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にごりえ
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にごりえ
樋口一葉
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Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 6 of 8

六

十六日は必らず待まする来て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城の朝之助に不図出合て、あれと驚きし顔つきの例に似合ぬ狼狽かたがをかしきとて、からからと男の笑ふに少し恥かしく、考へ事をして歩いてゐたれば不意のやうに惶ててしまいました、よく今夜は来て下さりましたと言へば、あれほど約束をして待てくれぬは不心中とせめられるに、何なりと仰しやれ、言訳は後にしまするとて手を取りて引けば弥次馬がうるさいと気をつける、どうなり勝手に言はせませう、此方は此方と人中を分けて伴ひぬ。

下座敷はいまだに客の騒ぎはげしく、お力の中座をしたるに不興して喧しかりし折から、店口にておやお皈りかの声を聞くより、客を置ざりに中坐するといふ法があるか、皈つたらば此処へ来い、顔を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御酒の相手は出来ませぬ、大勢の中に居れば御酒の香に酔ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んでその後は知らず、今は御免なさりませと断りを言ふてやるに、それで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のお店ものの白瓜がどんな事を仕出しませう、怒るなら怒れでござんすとて小女に言ひつけてお銚子の支度、来るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて気が変つてゐまするほどにその気で附合てゐて下され、御酒を思ひ切つて呑みまするから止めて下さるな、酔ふたらば介抱して下されといふに、君が酔つたを未だに見た事がない、気が晴れるほど呑むは宜いが、又頭痛がはじまりはせぬか、何がそんなに逆鱗にふれた事がある、僕らに言つては悪るい事かと問はれるに、いゑ貴君には聞て頂きたいのでござんす、酔ふと申ますから驚いてはいけませぬと嫣然として、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。

常にはさのみに心も留まらざりし結城の風采の今宵は何となく尋常ならず思はれて、肩巾のありて背のいかにも高き処より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきの凄くて人を射るやうなるも威厳の備はれるかと嬉しく、濃き髪の毛を短かく刈あげて頸足のくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりしてゐると問はれて、貴君のお顔を見てゐますのさと言へば、此奴めがと睨みつけられて、おお怕いお方と笑つてゐるに、串談はのけ、今夜は様子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降つて湧いた事もなければ、人との紛雑などはよし有つたにしろそれは常の事、気にもかからねば何しに物を思ひませう、私の時より気まぐれを起すは人のするのでは無くて皆心がらの浅ましい訳がござんす、私はこんな賤しい身の上、貴君は立派なお方様、思ふ事は反対にお聞きになつても汲んで下さるか下さらぬか其処ほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂きたく、今夜は残らず言ひまする、まあ何から申さう胸がもめて口が利かれぬとて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。

何より先に私が身の自堕落を承知してゐて下され、もとより箱入りの生娘ならねば少しは察してもゐて下さろうが、口奇麗な事はいひますともこのあたりの人に泥の中の蓮とやら、悪業に染まらぬ女子があらば、繁昌どころか見に来る人もあるまじ、貴君は別物、私が処へ来る人とても大底はそれと思しめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるも寧九尺二間でも極まつた良人といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、それが私は出来ませぬ、それかと言つて来るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見初ましたのと出鱈目のお世辞をも言はねばならず、数の中には真にうけてこんな厄種を女房にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、それが私は分りませぬ、そもそもの最初から私は貴君が好きで好きで、一日お目にかからねば恋しいほどなれど、奥様にと言ふて下されたらどうでござんしよか、持たれるは嫌なり他処ながらは慕はしし、一ト口に言はれたら浮気者でござんせう、ああこんな浮気者には誰れがしたと思召、三代伝はつての出来そこね、親父が一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、その親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、祖父は四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古紙をこしらへしに、版をばお上から止められたとやら、ゆるされぬとかにて断食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで仕出来したる事なく、終は人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住歎いたを子供の頃より聞知つておりました、私の父といふは三つの歳に椽から落て片足あやしき風になりたれば人中に立まじるも嫌やとて居職に飾の金物をこしらへましたれど、気位たかくて人愛のなければ贔負にしてくれる人もなく、ああ私が覚えて七つの年の冬でござんした、寒中親子三人ながら古裕衣で、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つ竈に破れ鍋かけて私にさる物を買ひに行けといふ、味噌こし下げて端たのお銭を手に握つて米屋の門までは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足も亀かみたれば五六軒隔てし溝板の上の氷にすべり、足溜りなく転ける機会に手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひまよりざらざらと翻れ入れば、下は行水きたなき溝泥なり、幾度も覗いては見たれどこれをば何として拾はれませう、その時私は七つであつたれど家の内の様子、父母の心をも知れてあるにお米は途中で落しましたと空の味噌こしさげて家には帰られず、立てしばらく泣いていたれどどうしたと問ふてくれる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は猶更なし、あの時近処に川なり池なりあらうなら私は定し身を投げてしまひましたろ、話しは誠の百分一、私はその頃から気が狂つたのでござんす、皈りの遅きを母の親案じて尋ねに来てくれたをば時機に家へは戻つたれど、母も物いはず父親も無言に、誰れ一人私をば叱る物もなく、家の内森として折々溜息の声のもれるに私は身を切られるより情なく、今日は一日断食にせうと父の一言いひ出すまでは忍んで息をつくやうで御座んした。

いひさしてお力は溢れ出る涙の止め難ければ紅ひの手巾かほに押当てその端を喰ひしめつつ物いはぬ事小半時、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ。

顔をあげし時は頬に涙の痕はみゆれども淋しげの笑みをさへ寄せて、私はその様な貧乏人の娘、気違ひは親ゆづりで折ふし起るのでござります、今夜もこんな分らぬ事いひ出してさぞ貴君御迷惑で御座んしてしよ、もう話しはやめまする、御機嫌に障つたらばゆるして下され、誰れか呼んで陽気にしませうかと問へば、いや遠慮は無沙汰、その父親は早くに死くなつてか、はあ母さんが肺結核といふを煩つて死なりましてから一週忌の来ぬほどに跡を追ひました、今居りましても未だ五十、親なれば褒めるでは無けれど細工は誠に名人と言ふても宜い人で御座んした、なれども名人だとて上手だとて私等が家のやうに生れついたは何にもなる事は出来ないので御座んせう、我身の上にも知られまするとて物思はしき風情、お前は出世を望むなと突然に朝之助に言はれて、ゑツと驚きし様子に見えしが、私等が身にて望んだ処が味噌こしが落、何の玉の輿までは思ひがけませぬといふ、嘘をいふは人に依る始めから何も見知つてゐるに隠すは野暮の沙汰ではないか、思ひ切つてやれやれとあるに、あれそのやうなけしかけ詞はよして下され、どうでこんな身でござんするにと打しほれて又もの言はず。

今宵もいたく更けぬ、下坐敷の人はいつか帰りて表の雨戸をたてると言ふに、朝之助おどろきて帰り支度するを、お力はどうでも泊らするといふ、いつしか下駄をも蔵させたれば、足を取られて幽霊ならぬ身の戸のすき間より出る事もなるまじとて今宵は此処に泊る事となりぬ、雨戸を鎖す音一しきり賑はしく、後には透きもる燈火のかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。

Chapter 6 of 8
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