六
然しまだ其の当時は、空想に依って私は妻を殺していたに過ぎなかったのです。之を実行に移そうなどという考えは全く頭にはなかったのでした。
ところが、此処に私にとっては重大な事件が持ち上ったのです。即ち私と石原すえ子との再会です。
女嫌いのあなたは、私が初恋の女を、憎みながらも永く忘れずに思いつづけていたことを嗤うでしょう。けれどそれはあなたと私の性格の相違ですから致し方がありません。私は二十歳の年にすえ子を失っても、いつもいつも彼女のことを思いつづけていたのでした。
従って、私が方々を流浪しつづけていた間も、彼女が嫁いださきの有名な実業家のことを常に注意していたので、其の男が、あの関東の大震災の時無残にも圧死し、彼女を除く外、彼女の里のものまで殆ど全部死んでしまったことを知っていたのです。
しかし、流石に私も男として、自分の方からすえ子を訪ねる気にもならず、又訪ねようにも彼女が何処に住んでいるのかも知らなかったのです。
ところが昨年の夏も終り近く、私はふと山の手の或る町で彼女と出会したのでした。私は其の時はじめて、彼女が夫に死に別れて以来、全く淋しく山の手のある町に女中相手に暮しているということ、震災以来、凡てが悲境に向って、彼女の嫁いだ家は勿論、里も全然駄目になってしまったことなどを知ったのでした。
われわれは再び昔の物語をしました。そうして昔の日に立ち帰りました。私はすえ子を真に愛し、彼女も亦私を愛しました。かくして昨年の秋から冬にかけて熱烈な愛が再びよみ返ったのです。
私は無論此の事を、妻の露子に語りました。語ったならいくらなんでも妻は私を捨てるだろうと思ったからです。然し之は誤解でした。露子はかねて云っていた通り、私がどんな女をどんなに愛してもいい、ただ自分を捨ててくれるなということをのみ云っていたのでした。
私はそれをいいことにして、昨年の暮あたりは殆ど家に帰りませんでした。そうしてすえ子の家に入りびたりにはいっていたのでした。
幸い、すえ子には子供はありませんでした。私が結婚したことをはっきり知らないすえ子に対しては、私は将来必ず夫婦になる約束をしたのです。こうやって何故私がそのまま露子を捨ててしまわなかったかと、お考えになるでしょう。御尤もです、ただ私には露子の生霊が恐ろしかったのです。云いかえれば、露子が生きている限りは、私は彼女から逃れられないと感じていたのです。だから私はどんなに長く家をあけていても、必ずやっぱり家に戻って、いじらしい、然し呪わしい露子の顔を見なければならなかったのです。
私が愈々妻露子を殺そうと考えたのは今年の二月の事です。一月に妻の身体に異状が起りました、二月になっても其の様子は変りません。露子は妊娠したらしいのです。私のたねを宿したわけです。
何と不幸な事でしょう。世間の夫なら、否、人間ならば自分の妻が自分のたねを宿した事を心から喜ぶに違いありません。然るに此の私は、妻の妊娠を呪いました。憎い憎い妻が自分のたねを宿したのです。其の自分は、余りによく自己を知って居ます。妻は悪魔の種を腹にもったのです。嫌わしい妻が妊娠した、というだけでも恐ろしいことです。而もそれは悪魔の種なのです。私は決心しました。早く妻を殺して此の恐ろしさから逃れよ、と。
私が妻露子を殺す決意をしたのは、勿論一ツには露子の生霊から逃れたい為でありました。露子が生きて居る限り、私は何処に行っても彼女の生霊から逃れられないのです。そうして妊娠した今、私は露子が生きている限り絶対に自分の運命から逃れられない、若し私が露子から姿をかくしてしまおうものならば、恐らく彼女は無事に子を生むまでは死にますまい。ああ、彼女が呪われた私の子を生むということ! 考えても恐ろしいことです。露子から生れた第二の私は、一生涯私をこの世で追いまわすでしょう。私はどうしても妻に子を生ませてはならない。露子と共に其の腹の子を闇へ葬ってしまわなければならないのです。
然し同時に私は、露子を殺す興味に駆られて居たことも確かです。決心は定りました。露子は殺されなければなりません。何時、如何にして彼女を殺すか、之が残された問題です。