Chapter 1 of 4

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そのころセント・ヘレナという島にはなにか恐しい悪気があって、二年目にはかならず死んでしまうといわれていた。警備のためにセント・ヘレナへ派遣されていた英国の一士官がロンドンの家族へこんな手紙を書いている。

東へ五百リーグ(二千海里)行けばアフリカの大陸があるという記憶が、発狂する危険からわずかにわれわれを守ってくれる。

南太平洋のあらゆる航路から隔絶され、無限の海の上に点のように置かれた島。赤道附近で暴風に逢ったときのほかはいかなる航海者にも用のない不毛の島。暗い谷間と岩山。急な坂ばかりで平らな地面など一トアーズもない。半年の間、蒸気釜から吹きだしてきたような暑い霧が冬のロンドンのようにどんよりとたちこめ、それが晴れると、赤道直下の焼けつくような太陽が直射してあるだけのものをみな乾しあげてしまう。

土人はなにをしてやっても喜ばない憂鬱なやつらで、植物といえば、ひょろひょろの野生のゴムの樹だけ。豊富なのは猫ほどもある大きな鼠だ。夜になると、そいつは樹のてっぺんまでのぼって行って眠っている小鳥をみな食ってしまう。

食物は野生の山羊の肉と腐った魚。水兵も兵隊も、英国へ帰ることばかり考え、一日も早くナポレオンが死んでくれるようにと祈っている。われわれは兵隊のように正直なことはいえないので、下等なラムを飲んで喧嘩ばかりしている。

ロング・ウッドという五百米もある山の頂にあるナポレオンの配居は、難破船のよせあつめのような、窓枠もないみじめなボロ小屋で、廊下の一部を毛布で仕切って浴槽を置き、そこをナポレオンの浴室にあてていた。

ナポレオンにたいして慇懃すぎるというので、前任が罷免され、有名なハドソン・ロオが総督(センチュリー百科辞典には governor 総督とあるが、フランスのラルウスには gelier 獄卒となっている)になってやってくると、食費は自弁という規則をつくった。セント・ヘレナへ送られる途中、金も宝石も手形もみなとりあげられ、わずかばかりの金を隠して持っていただけだったので、間もなくナポレオンはじめ随員一同、文字通りの無一文になり、銀の食器や燭台を売ってそれを食費にあてた。

一八一六年にサヴァリー元帥(ド・レヴィゴ公)がジョージ・タウン(セント・ヘレナの町)の雑貨屋の主人へこんな手紙を書いている。

「いまわれわれのところにパンも珈琲も砂糖もない。数日前から、飲むことと食うことになると、われ勝ちに先を争うようになっている。信じられないでしょうが、事実です。

いつかマルコルム号の船長が来たとき銀の皿一枚について百二十ルイ払うといった。それとおなじ値段で買ってくださる方はないものだろうか。皇帝の命令で、鷲の絞章を磨りつぶしてしまったので、記念品にはなりません。銀の値段で買っていただければ有難い。返事はフォーピンに託してください。あれは敏捷だからロオに見つかるようなことはないでしょう。 S」

ハドソン・ロオはもとナポリの収税吏で、カンチョンの講和会議のときパラの手下になり、流言を放って会議を頓座させた悪辣なところを買われ、選ばれてセント・ヘレナの総督に任命されたという一種独得な人物で、ナポレオンを迫害したために歴史にその名をとどめた。

毎日ナポレオンの口述を筆記しながら「セント・ヘレナの日記」を書いたド・ラッス・カーズ伯は、ハドソン・ロオをこんなふうに形容している。

「髪は人参色のいやな赭毛で、顔はいつも充血して紅を塗ったように赤い。けっして相手を正視せず、狐のような眼付でそっと眼の隅から見る。高慢ですぐ激昂し、怒ったときはぞっとするような悪相になる」

一八一八年の春、植民大臣バザースト卿の甥が、喜望峰の帰りにセント・ヘレナへ寄った。ハドソン・ロオがこういった。

「君はナポレオン宛の手紙を預ってきたというようなことはないだろうね」

「そんなものは持っていない」

「もしそんなことをしたら、たとえ君だって喜望峰の監獄へ送って、生涯ヨーロッパへ帰れないようにしてやる」

なぜ手紙までそんなにきびしくするのかというと、ハドソン・ロオは、

「あいつが痩せるほど待っているのは忰と細君の手紙なんだがね、おれはあいつから一切の慰安を奪ってやるつもりなんだ」

といった。バザーストは、ナポレオンが病気だということだが、どんなようすかとたずねると、ロオは笑っていった。

「その病気だが、医者と監察委員が納得するようにゆるゆる死んでくれれば申分ないのだが。卒中ででも死んだら、診断書を書くのに、少々有難すぎておれも政府も困らなくてはならん」

赴任して来た当時、ハドソン・ロオがロング・ウッドの小屋のまわりをうそうそと歩きまわり、ゴムの木の紐のように細い枝が柵の外へ垂れているのを見ると、あわてて兵隊に切らせたという有名な話がある。

島の警備は突拍子もないもので、あらゆるもの蔭、道路、山稜、船が近づき得るかぎりの磯にはかならず哨兵が立ち、海岸に望楼をつくり、二十四リーグ沖まで近づく船影はすぐ視野に入るようになっていた。二艘の巡洋艦がたえず島の周囲を遊弋し、帆船も漁船も入港する前に調査された。島の漁船は日没とともに海軍の保管に移って錠をかけられるというぐあいだった。

ロング・ウッドの入口には四交代で番兵が立ち、ナポレオンの夕方の散歩などにはどこまでもついてきて、規定外の道へ入ろうとすると据銃して威嚇した、とモントロン将軍が「セント・ヘレナ島の思出」に書いている。「いたるところ掲示板だらけで、ナポレオンの逃亡を援助したるものは死刑、とか、現金にならざればいかなる物品も売るべからず、とか、書信の仲介、または授受したるものはアフリカ喜望峰植民地へ追放に処す、そういった布告がベタベタと貼ってあります。毎日、新しい布告が出るので、島の住民たちは、しまいには明日はなにが出るだろうと楽しみにするようになりました」

兵隊はフランス語で話すこと厳禁。島民がロング・ウッドを訪問すると、副総督のチェースがそばにいていちいち会話を筆記し、その後当分の間尾行をつけられるといううるささで、しまいには誰も行かなくなってしまった。すこしでもナポレオンに親切にすると、軍法会議にかけられたりアフリカへ追放されたりするので、士官達は随員に逢うと、話しかけられるかと思ってびくびくしていた。

警備の士官や島の住民にかぎったことではなく、随員も法令にしたがって仮借なく処罰された。サヴァリー将軍とグウルゴオ将軍夫妻は、総督に至当の敬意を表さなかったという理由で英国へ送られ、ド・ラッス・カーズ伯はスコットという従僕にロンドンの銀行宛の手紙を託したというだけで逮捕され、父子もろとも喜望峰へ追いやられてしまった。

ロンドンへ着くと、グウルゴオ将軍夫妻とサヴァリー将軍は、方々のサロンへ出かけて行ってセント・ヘレナのひどい風土やハドソン・ロオの暴状を訴えた。

ホランド卿、サセックス公、トマス・ムーア、バイロン卿などは、「身柄保護」の申入れを信用して、「敵の中の最も貴族的なものに身を寄せてきた」ナポレオンを、ポーツマス沖でノーザン・バランド号に積みかえ、騙討ち同様にセント・ヘレナへ連れて行ったトーリ党の陋劣なやり方を猛烈に攻撃したものだったが、うたた同情を禁じえない窮迫状態が知れわたると、そういう不当な待遇にナポレオンがいつまでも屈従しているはずはない、間もなく脱島するにちがいないという風説が英国中にひろがった。

「当時(一八一七年)ロンドンでの賭の割合は八対二。その時期はいつごろかということが両大陸の大きな話題で、それにつづいてナポレオンを救出する方法がいろいろに論議された。ナポレオンの兄弟達は復古政府に追及され、逃げ廻るのにいそがしく、とてもナポレオンを救出するどころではない。当然、尽力すべき連中はみな復古政府に寝返りをうち、真面目に救出を計画している休職青年将校達のほうは、熱意があっても実行力がないというわけであった。

英国では長い間コルシカの食人鬼と闘っていたトーリ党がひきさがり、ナポレオンの救出運動はむしろフランスよりも活溌なくらいだったが、中心にいるのはバイロンの流れをくむ学生達やロマンチックな陰謀家達で、コランが軽気球でナポレオンを救出するという計画同様、いささか空騒ぎというのに近かった。アメリカではナポレオンの恩顧をうけたロバート・フルトンが、三番目の自作の蒸気船リビングストン号で救出する計画をたてたが、そのころの蒸気船はハドソン河を航行するためにつくられたので、船底が平らで出力が弱く、大洋へ乗りだすなどというのはとても出来ない相談だった。最も熱心だったのはナポレオンの母のレチチア夫人で次々にいろいろな計画をたてたが、警務大臣のフウシエが妨害してみな挫折させてしまった。

ナポレオンの没落後、一五年の平和会議でアフリカ西海岸セネガル地方の先占を確認されたので、復古政府は六十年間失っていたアフリカに植民地を再建するため、サン・ルイ島に大遠征隊を送ることにした。

三檣大艦メジューズ号、アルギュス号、エコー号、運送船ロアール号に輸送指揮官ショーマレー海軍中佐、新総督シュマルツ大佐、警備軍司令官ボアシニョン中佐以下、技師、科学者、牧師、医師、三個中隊三百名の兵士、植民団の一行を乗せ、一八一六年(ナポレオンがセント・ヘレナへ流された翌年)六月十七日、フランスの西海岸エークス島を出帆したが、指揮官ショーマレー中佐の乗った大艦メジューズ号は、七月二日の午後三時、アフリカ西海岸アルグーインの岩礁に乗りあげて大破してしまった。

急造の筏で脱出した二個中隊の兵、百四十七名は二派に分れて猛烈な争闘をし、相手を殺して人肉を食うという惨憺たる漂流をつづけ、最後にはわずか十五名になってしまった。これは歴史上でもっとも凶悪な海難といわれ、巴里のルゥブル博物館に「メジューズ号の筏」というジェリコーの有名な画がある。

この海難を、セネガル文庫、ロシュフォール文庫、その他、どれもみな輸送指揮官のショーマレー中佐の無能のせいにしているが、一八四三年、白耳義のアンヴェルスで出版された「一八一六年にアフリカ西海岸で起った惨憺たる海難の原因。告白」という筆録を読むと、真の原因は意外なところにあったことがわかる。

この筆録は、サン・ルイという仮名で書かれているが、いろいろな事情から推して、ショーマレー中佐の副官、海軍少尉オウギュスト・ランがその筆者だと信じられている。これは海難の七年後、一八二三年に書かれているが、出版されたのはそれから二十年もたってからだった。

廿八日、マデイラ島、廿九日、カナリー群島のテネフリ島に着き、午後から上陸した。鬱蒼とした繁みに包まれた一風変った島の町を散歩していると、レーノオ大尉と軍医補のサヴィニーが追いついてきて、ちょっと話したいのだがといった。

それで海岸へ行って砂の上に坐わると、レーノオ大尉が、

「どうしてもいっしょにやってもらわなければならないことがあるんだ、実は」

と声をひそめて意外なことをいいだした。それはメジューズ号を奪ってセント・ヘレナへ行き、ナポレオンを救いだしてセネガルに王国をつくるという度はずれな陰謀なのである。

「メジューズ号は開拓資金として九万法の金貨を積んでいる。技師もいれば科学者もいる。ここへお連れさえすれば、あとは皇帝がいいようになさるだろう」

「それはわかったが、どういうふうにして皇帝をお救いする。そのほうの作戦は出来ているのか」

するとレーノオ大尉は、こちらにはメジューズ、エコー、アルギュスと新鋭艦が三艘もある。老朽のコンケラアとトリコロールなど問題でない。われわれが警備艦をサンデー湾へひきつけて海戦をしているうちに、運送船のロアール号が陸兵を乗せて風上のプロスペル湾へ入り、西側の崖から陸兵を揚げる、といったような不確実なことを臆面もなく述べた。海戦はともかく、メジューズ号の二十四斤砲ではとても砲台と喧嘩がならず、二十リーグも近づかないうちに沈められてしまうだろう。またむこうは訓練された三個中隊以上の正規兵がいるのにこちらはスペイン、伊太利、黒人の寄せ集めの百五十名足らずの募兵で、どう考えても勝利の確信はないが、この際正しい意見を吐くことも孤立することも、どちらも危険だと考えて協力を誓った。

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