一 扁平な世界
悲喜劇にはじまった飛行機の太平洋横断は、実現までにどれほど騒々しいジャズの幾場面をもったものかしれないが、これにくらべると汽船のそれは、記録も怪しいくらい忘失された出来事のように見えて、じつははるかに大掛りなメロドラマだった。
汽船にだって賞金付で騒がれた歴史はある。一八二四年には、一定日数内に英印間を乗切った汽船にたいする八千ポンドの賞金がインドで発表された。そのため四百七十トン百二十馬力の汽船がデットフォードで造られ、翌二五年八月十六日にファルマウスを解纜、百十三日目にカルカッタに着いた。だが、賞金が出るくらいだから、大洋航路が汽船会社の算盤に合うのはまだまだのことだった。さてこそ、これと前後して、インド政府に身売のつもりで英国から押渡った汽船ファルコン号は、あわれ生新しい汽罐も両輪もはぎとられて、ただの帆船としてやっと買手がついたという。
大洋航路の汽船会社は、ようやく三十年代の終頃になって設立された。
東洋航路 The Peninsular & Oriental Steam Navigation Company(P & O), 1837
大西洋航路 The Cunard Company, 1838
太平洋航路 The Pacific Steam Navigation Company, 1840
だがこれで七つの海にことごとく汽船が通じたと考えてはならない。「太平洋汽船会社」とは名乗っても、実はリヴァープールと南米の太平洋岸チリ、ペルーをつなぐラインで、いにしえのバルボアのように、太平洋を覗いたというまでのことだ。サザンプトンを起点とする、P&O(彼阿)は、スエズを“overland route”で連絡しながら、一八四五年には香港まで延びた。しかし太平洋は依然一隻の汽船も渡らなかった。汽船にとって世界はまだ扁平だった!
太平洋を横断するための性能がまだ汽船になかったのであるか――昨今までの段階における飛行機のように?
どうして! すでに一八四三年に三千二百七十トン一千馬力というのが北大西洋に煙を吐いていた。よし両輪船だろうが、低圧の単式機関だろうが、炭庫を広くとりさえすれば、ボイラーの水は六十年代中頃まではふんだんに海水を使っていたのだ。実際これに似た技術条件の下で、英濠間を無寄港で乗切れる一万九千トンの巨船が、五十年代の海に浮んだものである!
で、渡ろうと思えば――渡るだけのことなら――いつでもできた。しかし、だいいち帆船にしてもが、一八四九年以前には、よくよくの珍しい例外はあったが、米支をつなぐのに太平洋を用いなかった。
日本開港の日までシナは扁平な世界および世界市場の極東端だった。三十年以来シナ市場は絶間ない英米競争の場所だった。一八四二年の五港開放以後、世界経済中に占めるシナ市場の位置――対支貿易の量――は、ことに重要性を帯びてきた。太平天国の乱によってシナ市場が閉鎖されたら欧洲に革命が起る、とマルクスが叫んだほど。
そのシナの茶とアメリカ人参の往返が太平洋を忌避し、太平洋が帆船にとっても超ゆべからざる地表の大クレヴァスだったわけというのは――
第一にアメリカ合衆国が一八四六年までは太平洋岸を所有していなかったこと。
第二に太平洋岸の米大陸が、一八四八年まで何らの市場を――なによりも人間そのものを約束していなかったことである。