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二黒の巳
平出修
種田君と一しよに梅見に行つて大森から歩いて来て、疲れた体を休ませたのが「桔梗」と云ふお茶屋であつた。
「遊ばせてくれますか、」と種田君はいつもの間延な調子で云つたあとで、「エヘツヘヘ」と可笑しくもないのに笑ふと云つた風に軽く笑つた。私は洋服であつたが、種田君は其頃紳士仲間に流行つた黒の繻子目のマントを着て、舶来の鼠の中折帽を被つて居た。
「いらつしやいまし、」と云つて上るとすぐ階子段を自分から先に立つて、二階へ案内したのが、お糸さんであつた。色の浅黒い、中高な、右の頬の黒子が目にたつ、お糸さんは佳い女の方ではなかつた。すぐれて愛想のよいと云ふ程でもなかつた。それでも私達は其夜からお糸さんが好きになつた。月に一度や二度は屹度遊びに行つた。種田君はもう四十を越して居た。私だつて無責任の学生ではなかつた。宿場女郎のさびれた色香にひかされて通ふ身の上でもなかつた。仕事で疲れた頭を休ませに、少し風の変つた処へ遊び場をさがしにあるいてた私達には、お糸さんの内が最も適当であつた。品川に気のいいお茶屋があると云つては、いろいろの友達にも紹介した。松田君も行つた。宮川君も行つた。骨牌の好きな、そしていつでも負ける草香君も行つた。お糸さんはすぐ是等の人人にもお気に入りになつた。「桔棟」へ行つて遊ばうか。二三人種田君の銀座の事務所に集まるとすぐ相談は決まるのであつた。日の暮れを待たずに行くこともあつた。今夜の費用を出さうと云つては奢り花などを引いた。料理代を賭て碁をうつこともあつた。お糸さんの内では別に芸者家をも開いて居た。おもちやと云ふお酌がまた私達のひいきであつた。其頃は十四であつたかと思ふ。円顔のむつちりとした可愛らしい子で、額付が今の菊五郎に似て居たので、おとはやおとはやと呼んで居た。おとはやと云はれると嬉しがつてよく私達の云ふ事をきいて、骨牌のお掃除や碁石の出し入れをしてくれた。
「もうあちらへ行きませうよ。」六時がすぎるとお糸さんはいつも催促した。六時を境にして昼夜の花に為切がつく、お糸さんは決して六時前にはあちらへ案内をしなかつた。客にむだなおあしを使はせないやうに考へてるからである。そんなことが私達の気に入るのであつたかもしれない。
「今日は此処でくらすんだ。」私はかう云つて動かないことがある。するとお糸さんはせきたてる。
「いけませんよ、待つてるぢやありませんか。」
「誰が誰をさ。」
「誰でせう。」
「だが、じつにもてないね。」
「御じやうだんばつかし。貴方方にそんなことがあるもんですか。みんなが大騒ぎですよ。」こんなことをお糸さんは云ふけれど、花魁の口上だと云つていい加減なこしらヘごとを客に耳打すると云ふ、そんな人の悪いことは、お糸さんは決してしなかつた。
「どう云ふんだらうとお糸さんに聞くのもをかしいが、じつさい愛想のない女だね、」と私が真面目顔に云へば、
「どうしたんでせうねえ。勿体ないわ、貴方方に。」などとお糸さんは私に同情してくれる丈であつた。
「取りかへてごらんなさい、」と云つてくれたこともあつたが、
「なあにもてなくてもいいんだよ、」と私ははつきりしたことを云はない。
「貴方はさつぱりしていらつしやるんだから、」としひて見立替を勧めるでもなかつた。
ともすると連中一同が調子を外して大騒ぎをすることがある。宮川君丈が上戸であとはみんな下戸であつた。その下戸の種田君に追分と云ふおはこがあつた。何程の甘味のあると云ふではないが、寂のある落ちついた節廻しは一座を森とさせることが出来た。金太郎と云ふ芸者がひよつとこ踊でよく喝采を博した。おもちやは鼓をうつ。お糸さんも細いすきとほつた声で、中音に都々逸や端唄を歌ふ。素人ばなれのした立派な歌ひ振であつた。さう云ふ中で私も負けぬ気でうろおぼえの御所車などを歌ふのである。ある晩お糸さんが、
「おもちやさんがさう云つてましたの、栗村さんは歌を歌はないといい人だけどとね、」と云つておなかを抱へて笑つた。
「正直でいいね。」私も一しよに笑つた。
「おもちやさんは栗村さんに惚れたのと聞きますと、あの子がおもしろいんですの。惚れたつてつまらないわ、年が違ふんですものと云ふんです。自分と同じ位の人でなくちやならないと思つてるんですね。」
「さうさ。三十と十四ぢや少し違ひすぎるかも知れんね。」
一年あまりの間に私達の遊びもやや気がぬけて来た。はずみがなくなつたと云はうか興味がさめたと云はうか。とにかく私達の足も大分遠のいて来た。
「すつかりお見かぎりですね。」などとお糸さんは電話をかけて来ることもあつた。私達は共時々いい加減の挨拶をして居たが、其頃は主に新橋で会遊するやうになつて居たのであつた。
「まあお珍らしいこと。」お糸さんは私の貌を見るなりさう云つた。本統に久しぶりであつた。どうした気の向き様か草香君と一緒に半年振り程に「桔梗」へ行つたのである。
「此頃は新橋ださうですね。若くつて綺麗ですから御無理もありませんけれどねえ。」お糸さんはこんなことを云つて心から珍らしさうに待した。
「どうだ松田君は来るかい。」
「さあ、」と云つてお糸さんはためらつたが、思ひ切つたと云ふ風をして、
「貴方がたお遇ひになりませんの。」
「遇はんこともないが、あまり消息がくはしくないんだて。」
「さうですか。実は大変なんですよ。ほらあちらへ出て居るはごちやんね。」
「あのおばあか。」草香君が引取つて云つた。
「かはいさうに。まだ二十五にしきやなりませんもの。」
「二十五ならおばあだあね、」と私も云つて、
「どんな女だか私にはよく分らないが。」
「二三度一座なすつたでせう。あの楼ではお職株ですの。もう本気になつて、松田さん松田さんつて、しよつちうのろけちらして居るんです。」
「それがどうした。」
「松田さんがうまいことをまたおつしやるんですから。何しろお若くてお立派で、それにお金持と云ふんですから、誰だつて本気になりまさあ、」とお糸さんは語調をくづして話をつづけた。
最初は連れとであつたが、此頃は松田はよくひとりでやつて来て、羽衣と云ふ女を買ひなじんだ。もう女としての見所もない大あばずれだと私達はきいて居た。松田もまだどこかにお坊つちやんの処はあるが、それかと云つてそんな女に打ち込むほどの初心でもないのである。お座なりのお世辞がだんだん身を縛つてしまつて、ぬきさしの出来ない破目となつたのでもあらう。
「さうして松田はどうすると云つてるの。」
「為方がないから借金だけ払つてやらうかと、おつしやつていらつしやいました。」
「馬鹿な、そんな事をしてどうなるか。」
「あたしもね、いろいろ考へて居ますけど、あたしから申上げたつてもねえ。」お糸さんは客の不為の事となるといつもかう真面目であつた。
私と草香君とが松田の名で手紙を書いた。あんまり遊んだので首尾がわるくて上海の支店へ出稼ぎにやられた。何月の何日に東京を立つて何日に此地へついた。外国と云つた丈でも分るだらうが誠に寂しくてたまらない。かう云ふ趣意のものを書いてそれを上海の友人へ送つてそこから発信して貰ふ。一方松田君に遇つて姑く足を遠のかせた。上海の消印のある手紙を請取つてお糸さんは女に見せた。手紙の表書はお糸さんにあてたので、お糸さんから女へ届くやうに仕組んであつたのである。女はすつかり真にうけて、
「松田さんの奥さんもあんまりだ。あれつぱかしの遊びがなんだ、」と云つて腹を立て、「それにしても松田さんこそお気の毒な。知らぬ他国へなんどやられて、養子と云ふものは辛いわねえ、」と云つて、お糸さんの前でほろはろ泣いて居たと云ふ事だ。
「桔梗」へ行き出してから三年ほど後の事であつた。私は種田君の事務所へ行つた。宮川も草香も先に行つて居て、雑話に耽つて居た。
「今お糸が来るぜ、」と種田君は私を見るなり云つた。
「へええ。どうしたんです。」
「なんだか、先生にお願ひがありますつて、今電話が来たんだ。」
「久し振だね。あの方面の噂も。」
「一体四人が揃つたのも久し振じやないか。」と一番年かさの宮川君が云つた。
「なんだか無事に治まりさうもないな。」草香君は例の如くにやにやして居る。
「品川方面は御免だよ。」
こんなことを話し合つて居たが、お糸さんが来たら、何か一趣向をしようかと皆が思つてるらしかつた。
「今日はお糸さんがお客さんだ。」
「さあずうつとお先へ。」
お糸さんが来ると四人が揃つて口口に串戯を云つた。
「あら、まあ。」お糸さんも此一座の思ひがけない光景に驚いた。
「まあ。」とまた云つた。「皆さんどうなすつたんです。」
「君を待つて居たのさ。」
「君から電話だつたから、みんなを集めて置いたんだ。」
お糸さんの用事つてのは詰らないことであつた。品川のある小新聞社の社員が艶種を売りに来たので、少し許りの金を「桔梗」のお上がくれてやつた。それと同じ様なことが外に二三軒あつたので足がついて、其奴が警察へ引かれる。お糸さんもかかりあひとあつて警察へ呼び出された。
「警察へ行つてこれこれだと申上げると、警部さんが一一聞き取つて、何やら書いたものに判を押せと仰有るんです。判は持参致しませんと申しましたら、爪印でもいいつて仰有るんでせう。とうとう自分で名前を書いて爪印して来たんですが、一体それは何ていふ書付なんでせう。」
「何ていふ書付か、それはお前さんに聞きたいんだ、こちらで。」と種田君が云つた。
「だつて読んでも見ないんですもの。」
「読まない書付に判を押すと云ふ事があるものか。」私は少し冷笑気味に云つて種田君に向ひ、
「告訴状かしら。」
「さうさね。」
「その告訴つてどんなことなんです。」
「つまり其男が恐喝したんだからよろしく御処分願ひますと云ふやうなことさ。」
「いいえ。あたしから御処分を願ひますなど決して申さなかつたんです。そんなことをすると跡がこはいんですもの。」
「ぢや始末書かも知れぬ。それからどうした。」
「もう帰つてよろしいと警部さんが仰有るものだから、それで事が治まつたものと思つてますと、昨日こんな端書が来たんでせう。」
お糸さんは帯の聞から二つに折つた一葉の端書を取出した。種田君と私とが殆ど一しよに手を出した。見るとそれは予審判事からで訊問の筋があるから何月何日出頭せよと云ふ、例文の呼出状であつた。最前から話に気を取られ乍らも黙つて碁盤に向つて居た草香宮川の両君も之を見た。
「なんだいこんなもの。」最初に宮川君がふき出した。
「昨日夕方この端書が来ましたの、あたしに裁判所へ来いつてんでせう。私もうこはくてこはくて、昨夜は寝ずに心配しましたわ。」
「何も心配することがないぢやないか。」種田君は微笑み乍ら云つた。
「だつて未決とやらへやられるつてぢやありませんか。」
「馬鹿な、そんな事が。」私は言下に打消した。
「でも内の姐さんが、それはそれは大騒ぎをやるんでせう。未決へ行くと、毛布がいるの紙がいるのつてね。明日は内へ帰らない覚悟で出なけりやつて、今朝からお不動様を拝んで居ましたんですの。」
「お前さんがつまりゆすられたんでせう。」
「さうですわ。」
「自分がゆすられて、自分が監獄へ行つてたまるものか。」
種田君は全く真顔で説明をした。
「此端書はお前さんに尋ねたいことがあるから出て来いと云ふんだ。何でもない事ぢやないか。証人に呼ばれたんだよ、お前さんが。」
「へえ、それぢやまた警察の様なことを聞かれるんですか。」
「さうだ。」
「それで先生。」お糸さんは少し落ちついた。「ねえ先生跡がこはいんですから、おあしはあげたけれど、あれは先方で何も仰有らないうちに、あたしからあげたんですつて、さう申したらわるいでせうか。」
「それこそ未決騒ぎがおきるよ。」私が話を引取つた。
「先方が何も云はんのに、君がおあしを上げたつて、そんなことは云つたつて、誰がほんとうにするものかね。」