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今戸心中
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今戸心中
広津柳浪
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Original Public Domain
Chapter 4 of 11

四

「どうしたんだ」と、西宮は事ありそうに入ッて来たお梅を見上げた。

「善さんですよ。善さんが覗いていなすッたんですよ」と、お梅は眼を丸くして、今顔を上げた吉里を見た。

「おえない妬漢だよ」と、吉里は腹立たしげに見えた。

「さっきからね、花魁のお座敷を幾たびも覗いていなさるんですよ。平田さんが怒んなさりゃしまいかと思ッて、本統に心配しましたよ」

「あんまりそんな真似をすると、謝絶ッてやるからいい。ああ、自由にならないもんだことねえ」と、吉里は西宮をつくづく視て、うつむいて溜息を吐く。

「座敷の花魁は遅うございますことね。ちょいと見て参りますよ」と、お梅は次の間で鉄瓶に水を加す音をさせて出て行ッた。

「西宮さん」と、吉里は声に力を入れて、「私ゃどうしたらいいでしょうね。本統に辛いの。私の身にもなッて察して下さいよ」

「実に察しる」と、西宮はしばらく考え、「実に察しているのだ。お前さんに無理に頼んだ私の心の中も察してもらいたい。なかなか私に言えそうもなかッたから、最初は小万に頼んで話してもらうつもりだッたのさ。小万もそんなことは話せないて言うから、しかたなしに私が話したようなわけだからね、お前さんが承知してくれただけ、私ゃなお察しているんだよ。三十面を下げて、馬鹿を尽してるくらいだから、他には笑われるだけ人情はまア知ッてるつもりだ。どうか、平田のためだと思ッて、我慢して、ねえ吉里さん、どうか頼むよ」

「しかたがありませんよ、ねえ兄さん」と、吉里はついに諦めたかのごとく言い放しながらなお考えている。

「私もこんな苦しい思いをしたことはない」

「こういうはかない縁なんでしょうよ、ねえ。考えると、小万さんは羨ましい」と、吉里はしみじみ言ッた。

「いや、私も来ないつもりだ」と、西宮ははッきり言い放ッた。

「えッ」と、吉里はびッくりして、「え。なぜ。どうなすッたの」と、西宮の顔を見つめて呆れている。

「いや、なぜということもない。辛いのは誰しも同一だ。お前さんと平田の苦衷を察しると、私一人どうして来られるものか」

「なぜそんなことをお言なさるの。私ゃそんなつもりで」

「そりゃわかッてる。それで来る来ないと言うわけじゃない。実に忍びないからだ」

「いや、いや、私ゃ否ですよ。私が小万さんに済みません。平田さんには別れなければならないし、兄さんでも来て下さらなきゃ、私ゃどうします。私が悪るかッたら謝罪るから、兄さん今まで通り来て下さいよ。私を可哀そうだと思ッて来て下さいよ。え、よござんすか。え、え」と、吉里は詫びるように頼むように幾たびとなく繰り返す。

西宮はうつむいて眼を閉ッて、じッと考えている。

吉里はその顔を覗き込んで、「よござんすか。ねえ兄さん、よござんすか。私ゃ兄さんでも来て下さらなきゃア……」と、また泣き声になッて、「え、よござんすか」

西宮は閉目てうつむいている。

「よござんすね、よござんすね。本統、本統」と、吉里は幾たびとなく念を押して西宮をうなずかせ、はアッと深く息を吐いて涙を拭きながら、「兄さんでも来て下さらなきゃア、私ゃ生きちゃアいませんよ」

「よろしい、よろしい」と、西宮はうなずきながら、「平田の方は断念ッてくれるね。私もお前さんのことについちゃア、後来何とでもしようから」

「しかたがありません、断念らないわけには行かないのだから。もう、音信も出来ないんですね」

「さア。そう思ッていてもらわなければ……」と、西宮も判然とは答えかねた。

吉里はしばらく考え、「あんまり未練らしいけれどもね、後生ですから、明日にも、も一遍連れて来て下さいよ」と、顔を赧くしながら西宮を見る。

「もう一遍」

「ええ。故郷へ発程までに、もう一遍御一緒に来て下さいよ、後生ですから」

「もう一遍」と、西宮は繰り返し、「もう、そんな間はないんだよ」

「えッ。いつ故郷へ立発んですッて」と、吉里は膝を進めて西宮を見つめた。

「新橋の、明日の夜汽車で」と、西宮は言いにくそうである。

「えッ、明日の……」と、吉里の顔色は変ッた。西宮を見つめていた眼の色がおかしくなると、歯をぎりぎりと噛んだ。西宮がびッくりして声をかけようとした時、吉里はううんと反ッて西宮へ倒れかかッた。

折よく入ッて来た小万は、吉里の様子にびっくりして、「えッ、どうおしなの」

「どうしたどころじゃアない。早くどうかしてくれ。どうも非常な力だ」

「しッかりおしよ。吉里さんしッかりおしよ。反ッちゃアいけないのに、あらそんなに反ッちゃア」

「平田はどうした。平田は、平田は」

「平田さんですか」

いつかお梅も此室に来て、驚いて手も出ないで、ぼんやり突ッ立ッていた。

「お梅どんそこにいたのかい。何をぼんやりしてるんだよ。平田さんを早く呼んでおいで。気が利かないじゃアないか。早くおし。大急ぎだよ。反ッちゃアいけないと言うのにねえ。しッかりおしよ。吉里さん。吉里さん」

お梅はにわかにあわて出し、唐紙へ衝き当り障子を倒し、素足で廊下を駈け出した。

Chapter 4 of 11
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