Chapter 1 of 5

松久三十郎は人も知る春陽会の驥足である。

脚絆に草鞋がけという実誼な装で一年の半分は山旅ばかりしているので、画壇では「股旅の三十郎」という綽名をつけている。

飛騨の唐谷の奥に、谷にのぞんだ大きな栃の木があって、満開のころになると幾千とも数えきれない淡紅色の花をつけ、それに朝日の光がさしかかると、この世のものとも思われないほど美しいという。それを見るために出かけて行った。

東京を出たのは五月だったが、木曾福島で長逗留をし、秋風の声におどろいて、ようやく木曾川を西へ渡った。高山の月を眺めてから富山へぬけ、能登の和倉で秋ざれの日本海の海の色を見るつもりだった。

六廏越をし、荻町へ着いたのは、ちょうど旧暦のお盆の前の日だった。

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