Chapter 1 of 3

ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間との交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽せよう。到底及びもつかないことだ。

微妙な心の動きは、わが心の姿さえ、動揺のしやすくて、信実は書きにくいのに、今日の問題の女史をどうして書けよう。ほんの、わたしが知っている彼女の一小部分を――それとて、日常傍らにある人の、片っぽの目が一分間見ていたよりも、知らなすぎるくらいなもので、毎朝彼女の目覚る軒端にとまる小雀のほうが、よっぽど起居を知っているともいえる。ただ、わたしの強味は、おなじ時代に、おなじ空気を呼吸しているということだけだ。

火の国筑紫の女王白蓮と、誇らかな名をよばれ、いまは、府下中野の町の、細い小路のかたわらに、低い垣根と、粗雑な建具とをもった小屋に暮している子さんの室は、日差しは晴やかな家だが、垣の菊は霜にいたんで。古くなったタオルの手拭が、日当りの縁に幾本か干してあるのが、妙にこの女人にそぐわない感じだ。

面やせがして、一層美をそえた大きい眼、すんなりとした鼻、小さい口、鏝をあてた頭髪の毛が、やや細ったのもいたいたしい。金紗お召の一つ綿入れに、長じゅばんの袖は紫友禅のモスリン。五つ衣を剥ぎ、金冠をもぎとった、爵位も金権も何もない裸体になっても、離れぬ美と才と、彼女の持つものだけをもって、粛然としている。黒い一閑張の机の上には、新らしい聖書が置かれてある。仏の道に行き、哲学を求め、いままた聖書に探ねるものはなにか――やがて妙諦を得て、一切を公平に、偽りなく自叙伝に書かれたら、こんなものは入らなくなる小記だ。

子さんは、故伯爵前光卿を父とし、柳原二位のお局を伯母として生れた、現伯爵貴族院議員柳原義光氏の妹で、生母は柳橋の芸妓だということを、ずっと後に知った女だ。夜会ばやり、舞踏ばやりの鹿鳴館時代、明治十八年に生れた。晩年こそ謹厳いやしくもされなかった大御所古稀庵老人でさえ、ダンス熱に夢中になって、山県の槍踊りの名さえ残した時代、上流の俊髦前光卿は沐猴の冠したのは違う大宮人の、温雅優麗な貴公子を父として、昔ならば后がねともなり得る藤原氏の姫君に、歌人としての才能をもって生れてきた。

実家だと思っていたほど、可愛がられて育った、養家親の家は、品川の漁師だった。その家でのびのびと育って年頃のあまり違わない兄や、姉のある実家に取られてから、漁師言葉のあらくれたのも愛敬に、愛されて、幸福に、華やいだ生涯の来るのを待っていたが、花ならばこれから咲こうとする十六の年に、暗い運命の一歩にふみだした。ういういしい花嫁君の行く道には、祝いの花がまかれないで、呪いの手が開げられていたのか、京都下加茂の北小路家へ迎えられるとほどもなく、男の子一人を産んで帰った。その十六の年の日記こそ、涙の綴りの書出しであった。

芸術の神は嫉妬深いものだという。涙に裂くパンの味を知らない幸福なものには窺い知れない殿堂だという。

だが、子さんは明治四十四年の春、廿七歳のとき、伯爵母堂とともに別居していた麻布笄町の別邸から、福岡の炭鉱王伊藤伝右衛門氏にとつぐまで、別段文芸に関心はもっていられなかったようだった。竹柏園に通われたこともあったようだったが、ぬきんでた詠があるとはきかなかった。しかし、その結婚から、子さんという美しい女性の存在が世に知られて、物議をも醸した。それは、伝右衛門氏が五十二歳であるということや、無学な鉱夫あがりの成金だなぞということから、胡砂ふく異境に嫁いだ「王昭君」のそれのように伝えられ、この結婚には、拾万円の仕度金が出たと、物質問題までが絡んで、階級差別もまだはなはだしかったころなので、人身御供だとまでいわれ、哀れまれたのだった。

人身売買と、親戚補助とは、似ていて違っているが、犠牲心の動きか、強いられたためか、父と子のような年のちがいや醜美はともかくとして、石炭掘りから仕上げて、字は読めても書けない金持ちと、伝統と血統を誇るお公卿さまとの縁組みは、嫁ぐ女が若く美貌であればあるだけ、愛惜と同情とは、物語りをつくり、物質が影にあるとおもうのは余儀ないことで、それについて伯爵家からの弁明はきかなかった。

だが、そのままでは、子さんはありふれた家庭悲劇の女主人公になってしまう。甘んじて強いられた犠牲となったのかどうか。それは彼女の後日が生きて語ったではないか。

この手紙は今年の春(大正十一年)中野の隠れ家からうけた一節で、

只今お手紙ありがたく拝見いたしました。実はわたくし、二、三日前からすこし気分がすぐれませんので床についております。急に脈がむやみと多くなって、頭がいやあな気持ちになる、なんとも名のつけられない病気が時たま起りますので。でも今日は大分よろしゅう御座いますから、早速御返事申上げて置こうと、床の中での乱筆よろしく御判読願い上げます。(中略)仰せの通り世間のとかくの噂の中にはずい分、いやなと思う事もないでも御座いませんけど、これも致方がないなり行きだと、今までもあまり気にかけたことも御座いません。

私信の一部を公にしては悪いが、わたしの筆に幾万言を費して現わそうとするよりも、この書簡の断片の方がどれだけ雄弁に語っているか知れない。はじめからそういうふうに冷淡に、噂を噂として聞流す女性はすくない。

いつぞや九条武子さんと座談のおり、旅行のことからの話ついでに、

「別府にはさまの御別荘がおありですから、それはよろしう御座いますの。随分前から御一緒に行くお約束になっていて、やっと参りましたのよ。伊藤さんがお迎えながらいらっしゃるはずでしたところ、風邪をおひきになったって電報が来たものですから、さまは急いでお帰りになりましたの。だから残念でしたわ。」

語る人のあでやかな笑顔。それよりも前に、わたしはかなり重く信用してよい人から、こういうふうにも聞いていた。

白蓮さんは伝右衛門氏のことを、此方が、此方がといわれるので、何となく御主人へ対して気の毒な気がして返事がしにくかった。それに、あの人の歌は、どこまでが芸術で、どこまでが生活なのか――あの生活が嫌なのだとはどうしても思われない。

手紙のことといい、武子さんの話の断片といい、この歌の評といい、突然なので、知らない読者には解しかねるであろうが、この間には、例の白蓮女史失踪事件があり、彼女の生活の豪華であったことが、知らぬものもないというほどであり、和歌集『踏絵』を出してから、その物語りめく美姫の情炎に、世人は魅せられていたからだ。

この結婚は、無理だというのが公評になっていた。作品を通して眺めた夫人は、キリスト教徒のためされた、踏絵や、火刑よりも苦しい炮烙の刑にいる。けれど試す人は、それほど惨虐な心を抱いているのではない。それどころか、宝として確かりと握っていたのだとも思われる。冷たさにも、熱さにも、他の苦痛など、てんで考えている暇のない専有慾の満足と、自由を願うものとの葛藤だったのだ。もとより、いつも掴むものは強い力をもち、かよわいものが折り伏せられるのは恒だが――

Chapter 1 of 3