Chapter 1 of 5

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この夏、拠処ない事情があって、箱根蘆ノ湖畔三ツ石の別荘で貴様の母を手にかけ、即日、東京検事局に自訴して出た。

審理の結果、精神耗弱と鑑定、不論罪の判決で放免されたが、その後、一ヵ月も経たぬうちに、端無くもまた刑の適用を受けねばならぬことになった。これは普通に秩序罪と言われるもので、最悪の場合でも二年位の懲役ですむから、このたびも逸早く自首して刑の軽減を諮るのが至当であろうも、いまや自由にたいする烈々たる執着があり、一日といえども囹圄の中で消日するに耐えられぬから、思い切って失踪することにした。

いずれ貴様も諒解することと思うが、俺の四十年の人生は、あたかも旧道徳と封建思想の圏囲内を彷徨するイルンショー製「クロノメートル」の指針のごときもので、自己一身のほか、なにものをも愛さず、思料せず、体面を繕うことばかりに汲々たる軽薄浅膚な生活を続けていた。最近、測らざる一婦人の誠実に逢着し、俺の過去はあまりにも虚偽に充ちていたことを覚り、新生面を打開しようと決意したが、俺は薄志弱行の徒で、実社会に身を置くかぎり、因習に心を煩わされて到底自己に真なることができぬと思うから、一切の縁を断切ッて無籍準死の人間となり、三界乞食の境涯で、情意のおもむくままに実誼無雑の余生を送る所存なのである。

失踪と言い準死とは言ッても、俺のような身分の者にたいしては、簡単に事を済ましてくれぬ。事後、思わぬ煩いが惹起ッて、貴様に累を及ぼしてはならぬから、適当な時期に死亡の認定が得られるよう、その方の処置もしておいた。俗見の傀儡同様だッた俺の半生を諷刺し、俺を悲運に沈湎させた卑小な気質に報復するのに、これこそは恰好な方法だと思った。のみならず、それによッて貴様は七年の失踪期間を待たずに家督を相続することが出来、俺は速かに社会から忘却せられる便利があるからである。

俺は自筆証書で松尾治通を後見人に指定し、保佐人を従兄振次郎に依嘱して置いた。どちらも廉直親切な人物だから、それらの庇護によって蹉跌なく丁年に達するものと思う。二歳にもならぬ幼少の貴様を捨去るのは情において忍びぬが、これも止むを得ぬ。俺と情人の新生活内には、何者も介在することをゆるさぬ。但し、捨去るために貴様を生んだのではない。貴様は母の愛とホープによッて出生した。それ等の事情はすべてその後に生じたのである。俺は子にたいする父の礼儀として、こうなるまでの事情を仔細に書きつけておく。

俺は慶応二年正月、奥平正高の継嗣として長坂松山城内で生れた。廃藩置県後は東京市ヶ谷の上屋敷に移り、厳格な封建的式礼の中で育った。

貴様の祖父は文久元年の遣欧使節に加わって渡欧したが、在英中、英国の大貴族と交際して習俗に心酔し、この俺を英国流の傲岸不屈な貴族に仕上げようというアンビッションを起したものとみえ、七歳の春からデニソンについて英語と西洋礼式を学ばせた。父自身が勉強の看視人で、毎夜十二時まで俺を書机の前にひき据え、すこしでも懈怠の色が見えると、刀槍をもって威嚇するという具合だッたから、俺の少年時代は困死せんばかりの苦楚辛痛のうちに過ぎた。生れつき克苦奮励するような気質は持合わしておらず、この世に机に噛りつくくらい厭わしいことはなかったが、父の怒を避けるために、もっぱら、好学の風を装い、ただもう当座を糊塗していた。なにごとも上ッ面だけを綴くり、いい加減に辻褄を合わしてすまして置くという不誠実な性情は、すでにこの頃に養われたのである。

父は傲慢自大、極端な貴族主義者で、口を開けば新政府と新華族を罵り、旧大名中の剛の者といわれて得々としていた。明治十八年の春、賤民政府という小冊子を旧大名に頒布したため、政府讒謗の廉で鍛冶橋監獄に繋がれたが、出獄後は拘留中に発病した炎症痛風に悩み、癇癖を募らせて野蛮に近いふるまいをするようになり、諫諍するものがあると、はげしく争ってみな出入を禁じてしまった。

その秋、ある日父は俺を寝間へ呼びつけ、いかにも苦々しい口調で、

「貴様はイギリスへ行け、なにを学ぼうと勝手だが、それを役立ててはならん」

といきなりに申し渡した。

「その気があるなら、生涯アチラに居ッても差支えない。俺が死んだからとて、帰国するには及ばん。貴様の行末が気にかかって、眼を瞑れぬなんてエのは、マー俺にはないことだ」

と言うなり、クルリと向うへ向き返ってしまった。

父は貴族政治を夢想し、俺をその方の大立者にするつもりだッたのだが、実現しそうもないのを覚って、こんな自棄的な処分を思いついたのだろう。俺とても父を愛しておらぬし、窮屈な父の膝下から解放されるのは何にも優してありがたかッたから、早速外遊の仕度にとりかかり、その年の十二月、横浜解纜の英船メレー号に便乗して、匆々に日本を離れた。

翌年一月、英国に到着、最初ウォールミンスターのグランマー・スクールに入り、その後、倫敦のユニヴァーシチー・カレッジの法科へ移った。遊ぶにしても、それくらいなところに籍を置かなくては巾がきかぬと思ッた迄で、勉強する気などは毛頭ない。英国には、うるさい父も親類もおらず、謹直を衒うこともいらないから大きに羽根を伸し、よからぬ貴族の子弟と交わって、放埓無残な生活を送っていた。

いずれ写真ぐらいは見るだろうが、俺は父によく似た狷介な容貌を持っている。房々とした眉毛の下に猜疑心の強い陰気に光る眼があり、鼻は鷲の嘴のように傲慢に折れまがり、薄い唇は酷薄無情に固くひき結ばれている。俺はこの猛々しい面相と陰鬱な態度が相手を忌ませ不快にすることを、子供のときからよく知っていた。事実、父も母も祖母も露骨に俺を忌嫌い、冷淡邪慳に扱った。俺の記憶にあるかぎりでは、ただの一度も愛しらしい言葉を掛けられたこともなかッたから、俺はもう生涯誰からも愛されることはないのだと断じこみ、はかないあきらめを抱いて鬱々としていた。それにしても俺はどんなに人に愛されたいと思ったか知れぬ。もしそのような相手に行逢ったら、その人のためにいつでも命を捨てようと、二六時中、心のうちで誓っていた。十二三歳の頃のことである。

その後、幾度か人を愛したことがあったが、俺の心は自信を失って萎縮しているものだから、他人に愛の証拠を求める前に、まず失望したときのはかなさを考え、殊更に不愛想を装って自分から身をひいてしまうのだ。外国へ行ってからは、いよいよ鬱屈して猜疑心が強くなり、思いきった粗暴な振舞をするものだから、嫌い恐れる人間はあッても俺を愛するものはなく、追従して利益を得ようとする奴はいるが、心をうち明ける真の朋友はない。あり余る財産とオノレーブルを抱きながら死灰のごとき索然たる孤独生活を送っていた。

俺の放蕩も畢竟臆病のせいなので、純潔な恋を求めて失望するのが恐ろしく、金銭で買った娼婦内侍のたぐいなら、はじめッから期待もしないから騙されても腹も立たず、俺にとってはそのほうが安心だッたから、それで満されぬ心を胡魔化していたのにすぎぬ。俺は人一倍求愛の心が強いので放蕩も一倍とはげしく、淫佚振りはわれながら眼を蔽いたいほどだった。期待せぬと言いつつ、娼婦の心の中に真実を追い求めて日夜狂奔していたのに相違ない。

そんな風にして、成すこともなく十四年の年月を暮してしまった。先年、父も死に、英国の生活も鼻についてきたので、その年の冬、巴里に移ってパッシーというところに住んでいたが、間もなくある婦人のことで仏国の陸軍士官と決闘せねばならぬ羽目になった。その席に俺だけしかいなかッたら、陳謝哀訴して勘弁してもらったところだが、折悪しく向いのテーブルに公使館の鈴木という書記生がいたので、持前の虚飾心から、心中、生きた気持もないのに、堂々と承諾してしまった。

決闘は翌日ロンシャンというところで行われた。まず相手方から撃ちだしたが、その際、俺は怯懦な畏怖心に襲われ、思わず頭を右に傾けたので、飛来した弾丸は右の顳と耳殻を破壊し、首と肩の間に嵌入した。頭さえ曲げなかったら、横鬢を掠めるくらいのところですんでいたはずで、いわばこれは卑怯のむくいともいうべきものであった。

その場から病院へ担ぎこまれ、時を移さずに止血の手当を加えたので、危く命だけは助かったが、そのために俺は実に異様な面相になッてしまった。テラテラに禿げた赭黒い瘢痕が右の眼尻から顳一帯に隆起し、その上に七八本の毛がマバラに生えている。右の眼は裂創の縫合のために恐ろしいまでに吊りあがり、右の耳殻が無くなって、そこに干貝のような恰好をしたものが申訳のように喰ッついている。俺は極端な虚飾家で、おのれの不幸な面相をいくらかでも改正したいと思い、日夜容姿を整えることにばかり腐心していたのだから、この負傷は俺にとって耐えられぬ痛事だッた。半年ほどの間に、一体、幾つ鏡を抛って壊したかも知れぬ。

果せるかな、人々は俺の醜悪な面相を恐れ忌み、様々に嘲笑するのが感じられるものだから、わずかに悲愁を支え、寂寥を慰めていた自己心までも残りなく崩壊しつくし、恋愛はおろか、他人の親和愛眷をまったく期待せぬようになり、顔を見られるのを厭って、毎日、家に閉籠っていた。のみならず、それ以来、妄覚に悩まされ、白昼、幻を見るような不安な容態になったので、本意ではなかったが一旦帰国することにし、十一月の末、馬耳塞から船に乗った。航海中、一時、快方に向いたが、印度洋の暑気にやられて譫妄状態に陥り、横浜入港と同時に、手足を縛って脳病院に送り込むという狂人同様の取扱いを受けた。当初の手当が不完全だったので、早速、再切開することになり、大学病院に移ってそこで手術を受けた。

当時、社会一般の思潮は自由主義の傾向を帯び、その勢い侮るべからざるものがあった。俺はそれに反抗して、貴族の権威のあるところを知らしてくれようと思ッたもンだから、入院加療中、「華族藩屏論草案」という一文を草し、報復的に時事新報に投じたところ、これが予想以上の好評を博し、決闘のことまでが誇大に喧伝され、俺の負傷は日本の名誉のために戦った勇武剛毅の表章だということになった。何んぞ知らん、顔の創痍は他人の女に手を出して失敗った記念で、勁抜の一文はソールズベリー卿の論文をそッくりそのまま借用したものに過ぎぬ。俺は図に乗り、英人の論説を剽竊改刪して次々新聞紙上に発表したが、いずれも非常な反響を呼びおこし、臆病と無識の権化のようなこの俺は、狷介不覊の華族論客として、日に日に名声を高めることになった。

手術後、偏頭痛は大いに軽快したが、毎年晩春初夏の候になるときまって再発するふうなので、三十五年の初夏、脳病にきくということを聞いて、箱根の底倉へ湯治に行った。

あたかも六月の下旬で、窓に倚って眺めると、澗底の樹木は鬱蒼と新緑をたたみ、前面の峭崖から数条の小滝が落ち、その下に湧涌たる水声がある。俺は脳底に爽快をおぼえ、飽かずに眺め入ッていると、崖の狭ばまったところに架けた木橋を一人の少女が渡ってきた。

黄八丈の袷に被布を羽織り、髪に大形の薔薇の花頭をさしている。温泉場にはチト固苦しく上品に見えるものだから、気をとられて眺めていると、少女は顔をあげて俺と視線が合うや否や、頬を染めて腰をかがめ、一揖するなりソコソコに宿の中庭へ入って行った。

年の頃は十八九で、顔色はクッキリと白い中に桃の花のような紅味を帯び、眉は少し濃い方で、その間が狭ばまっていていかにも怜悧そうに見える。唇はキッと力みがあり、高い鼻に跨った睫毛の濃い大きな眼は、その中からいまにも黒い瞳が溢れだすかと思われるほどだッた。為永式の痴呆じみた美人相ではなく、都雅艶麗なうちに微妙な威容を含み、教養ある欧州のレヂーに比してすこしも遜色がない。

世にラヴ、オブ、ファースト、サイトということがある。シェークスピーアの戯作「ローミオ、アンド、ジュリエット」の中にも、一目見て恋の成立する場合を証明している。俺がその少女を見たときの感情は、あたかもそれに相当すると思われる。惚れたというだけでは足りない。正直に言えば、その瞬間から憑れたようになってしまッた。たぐいのない少女の美容にもよるが、それが恐れる色も忌み嫌うようすもなく、親し気に俺に挨拶するのを見て、たとえようのない愉悦の情にうたれ、枯渇絶望した俺の心に微かな希望が萌えだしたものだから、それやこれやで一層忘れ難くなッたのだ。

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