頭腦が急に充血して、何事も考へることができなくなつた。何かしら、これは大變な事件だと思つた。じつとしてゐる場合でないと思つた。そして夢遊病者のやうに立ちあがり、半ば馳足で川上にある旅館をたづねた。その旅館(湯本館)には尾崎士郎君の夫妻が居た。尾崎君は吃驚し、呆然とし、それから異常な感激にうたれて立ちあがつた。最近尾崎君は、私を通じて芥川君の人格につき知る所が多かつたのである。