Chapter 1 of 7

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散文詩・詩的散文

萩原朔太郎

SENTIMENTALISM

センチメンタリズムの極致は、ゴーガンだ、ゴツホだ、ビアゼレだ、グリークだ、狂氣だ、ラヂウムだ、螢だ、太陽だ、奇蹟だ、耶蘇だ、死だ。

死んで見給へ、屍蝋の光る指先から、お前の至純な靈が發散する。その時、お前は、ほんたうに OMEGA の、青白い感傷の瞳を、見ることが出來る。それがおまへの、ほんたうの、人格であつた。

なにものもない。宇宙の『權威』は、人間の感傷以外になにものもない。

手を磨け、手を磨け、手は人間の唯一の感電體である。自分の手から、電光が放射しなければ、うそだ。

幼兒が神になる。

幼兒は眞實であり、神は純一至高の感傷である、神の感傷は玲瓏晶玉の如くに透純である。神は理想である、人は神になるまへに硝子玉の如く白熱されねばならない。

眞實は實體である、感傷は光である。

幼兒の手が磨かれるときに、琥珀が生れる。彼は眞珠となる。そして昇天する。

實體の瓦石は、磨いても光らない。

實體の瓦石とは、生れながらの成人である。パリサイの學徒である。眞實のない製詩職工である。

涙の貴重さを知らないものに眞實はない。

哲人は詩人と明らかに區別される。彼は、最もよく神を知つて居ると自負するところの、人間である。然も實際は、最もよく神を知らない、人間である。彼は偉大である、けれども決して神を見たことがない。

神を見るものは幼兒より外にない。

神とは『詩』である。

哲學は、概念である、思想である、形である。

詩は、光である、リズムである、感傷である。生命そのものである。

哲人も往往にして詩を作る。ある觀念のもとに詩を作る。勿論、それ等の詩(?)は、形骸ばかりの死物である。勿論、生命がない。感動がない。

然るに、地上の白痴は、群集して禮拜する。白痴の信仰は、感動でなくして、恐怖である。

下品の感傷とは、新派劇である。中品の感傷とはドストヱフスキイの小説である。上品の感傷とは、十字架上の耶蘇である、佛の涅槃である、あらゆる地上の奇蹟である。

大乘の感傷には、時として理性がともなふ。けれども理性が理性として存在する場合には、それは觀念であり、哲學であつて『詩』ではない。

感傷の涅槃にのみ『詩』が生れる。即ち、そこには何等の觀念もない、思想もない、概念もない、象徴のための象徴もない、藝術のための藝術もない。

これはただの『光』である。

七種の繪具の配色は『光』でない。『光』は『色』のすさまじい輪轉である。純一である。炎燃リズムである。そして『光』には『色』がない。

色即是空、空即是色。

藝術の生命は光である。斷じて色ではない。

リズムは昇天する。調子は夕闇の草むらで微動する。

我と人との接觸、我と物象との接觸、我と神との接觸、我と我との接觸、何物も接觸にまさる歡喜はない。この大歡喜が自分の藝術である。

自分は神と接觸せんとして反撥される、自分は物象と接觸せんとして反撥される、自分は戀人と接觸せんとして反撥される。その反撥の結果は、何時も何時も、我と我とが固く接觸する。接觸の所産は詩である。

未來、自分は感傷の涅槃にはいる、萬有と大歡喜を以て、接觸することが出來る。現在、及び過去の自分は未成品である。道程である。――人魚詩社宣言――

遊泳

白日のもと、わが肉體は遊樂し、沒落し、浮びかつ浪を切る。

けふわが生くるは、わが遊戲をして、光り、かつ眞實あらしめんためなり。わが輝やく城の肢體をしてみがきしたしく魚らと淫樂せしめてよ。

奇蹟金銀

祈祷晶玉

海底詠嘆

海上光明

しんしんたる浪路のうへ、祈れば我が手につながれ、あきらかに珊瑚の母體は昇天す。

母體は昇天す、このときみなそこに魚介はしづみ、いつさいに哀しみの瞳をあげて合唱しあなや合讚したてまつる。

さんたくるす

さんたくるす

遊樂至上のうみのうへ、岬をめぐる浪のうたかた、浪とほれば鳥禽の眼にも見えず、況んや白日の幽靈は、いと遙かなる地平にかげをけちゆくごとし。

ああ、まぼろしのかもめどり、渚はとほく砂丘はさんらん、十字の上に耶蘇はさんらん、女の胴は砂金に研がれ、その陰部もさんらん、光り光りてあきらかに眞珠をはらむ。

白日のもと、わが肉體は遊樂し、沒落し、浮びかつ浪を切る。

秋日歸郷

―妹にあたふる言葉―

秋は鉛筆削のうららかな旋囘に暮れてゆく。いたいけな女心はするどくした炭素の心の觸覺に、つめたいくちびるの觸覺にも涙をながす。

しみじみと涙をながす。とき子よ、君さへ青い洋紙のうへに魚を泳がしむるの秋だ。眞に秋だ。

ああ、春夏とほくすぎて兄は放縱無頼、酒狂して街にあざわらはれ、おんあい至上のおんちちははに裏切り、その財寶を盜むものである。

おん身がにくしんの兄はあまりに憔悴し、疾患し、酒亂のあしたに菊を摘まむとして敬虔無上の涙せきあへぬ痴漢である。

また兇盜である、聖者である。妹よ、兄の肉身は曾て一度も汝の額に觸れたことはない。

見よ、兄の手は何故にかくもかくも清らに傷ましげに光つて居るのか、

この手は菊を摘むの手だ、

この手は怖るべき感電性疾患の手だ、

また涼しくも洋銀の柄にはしり、銀の FORK をしてしなやかに皿の魚を舞はしむる風月賀宴の手だ。

兄は合掌する。

兄は接吻する。

兄は淫慾のゆふべより飛散し散亂し、しかも哀しき肉身交歡の形見をだにもとめない頽廢徳者だ。

おん身の兄はおん身を愛することによりて、おん身に一ダースの鉛筆と一かけの半襟を買ふことにすら、尚かぎりなき愛惜の涙を、われとわれの眞實至聖の詩篇に流さんとする者である。

兄は東京駒込追分の坂路に夕日を浴びて汝に水桃を捧げんとする。

想ふ、かつて内國勸業博覽會の建物は紙製の樓塔に似た一廓をなし、飛行機のプロペラその上に鳴る。

兄は哀しくなる、妹よ、都にあれば、しんに兄は哀しくなる。

すべては過去である、そして現在である。

遠ければ遠いほど、兄の眞實は深くなり、兄の感傷はたかぶる。

妹よ、

黎明に起きて兄の生きた墓前に詣でてくれ。み寺に行く路は遠くとも、必ずともに素足にて徒歩まうでかし。なんぢの白いあなうらもつめたい土壤と接觸するときに、兄の戀魚はまあたらしい墓石の下によろこびの目をさます。その兄のめざめを感じ、おまへの素足に痙攣する地下電流の銅線をふんでわたれ。きけ、遠い遠い靈感の墓場で兄の精靈がおまへを呼んで居る。

妹よ、

み寺に行く途は遠くとも朝のちよこれいとの興奮を忘れるな。

妹よ、

凝念敬具。

おんみが菊をさげて歩むの路を清淨にせよ。

ああ、秋だ、

秋だ、

兄の手をして血縁の墓石にかがやかしむるの秋だ。

妹よ、

兄が純金の墓石の前に、菊を捧げて爾が立つたとき、兄はほんたうにおん身に接吻する。おん身のにくしんに、額に、脣に、乳房に、接吻する。

妹よ、

いまこそなんぢに告ぐ、

われらいかに相愛してさへあるに、兄の手は、足は、くちびるは、かつて一度もなんぢの肉身に觸れたことさへないのである。

とき子よ、

兄は哀しくなる、しんに兄は哀しくなる。

めいりいごうらうんど、靈性木馬のうへのさんちまんたりずむをきみは知るか。

木馬はまはる、

光はまはる、

兄の肉體は疾風のやうに旋囘する、

兄の左に少女がじつと立つて居る、

白い前かけをした娘だ、

娘のくちびるが、あかいくちびるが、林檎が、しだいに、あざやかに、私のくちびるを追ひかける。

めいりいごうらうんど、

木馬がまはる、

世界がまはる、

光がまはる、

このる、むらさきの矢がすりの狂氣した色の世界に娘は立つて居る。

さうして、また、くちびると、くちびると。

秋だ、

兄の肉身はかうして靈感の天界へ失踪する、

はなればなれのくちびるとくちびると、

木馬は都會を越え群集を越え雜鬧を越え、いつさいを越えて液體空氣の圈中にほろび行くまで、

おんみよ、

異性のりずむとはかうも遠く近く夢みるごとく人の世にうら哀しいものか、

淺草公園秋の夕ぐれ、

めいりいごうらうんど靈性木馬の旋囘、

磨きあげた鋼鐵盤の白熱轉だ、

想へ、切に切にそが上に昏絶せむとする兄の痩せはてた肉身のいたましさを、

兄は畜生にもあらず、

兄は佛身にもあらず、

兄はいんよく極まりなき巷路の無名詩人だ、

いもうとよ、

なんぢの信仰を越えて兄を愛するとき、なんぢのもろ手を合せてくれ。遠い故郷から、兄の眞實のために聖母のまへに合掌して祈つてくれ。

秋だ、

すべて私を信頼し、私を愛するもののために、私はかぎりなき涙を流す。

いぢらしい私の涙は遠く別れた同性の友のうへにもながれる。

友を思うて都の高臺にいちにちを泣きくらす。松の青葉に晴れすぎし天景のおもひでにさへさしぐむものを。

いもうとよ、

光る兄の靴からかずかぎりなき私の旅行記念を吸つてくれ、

魚に似たる手をもつて私の哀傷を擽つてくれ、

けふちちははの家にかへらば、あした遠い都に兄の生きた墓場をきづいてくれ、

菊の、光る、感傷の、純金の墓場をきづいてくれ、

妹よ、

兄の肉と血をもつて爾の愛人にはなむけするな、

兄の身は疾患頽唐のらうまちずむ、

兄の靈智は遠いけちえんの墓石に光るラヂウム製の青い螢だ、

妹よ、祈る。

とりわけてなんぢのをさな兒のうへにも榮光あれかしと。

感傷詩論

感傷至極なれば身心共に白熱す、電光を呼び、帷幕を八裂するも容易なり。

天使も時に哀しめども蛇は地上に這ひて泣かず、感傷の人は恆に地に立ちて涙をのむ。

感傷必ずしも哀傷にあらず、憤怒も歡喜もその極に達すれば涙ながる、然れども涙なきものは感傷にあらず。

感傷なき藝術は光なき晶玉の如し、實質あれども感動なし。

女人に感傷なし、然れども感傷の良電體。

ひとびとよ、美しきひとびとよ、つねに君はせんちめんたるなれ。

昔より言ふごとく死人は白玉樓中にあり。

感傷至上の三昧は玲瓏たり、萬有にリズムを感じ、魚鳥も屏息し、金銀慟哭す。

純銀感傷の人室生犀星。

感傷の人犀星に逢へば菓子も憔悴す。

感傷は理智を拒まず、却つて必然に之を抱擁す、

感傷とは痴愚の謂にあらず、自覺せざる哲理なり、前提を忘れたる結論なり。而して藝術と科學との相違は單に此の一點に存す。

耶蘇の素足は砂にまみれ、その手は奇蹟を生み、その言葉は感傷に震へたり。彼の説くところは道理にあらずして信仰なりき、概念にあらずして祈祷なりき。然もたれか聖書に哲學なしと言ひ得るものぞ。

理智が感情と竝行し、或は之を超越せる場合に於ては祈祷あることなし。ただ感情が理智を慴伏する刹那にのみ詠嘆と祈祷はあり。

祈祷とは奇蹟を希願ふの言葉、而して詩は地上の奇蹟。

涙の甘くして混濁せるものを詠嘆と呼び、涙の苦くして透純せるものを感傷と呼ぶ。

詠嘆もまた幼年期の感傷と言ふを得べし、而して短歌の生命は詠嘆を出でず、格調に捉はるれば也。

感傷が白熱するとき言葉は象徴の形式を帶ぶ、

あらゆる藝術の至上形式は象徴にあり、

然りと雖も形式は結果にして目的にあらず、象徴のための象徴の如きは畢竟藝術上の遊戲にあらずして何ぞや。

象徴とは必ずしも不徹底乃至朦朧を意味するものにあらず、ロダンの藝術が如何に鮮明なる輪廓を有するかを想へ、ゴツホの藝術が如何に強烈なる色彩を有するかを想へ。然もたれか彼等に象徴なしと言ふものぞ。

刷毛を以てある種の畫面を洗ふは象徴の一手段なり、然れども全般の手段にあらず。象徴の意義をしかく縹渺模糊たる境地にのみ限らんとするは甚だしき偏見なりと言はざるべからず。煙と霧とを描くことをもて我の藝術なりと言ふはよし、然れども太陽の象徴を畫くものを目して異端となすは甚だ良ろしからず。斯くの如き形式のものは象徴なり、斯くの如き形式のものは象徴にあらずと言ふは愈不可なり、恐らくは象徴詩をして遊戲に墮落せしめん。詩の生命は形式にあらずしてリズムにあれば也。

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