一 著述家
慶応二年丙寅初冬付『西洋事情』初篇は出版後一年間の売捌高だけで、正版偽版とりまぜ十万部の上にのぼった。福沢諭吉生誕百年祭を祝うきょうび、日本の出版屋にとって涎の垂れる記録である。同書二篇(明治二年)で紹介されたウェーランド『経済要論』はこの年までにアメリカで二十数版を重ねた教科書だが、その二十数版の総部数はわずか五万、その五万を捌いた年月は三十年にわたっている。当年日本のプブリクムは、『西洋事情』の部数によれば、国際的に見ても驚異的な比率であろう。
けれどもこのとき著者福沢諭吉は、一年十万の洪水的読者層からは、完全に無縁な一介の文筆家であった。「無縁な」というのは政治的に無縁なる意味である。『西洋事情』(全集第一巻)初篇三巻は「独り洋外の文学技芸を講究するのみにてその各国の政治・風俗如何を詳かにせざれば、仮令ひ、その学芸を得たりとも、その経国の本に反らざるをもつて、啻に実用に益なきのみならず、却つて害を招かんも、亦計るべからず」という立場から、「英亜開版の歴史地理誌数書を閲し中に就いて西洋列国の条を抄約し、毎条必ずその要を掲げて、史記、政治、海陸軍、銭貨出納の四目と為し、即ち史記以つて時勢の沿革を顕はし、政治以つて国体の得失を明かにし、海陸軍以つて武備の強弱を知り、銭貨出納以つて政府の貧富を示」したものである。これに、文久元年渡欧に際して見聞した西洋一般の風俗制度の解説紹介を巻頭に付したものが『西洋事情』初篇三巻である。福沢の書は宿屋の客引案内にすぎぬものという蔭口が、慶応三年版『西洋旅案内』を中心としたものであろうと、これとかれと、つとめて政治的無関心を装うた上で何の差があろう。諭吉自身が抱懐する政治的見解はこの書のすべての頁から最大の注意をもって隠匿された。逆に諭吉の自由主義的徹底開国論が宣伝されている『唐人往来』は、「江戸鉄砲洲某」の匿名で、しかも版行されず写本として、幾分流布されたのみであった。『西洋事情』初篇三巻がこの『唐人往来』と同時代に――文久度帰朝後起稿されたものであることは高橋誠一郎氏の考証(『福沢先生伝』)がある。一方をついに版行せず、他方をしかも慶応二年冬まで待って版行した。すでに佐幕派にとっても倒幕派にとっても、『西洋事情』は自家政見のための辞引であり、語彙であった。一方偽装されたこの書の政治的無関心と、他方倒幕派そのものから「攘夷」のスローガンを陰に抛棄させた「慶応」度必至の内外諸政情と、相まって驚異的な十万の読者大衆をこの書に獲得させたのである。
無表情のまま日々江戸城内の外国方翻訳御用所へ出勤し、帰れば福沢塾で英語を教え、佐幕派の人間とも倒幕派の人間とも交際はあるが、政治的にはまるで関係しない。「徳川の政府に雇われたからというた所が是れはいわば筆執る翻訳の職人で……ただ職人の積りでおるのだから政治の考というものは少しもない」(『自伝』)。ひとり韜晦しながらせっせと印税を稼いだ。
『西洋事情』初篇三巻 慶応二年初冬
『雷銃操作』 慶応三年四月
『西洋旅案内』 同年七月
『条約十一国記』 同年十一月
『訓蒙窮理図解』 同年十二月
『西洋衣食住』(筆名片山淳之助)同年同月
『西洋事情』外篇三巻 同年同月
『兵士懐中便覧』 慶応四年七月
『洋兵明鑑』 明治元年晩冬
「彼の著作は、今浩瀚なる十七巻の全集として行われているが、その内容を検して見ると、その著述の多種多方面なること実に驚くの外はない。彼れは当時西洋の事情に対して殆ど無智識であった日本人に向って、世界の地理と歴史とを教え、物理科学を教え、天文学の初歩を教え……小銃射撃から攻城野戦の法をまで教えたのである。一例をいうと、往年日本の陸軍の小銃に改良を加えた有名な村田少将という銃法の大家があるが、この人のごときもまた射撃の事は始め福沢の著書に依て学んだということである。一人の学者著述家が、独りでこれだけ多種多様の仕事をするということは、今後においては全く不可能ではないかと思う」(小泉信三氏、「『英訳福翁自伝』の序」、『中央公論』十月号)。
その通りたり、それ以上たり。
この多方面の訳著は、今日のあらゆる投機的訳著業者の場合とまったく同様に、けっして偶然の配列をもつものではない。『西洋事情』続篇の筆を休めて、時到らば『雷銃操作』の翻訳にかからねばならない。「先生がこの書を翻訳された由来は、当時長州征伐のことあり、長州方は小人数でかつ農兵などを使用したが、その武器は新式であって、なかんずくライフルのごとき、その勢当るべからず、徳川方の敗戦は全くこれがためだとの評判であった。先生これを聞き、近いうちに日本国中にライフルの流行を見るであろう。何とかしてライフルの事を書いた原書を得たい……」(『福沢諭吉伝』)。そこで、芝口和泉屋善兵衛店で偶然ライフルに関する古本「原書」を入手した日から異常な苦心がはじまるのである。
このライフル本はおおいにあたって発売数幾万にのぼった。ついで「慶応四年」七月付『兵士懐中便覧』は東北連合軍のため仙台で版行され、これと戦うべき官軍熊本藩の依頼によって大至急で翻訳上梓された『洋兵明鑑』には「明治元年晩冬」の序文が付せられている。というふうで、着想自在、度胸もふんべつも満点のジャーナリストであった。
ちなみにこの種軍事物は、十七巻の全集中、この内乱期を除いてはただ一部安政四年緒方塾でへんな動機で脱稿して『全集』ではじめて活字になった「築城書百爾之記」全六冊があるだけだ。