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頃日、丸ノ内の蘭印・中国海運という会社から、村上マサヨ宛の幸便を取りに来いという通知を受けた。
行ってみると、蘭印アンボン島特別郵便局の検閲済の消印のある分厚な一通の封書と、赤い封蝋でシールされた、十糎立方ほどの小包を一個渡してくれた。差出人はマリハツ・シロウという人で、心当りのない名だったが、一応、持ち帰ってマサヨに封書を開けさせたところ、手紙は、村上重治の最後のようすと、当時の環境をくわしく報知してきたもので、小包は、すなわち重治の遺骨であった。
重治は娘の夫で、かねて戦死の公報があり、戦歿地は昭南ということになっていたが、実は、濠洲の北岬、クィーンスランドというところの無人の砂浜で死んだことがわかった。
重治は中野電信隊付属通信研究所(通称中野学校)で通信技術を修めていたが、こんど通信隊長になって行くのですというので、そういうものかと疑いもしなかったが、終戦後、M氏の手記その他によって、中野学校というのは、どういうことをするところだったか、ほぼ了解することができた。以前、参謀本部の地下室で、海外へ派遣される武官に、特殊な諜報教育を授けていた施設を中野電信隊跡へ移し、幹部候補生から選抜した要員に、偽騙、懐柔、陰謀、破壊というような高度の秘密戦教育を施していたもので、約千人以上の卒業生が、マレー、シンガポール、ビルマ、ジャワ、比島、モロタイ、仏印などの機関基地を中心にして、南方各地で活躍したということだが、つまるところ、重治もその一人だったというわけである。
通信隊長であろうと、機関員であろうと、死んでしまった以上、名目などはどちらでもかまうことはない。シンガポールで死のうと、濠洲で死のうと、残されたものの上に及ぼす影響に、さしたるちがいがあるわけでもない。重治の最後のようすが知れたのは、娘にしても老生にしても非常な満足であり、マリハツ・シロウというひとの親切は、謝するにあまりあるのであるけれども、老生が強くうたれたのは、未知のインドネシア人の重治にたいするたとえようもなき深い情誼についてであった。
当然の次第とはいえ、文章はたどたどしく、措辞もすこぶる意外なものが多く、意味の通じかねるところもあるが、いたるところにホロリとするような愛情の泉がひそめられ、自分の生涯に、かくも懇篤な、誠実極まる美しい手紙に接することは再びはあるまいと、思わず嘆声を洩したくらいであった。それは全文片仮名の手のつけようもないもので、適当に漢字と句読を施したが、介意して、文章は毀損せざらんことを期した。
あなたは村上さんの奥さんですか。私、マリハツ・シロウは、一日も早く村上さんの遺骨をお送りし、死なれたときのようすを、お知らせしたいと思って居りましたけれども、アンボンも独立戦争でいそがしく、今日までそれは出来ませんでした。今年の夏のはじめ、当地もようやくしずかになり、日本へ手紙を出すことも、いいということなので、村上さんのお骨と報告を、戦争後最初のジャワ・チャイナパゲットの郵船にたのむことにいたすつもりであります。
今日、昼、私一人で、村上さんのいられた、セラタン町の宿舎へ行ってみました。あれから時が経ち、庭の草が長く伸び、ヴェランダの床のすきまから草が出て、日除けの柱にはウツボカツラが巻きつき、紫色の花が咲いていました。サウシテ陽がしずかに照っておりました。
ヴェランダには、村上さんがいつも寝ていたとおりに寝椅子があり、部屋には、机も寝台もみなそのままにあります。マンデー(水浴場)の棚にはシャボンが残っていました。なにもかも、そのままにあるのに、村上さんだけが居ない。死なれた村上さんが、帰ることはない。でも、こうしていると、
「おい、四郎、コッピー・パナス(熱い珈琲)」
といいながら、門から入って来られるようでなりません。
私はサイフォンでコッピーをこしらえ、ヴェランダの床にすわって村上さんを待っていました。夜になり、月が出て、裏のアダンの林で鸚鵡がボボボーと鳴きましても、村上さんは帰ってはこられませんでした。
マリハツ・シロウは村上さんのジョンゴス(僕)をしていた二年の間、夜は二時間、昼は炊事場の日蔭で十分ばかり眠り、村上さんに喜ばれたいために、つとめました。寝ている夢の中でも、村上さんの用をつとめ、びっくりして飛び起きることがありました。私は村上さんの忠実なジョンゴスでありました。
村上さんは、いつも黙っているひと、厳格なひとでした。インドネシアは喜ばしいときには笑い、悲しいときには泣きます。日本人は悲しいときには笑い、嬉しいときには怒ります。インドネシアは、それを理解することができません。長い間、私もそうでした。村上さんのやさしい心を知ったのは、死なれてから十日もあと、村上さんのお骨を入れた骨壺を、舟の檣のてっぺんに結びつけ、一人、月の光に照らされ、海豚と話しながら、アラフラ海を漂っているそのときでした。もっと早くわかれば、どんなによかったか。ソレガ悲シイ悲シイデス。
私の父は濠洲へダイバー(潜水夫)の出稼ぎに行き、ロェベック湾のブルームの町で、私と妹を生みました。母はロッマ島人でニ・ヌガリ、妹はスクレニといい、父の主人はルービンという人で、船の名はローザ号でした。父は上手なダイバーで、潜水具をつけずに、一気圧半のところで働いていました。一気圧半といいますと、約四十尺であります。
私は十歳のときからローザ号の貝洗いにやとわれ、十四の年から潜りはじめ、テンダーといって、潜水夫の救命繩を取る役や、送気ポンプの係をやり、十九の年、父と二人で独立して、小さなプラウ(刳舟)で貝床を探して歩きました。白人の邪魔にならぬように、バサースト島、ゴールバーン、ウェッセル、カンベルランド海峡からアラフラ海、アール諸島のドボなど、白人の居ないところなら、どこへでも出かけて行きました。
二十一歳のとき父が死んだので、母と妹を連れてアンボンに帰りますと、間もなく戦争がはじまり、ラハの飛行場に日本軍があがりました。夜、ラハに火が高く燃え、大砲の音や機関銃の音がし、オランダ軍がこちらの岸のベンテンの砲台から海越しにラハにむけて大砲を打ちました。その音は長くつづき、夜明けまできこえ、サウシテひどいスコールが来ました。雨の中でも機関銃の音がきこえていました。
間もなく、ラハの飛行場を日本軍がとったといい、ハロンでも戦争がはじまりました。日本の飛行機がたくさん来て、軍艦からも、どんどん大砲をうちました。私の家はオランダ軍が火をつけて焼いたので、トレホの海岸へ逃げました。
私は母と妹とすこしばかりの家財を刳舟に積んで、ブル島のナムレヤへ連れて行き、私一人、アンボンへ帰ってきました。私は濠洲のブルームやトレース海峡や木曜島で日本人といっしょに暮し、いくらか日本語がわかりますので、日本軍の通訳になってかせぎたいと思ったのであります。しばらくすると、郡役所で通訳の試験があるというので、十人ばかりの人といっしょに行きました。村上さんが試験官で試験をされましたが、みな落第でした。なぜかといえば、私どもアンボン人よりも、村上さんのアンボイナ語のほうが上手で、ミナカンボー語もブル語も、チモール語も、スンダ語も、みなよく知っていられたからです。
私どもは、村上さんの日本語学校で勉強することになりましたが、村上さんは熱心におしえてくれましたが、やがて誰も来ないようになり、しまいには、私だけになりました。窓にバンダナスの葉が垂れる、薄暗い静かな部屋で、村上さんと私と二人だけで勉強をしました。村上さんは、一日にタッタ一つの言葉しかおしえませんでした。私はソレを読み、仮名で書きますと、それで終りになります。村上さんは、その言葉をよく理解いたすように、しかしながら、私にはすこしもわからないたとえ話を、低いしずかな声で、いつまでも話します。私は葉をすかしてくる青い日光の中でボンヤリし、ときどき眠りながら、それを聞きました。
それから、村上さんは一ヶ建ての宿舎に住むようになり、通訳として部隊からもらう分とべつに、月、三ギルダーで村上さんの食事の世話をしてあげることになりました。通訳見習として、隊から五ギルダーもらいますが、それでは家へ三ギルダーしか送られませんので、村上さんの気に入られて、ほかのインドネシアにこの役をとられたくないと思いました。
隊で私のする仕事は、郡長や村長のところへ行って、住民が山からおりて村へ帰るようにすすめ、また、野菜やニワトリなどを集めさせること、木綿や塩で支払いすること、部隊の布告の説明をして歩くことなどでした。村上さんのほうはいそがしくて、一日中主計科や庶務科や電話室にいて、夜おそく隊から疲れて帰って来ると、すこしばかり物を食べ、サウシテたくさんコッピーを飲みました。
村上さんは水でマンデーをすると、青くなって咳をし、すぐ風邪をひきました。私は隊から帰ると、毎日そのためにお湯を沸かしました。村上さんは非常に汗をし、なんべんも夜中にシーツをとりかえました。私が聞きますと、ボルネオのジャングルにいるときマラリヤをやり、それがまだなおらないのだといいました。
村上さんは夜食をすると、そのまま朝まで本を読みました。私はいやでなりませんでしたけれども、眠られない病気だと聞き、気の毒になり、本を読んでいられるあいだ、コッピーといったらすぐコッピーをあげられるよう、毎晩、部屋の入口の靴拭きの上に寝ました。村上さんといる二年の間、自分の寝床へ行って寝たことは、ただの一度もありませんでした。
しばらくして、プアサ(インドネシア人の正月)の休みに、ブル島へ母や妹に逢いに行って帰って来ますと、村上さんが、
「おい四郎、お前は小さなプラウでブル島まで行ってきたのだそうだな、えらいことをやるな!」といいました。それで私は、
「ブル島ぐらいわけはありません。ここから濠洲まででも行きます。十五尺ばかりの小さな舟で、北濠洲の海を二百浬も航海していました」
といいますと、たいへん感心されたようでした。
それから一月ほどして、私がスープにする椰子のミルクをとっていますと、村上さんが私のそばへしゃがんで、
「おい四郎、ひとつ、濠洲へ商売に行くかな!」といいました。私はおどろいて、
「隊の通訳のほうは」とたずねますと、
「隊の通訳は、間もなく満期になる。占領されてからでは、うまいことが出来んから、すこし前に潜っているほうがいい。危ないことをしなければ、金は儲からんよ。どうだ、おれといっしょに金儲けをする気はないか」といいました。
プラウの航海にかけては、北濠洲のアルネムランドの土人にかなうものはありません。あのあたりの土人は、コンパスもチャート(海図)もなしで、沿岸看視船の行かぬ、白人の知らない珊瑚礁のあるムズカシい海を、鳥のように自由に飛んであるく。クロコダイル島から四百哩もあるポーダーヴィンまで、たった一人で行きます。私はそれほどでないけれども、ニューギニアから島づたいにトレス海峡を渡って、濠洲へ行くくらいのことはわけはないのであります。
私どもアンボン人は、サムナー法といって、星を見て、夜だけ航海いたすのですが、東南貿易風が西北の反対貿易風にかわる変り目の一ト月と、雨季明けの一ト月は航海しません。サウシテどこまでも岸について帆で走り、強い風が吹きだすと、舟を岸にあげて、何日でも休みます。でありますので、海の上で嵐にあうようなことは絶対にありません。
水はマングローブの木からも、アダンの蔓からもとれます。食物はサゴでも、ヤムでも、蟹でも、また、いくらでも魚が釣れますから、食料を積むことはいりません。昼は航海しませんから、暑くて困ることもない。ただ非常に忍耐のいる旅です。普通にやる四倍ぐらいの日数がかかります。なぜなら、昼は休みますからそれで半分、十日のうち五日は風が吹くから、それでまた半分。ほかの船が十日で行くところを、私は四十日かかります。気の短い日本人には、とても我慢がなるまいと思いますといいますと、村上さんは、
「よくわかった。ミミカから先には濠洲軍の哨戒艇がいるが、それはどうするつもりか」とききました。それで私は、