Volver
Street Tales of the Kyoho Era
Table of Contents
Street Tales of the Kyoho Era
林不忘
Reading Settings
Tamaño de fuente
18px
Tema
Claro
Oscuro
Sepia
Protección ocular
Interlineado
Modo de lectura
Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 10 of 53

10

が、いま若松屋のこころは、そのお高からも遠く離れてしまった。お高のみならず、磯五とのあいだにひそかに自分に誓った商道のあらそいすらも、すでに彼の興味を失いかけているのだ。そんな余裕も闘志も、なくなっているのだ。より以上に重大な、彼自身の死活に関する問題が、大きな手のように、若松屋惣七をわしづかみにしようとしている。いや、わしづかみにしているのである。

お高は、それほどのこととは思わなかった。で、せっかく帰って来たのに、妙な皮肉をいわれると思うこころが、彼女をちょっとすねてみたくさせた。

「人間は身勝手なものであるとおっしゃいますのは、わたくしが帰ってまいりましたのが、いけなかったのでございましょうか。磯屋と二度の念がかなって、あの店へ乗りこむなどと、あんまりでございます。なんぼなんでも、高は、そんな恥知らずではございません」

思わず強いことばが出たのに、じぶんでも驚いたお高が、ふと惣七の顔に眼をそそぐと、お高の声が聞こえなかったように、若松屋惣七は、きょとんとしている。

やがていい出した。なかばひとり言だ。

「馬鹿だった」表情のない声だ。「わしが大馬鹿だった。誰を恨みようもない。おのが綯った縄で、縊れ死ぬようなものなのだ。お高どの、掛川宿の具足屋という宿屋のことを話したことがあったかな?」

「はい。伺いましてございます。脇本陣とやらで、たいそうお立派な御普請でございます。いつぞやも絵図面を見せていただきましてございます」

「そうであったかな。あの具足屋の一件なのだ。掛川までは、わたしも、ちと手を伸ばし過ぎたのでしょう。今ごろたたって参った」

「とおっしゃいますと、すこしも引き合わないのでございますか」

「いや、ひき合わぬことは、はじめからわかっておった。宿場の旅籠などという稼業は、俗にも三年宿屋と申してな、はじめてから三年のあいだは、おろした資本がすこしもかえらぬのが、ほんとうだ。その三年のあいだに、ちっとでも利をみようというほうが、むりなのだ。だから、もうけのないことも、当分は金を食う一方であることも、驚かぬぞ」

二

「が、その三年目も、来年である。来年になれば、具足屋もそろそろ上がりがあろうと思っておったにもうおそい。お高、そちは、東兵衛という名を聞いたことがあるか」

お高は、つばをのんで、うなずいた。ぱっちりした眼が、若松屋惣七の額部を凝視していた。眉のあいだの刀痕をめざして、両方から迫りつつある若松屋惣七の眉毛が、だんだん危険なものに見えてきていた。

暗くなりかけていた。お高は、灯がほしいと思ったが、惣七のはなしがつづいているので、お高は、灯を入れに起つひまがなかった。起つ気にも、なれなかった。夕風が渡って、障子紙の糊のはげた部分を、さやさやと鳴らした。風には、雨のにおいがしていた。じっさい、そのときも大粒なやつが、ぽつりと一つ縁側をたたいて、かわいた板に吸われていっていた。暴風雨を予告するものがあった。

お高は、東兵衛という男のことを、聞いたことがあるのだ。その東兵衛という男は、もと藤沢で相当の宿屋をしていたのが、すっかり失敗して困っていたのを若松屋惣七が、例の侠気から助け出して、東海道の掛川の宿に、具足屋という宏壮な旅籠をひらかせて、脇本陣の株まで買ってやった男である。

もっとも、若松屋惣七が、ひとりで資金の全部を持ったわけではない。半分出したのだ。あとの半金は、東兵衛がじぶんでかきあつめて、みずから具足屋を経営すべく、具足屋東兵衛となって、掛川の宿へ移り住んだのだ。

具足屋は、もとの脇本陣の地所を買って、すっかり建て前をあたらしくしたものだ。木口をえらび、建て具や調度にも、若松屋惣七も東兵衛も、かなり贅沢をいった。ことに、庭を凝った。大きいことも大きいし、掛川の具足屋ほどの旅籠は、東海道すじの本陣脇本陣を通じてあんまりあるまいという、これは何も、若松屋惣七と東兵衛の自慢だけではなかったのだ。定評だったのだ。

この、万事金に糸目をつけないやり方で、最初の利がかえるまで、三年もとうというのだから、骨だ。若松屋惣七も、許す限りの才覚をして、江戸から応援したのだが、むだだ。焼け石に水というやつだ。

諸費はかさむいっぽうで、こうなると、第一、毎日のものを入れている商人たちが不安になってくる。黙っていない。大挙して、具足屋東兵衛に膝詰め談判をした。たった今払いをしてくれなければ、もうつけがけで仕込みをしてもらうことは、ごめんだというのだ。

現金がないのだから、ほかの商人を当たってみたところで、顔のききようがない。さっそく具足屋は、あすから休業である。というので、東兵衛からの急使が、江戸小石川の金剛寺坂へ飛んだ。見殺しにはできない。また、今までつぎこんだ金も、生かさなければならない。即刻、若松屋惣七は、工面に奔走した。あそんでいる小判というものはないのだから、これには惣七も、かなりひどい無理をした。

その結果、若松屋惣七から相当の額を託された金飛脚が、掛川宿へ駈けつけたのだがそのときは、それやこれやを苦に病んで、つまり、どっちかといえば、気の小さな男だったのだろう。具足屋東兵衛は、気が狂れていたというのだ。

「客商売に、座敷牢というのも面白うない。裏山の奥に、掘っ立て小屋を建ててな、見張り人をつけてあるそうだ」

「すると、何でございますか。旦那さまが、その掛川の借財をすっかりおしょいこみになったのでございますか」

「さよう。これは四月ばかり前のことだが――」

「あら、ちっとも存じませんでおりましてございます」

「なに、よけいな心配をさせるにも当たらぬと思って、お前には黙っておりました。べつに書状をしたためてもらわにゃならぬことではなし、使いの口上を聞いて、金さえ送ればよいことだったので、お前をわずらわせずにすんだのだ。どこかへ出て、お前は留守だった」

よけいな心配をさせたくなかったなどと、それはまるで女房にでもいうようなことばだと、いってしまってから気がついたらしく、若松屋惣七はじぶんでも意識しないこころの底のひらめきにちょっとおどろいた。あわてて、話の本筋にかえった。お高は、いつのまにか、うれしそうに惣七に寄り添っていた。

もう、ほんとに暗かった。暗いなかに、雨あしが光っていた。若松屋惣七もお高も、その、寒く吹きこんでくる雨に、気がつかないようすだ。国平であろう。縁側の端で、大いそぎに雨戸をくり出す音がしていた。

三

国平が雨戸をくり出す音に勝つために、惣七は、しぜん大声だ。

「こうなのだ。はじめ東兵衛が、わしと半分ずつ持って具足屋へおろした資本だな、それだけは、わしのふところから出して、急場をしのがねはならぬことになったのだ」

「でも、それはお出しにならなければならなかったことはございますまい。義理固い旦那さまの御性分は、よく存じ上げておりますでございますが、そこまでなさらなくても――一言お話しくだされば、きっと高がおとめ申したにと、恨みがましく考えられますでございます。

その東兵衛さまとやらがお出しになった資金は、申せば東兵衛さまが御自身でお擦りになったものでございます。旦那さまは、御自身の分だけ御損をなすって、きれいにお手をお引きなすったほうが――」

「それが、そうは参らぬ。というわけは、東兵衛の女房子供が気の毒だし、また大口の借りがたくさん控えている。わたしは、東兵衛のおろした半分の資本を、わたしの手で浮かび出させて、東兵衛の女房に返してやったのだ。つまり、それだけの現金で、借金だらけの具足屋を、わしひとりのものに買い取ったのだ。ありがたくない荷物は、ありがたくない荷物に相違ないが、あの場合やむを得んと思ったのだ」

お高は、くらい中で眼をかがやかせているに相違なかった。男に傾倒するこころが、熱い息となった。

「だれにでもできるものではございません」

若松屋惣七は、自嘲的に笑い出していた。

「なあに、それも、先へいって具足屋が芽を吹くことがあればと、見込みがあるつもりでしたことなのだ。慾と二人づれで、やったことなのだ。うふふ、侠気だの、義理だのという、そんな洒落くさいものではない、ははははは」

「で、その借財のほうは、どうなすったのでござります」

「いま具足屋を人手に渡したくない。しばらく立て直して、もちこたえてみたいと思ったから、すっかりわたしが払ったのだ。この弁金と、いま話した東兵衛の女房へやった、東兵衛の出した資本の分と、この二くちの金に困ってな、金のことをまかせられているある後家さんから、話しあいで、一時の融通を受けたのだ。

それも、それだけのものをまとめて借りたのではない。その女から預かって、わしの眼きき一つで、あちこちに動かしてある金を、その女の許しを得て、一時わしの手にあつめて、具足屋のほうへまわさせてもらったのだ。一年後に、わしがほかへ小分けしておいたと同じ利分をつけて、耳をそろえて、その女に見せるという約束だった」

滝蔵が、おそくなったいいわけをしながら、灯のはいった行燈を持って来て、ほどよいところへおいて、さがって行った。お高は、下男がいるあいだ、惣七から離れていた。雨戸のそとは、はたして、叫ぶ風と狂う雨とのあらしだった。樹々のうなりが、ものすごく聞こえてきていた。

お高は、惣七の肩にじぶんの肩をあたえて、不釣り合いに大きく見える自分の膝の上で、惣七の指をもてあそんでいた。惣七は、それにまかせていた。考えていることのために、気がつかないふうだ。

「ずいぶんわたくしにお隠しなすっていろいろなことをしておいででございます。いつのまに、そんなことをなさるのやら――お出かけなすったことも、それらしい用事の人が、みえたようすもございませんのに」

お高は、不服そうだ。

「ははは、まだお前の知らんことは、ほかにいくらもあるのだ」

「まあ、憎らしい」

「下らぬことをいわずに、聞け」

「はい」

「そういう約束である。一年のうちには、具足屋も、何とかもうけをみるであろう。また、いくらかでも稼業が立ちなおってきたら、根こそぎ手放してもよいのだ。こう思って、その後家さんの金の中から入要な分だけ借りておいたのだ。

先方にしてみれば、若松屋というものにまかせてある以上それをこっちが、どう細かく割ってうごかそうと、若松屋の仕事につぎ込もうと、その金がおなじ利を生むからには、何もいうべき筋はないはずだ。よって、貸した借りたとは申しても、普通の借銭とは、おのずから理をべつにしておる」

「さようでございますとも」

「ところが、けさお前が出て行ってまもなく後家さんから使いが来てな、あしたにも、その金はもとより、わしの手から動いておる自分の金を、そっくりまとめて納めるようにとのことなのだ」

「あら、それでは約束が違うではございませんか、約束をたがえてそんなことがいえるものでございましょうか」

「それは、いえる。女分限者と金番頭の、いわば内輪のことなのだ。約束がちがうといって、公事にも持ち出せぬ以上、いつどう気をかえられても、しかたがないではないか」

四

「さようなものでございましょうか」

お高は、若松屋惣七のためを思って躍起になっていた。

「それでも、もとはといえば、具足屋東兵衛さまとやらから、起こったことでございましょう。何も、旦那さまが、一身にお引きうけなさらずとも――」

「東兵衛は、狂人だ。狂人から、何が取れる」

「でも、それではあんまり――」

「のみならず、東兵衛は東兵衛としても、わしと後家さんのあいだの貸し借りは、貸し借りなのだ。亡夫に遺された財産だ。金のたてぬきは何ひとつ知らぬのだ、知ろうとせぬ女なのだ。夕方、お前の戻ってくる一刻まえにも、また二度目の使い者がせき立てに参ったような次第で、困る。まことに、困る。おおぎょうに申すのではない。若松屋も、これぎりではないかと思うのだ」

「何とか、待ってもらえないものでございましょうか」

「それが、一日半日をあらそっておると申すのだ。じつに、まゆ毛に火のつくようなはなしでな」

Chapter 10 of 53
|