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悦しき知識 ――停年講義(昭和三十三年九月十六日)
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悦しき知識 ――停年講義(昭和三十三年九月十六日)
深瀬基寛
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Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 1 of 4

1

昨日は老人の日でした。その今日、停年講義をいたしますことはまんざら無意味でもないと存じます。昨日は老人の日であると同時に勤評ストの日でもありました。それから今日は今日で、私の家の近くまで市電の新線が開通しまして、私の家から大学までの通勤が何十年振りに大へん便利になりましたが、あいにくと明日から私は学校に来なくてもよくなりました。

さて今日の講義ですが、私は何十年となくリーディングを教えて来ましたから、本来ならば英文のテキストを一二枚プリントに刷って来て、それに訳をつけると、それがいちばん正直な講義で、勤評の対象にもして貰えるわけですが、今日は聴講生の人数が未定なのでそれも無理です。実はこの六月遠方の或る大学で講義を頼まれましたので、九月にやらなければならない停年講義の予行演習でよければやりましょうと答えておきましたところ、先方はそれでもよろしいということで引き受けました。むかしの三高時代に私は文科なら二回、理科なら三回、同じ講義を繰り返したものですが、第一回目の方が誤りもあるがフレッシュで熱もあっていちばんよい。二回目になると自分で解っているつもりで説明を飛ばしたりするので時間があまって仕方がない。ところで六月の予行演習の講演を或る人がテープに取っておいてくれました。それで今日は二回目ですが、いろんな点で間違いだらけかも知れませんが、そのテープで第一回目のフレッシュなところを聞いていただきたいと思います。途中で時々黙ってしまうところがありますが、それはマイクを離れて人の名前や本の名前を原語で黒板に向って書いている時です。その時を見計って今日もなるべくスペリングを間違わないように注意してボールドに書きます。書いたものなら聞き流しでなくて勤評の対象にもして貰えるわけです。二三日前に予行演習のもひとつ予行演習を掛けてみましたところ、今の私の声よりも少くとも半年ばかりは若く聞えました。

でまあ、私の題は、「悦しき知識」といたしましたんですが、これは、これに似た題はニーチェの本にありますけれども、私は昔読んで大方忘れてしまって、恐らくそれとは内容はてんで――勿論ニーチェ程えらい人間じゃありませんので、全然ちがうんだろうと思います。この十九世紀の、これは非常な、十九世紀というのは非常に夢のような時代であると思いますが、その後半に、つまりひろく言ってイギリスの精神文化のために戦ったと言いますか、トーマス・カーライル先生という方がおられるんですが、この方が経済学――勿論あの時代ですから、アダム・スミスをもとにしまして、経済学というものを dismal science と悪口をいって、――これはニックネームの大家で、カーライルというのはあらゆる場合に渾名をつける大先生ですから、自分の気にくわないような奴はトイフェルスドレック(悪魔の糞)と、いうようなドイツ語まじりの、ま、これは気にくうてるのかくわんのか――ま、そういうニックネーム製造上の大家なんでありますが、これがその経済学、イーコノミック・サイエンスを、ディズマル・サイエンスと申したんであります。つまりあんなものはですね、経済的法則をどっかから導き出してくるのですけれども、これは、ま、法則かも知れないけれども、どうも陽気な悦しき知識でないと。まァアダム・スミスはそんな、恐らくマルクスもなおさらあの陰気な顔――マルクスの顔を写真でごらんになったら、実に dismal な顔をしていると思いますが、これもそのカーライルが今日生きていたら何と言いますか、まァ most dismal science と言うたかも知れませんが、とにかくその後にダラスという又べつの先生が現れまして、これが『陽気な科学』という本を書いたんです。これは勿論カーライルの「陰気な科学」をふまえての話ですが、そんなら何のことが書いてありますかと言うと、実はこれは、陽気な科学とは、poetry だと言うんです。詩、だと言うんです。つまりこの悦ばしき知識というものは、詩から生れるんだ、poetry からくるんだ、joyful wisdom あるいは joyful knowledge というのは comes from poetry だということを言っているのであります。

ところが、大体、いつの時代でもですね、その時代に、その時代の、詩の弁護、defence of poetry というものが、英文学にはあるんであります。これは皆さんの中で英文学をやっていられる方はとっくに御承知と思いますけれども、ごく簡単な例をあげますと、古くはあの十六・七世紀の、シェイクスピアの時代、サー・フィリップ・シドニーという偉いもののふがおりまして、これは戦場で瀕死の手傷を負って、まさに息たえんとする時に、かたわらに倒れている戦友をかえりみて、この水は――一滴の水が残っていたんです、水筒か何かに――おれよりもお前の方がまだ必要だ、おれよりもお前が――両方とも死にかかってるんです――そう言って最後に末期の水を瀕死の親友に与えて息が切れたという、ものすごい武勇伝中の一人ですが、これがエリザベス朝時代の An Apologie for Poetrie ――詩の弁護――というのを書いたんであります。

あいだをとばしますと、十九世紀になりますというと、有名なシェリ、シェリの、これも非常に有名な、A Defence of Poetry ――詩の弁護。これは、えェ、ピーコックという先生が現われまして、これが、大体人間の知識はだんだんだんだん日進月歩して行く。科学の進歩に較べるというと、この poetry なんていうものは、まるで子供のガラガラだと言うんです。rattle, rattle. のガラガラガラだという。で、子供はガラガラでだませるけれども大人はだませない。詩なんかで誰がだまされるもんか。とつまりこれは詩の進歩説、詩というかもっと人智、人間の知識の進歩を信じた人の説でありますが、これに対してシェリがカンカンになっておこって、『詩の弁護』という、これは有名な、今でも有名な、昔からもたいへん有名な、詩の弁護なんであります。

それから、ワーズワスの Lyrical Ballads の序文という、これも立派な詩論であります。シェリと同じ時代でありますが、ま、そういうふうに下って来ますというと、もっと現代へ来て、そういうふうなものが何があるかということを考えてみますと、Science and Poetry という、これははっきり憶えませんが、今から二十何年ほど前に出た本ですが、ごく小さな本で五十頁か六十頁かの本ですが、日本ではそんな本を書いたって誰も、――あの、葬られるだけで、厚いだけいい、大きな本だけ立派だと思っているんですが、これがその年の文学評論の year-book の巻頭にとりあげられたんです。というのは、この本の含む問題性の故なんです。非常に小さな本でありますけれども、poetry というものの現代における位置というものをはっきり掴んでいる。科学はどういう目的をもっているか、詩はどういう目的をもっているかということを書いた本であるが故にですね、これが非常に有名になり、恐らく現代でもこの本はもう詩学の評論の古典として残っているんであります。

昔、私が教えました三高の学生で、朝鮮人で、李※河という非常に優秀な学生がありまして、これは現在――これは余談でありますけれども、アメリカが朝鮮戦争、この間の朝鮮騒動の時、朝鮮の泥濘には参ったらしいですが、あのぬかるみよりももっと手古摺ったのは朝鮮語。大体、朝鮮語とアメリカ語、英語との字引きがないんです。これはぬかるみ以上にのたうちまわった訳なんです。そこでこの李君がハーヴァード大学に招かれまして、今韓英か英韓の字引きを製作中なんでありますが、この李君に昔すすめてこの本を訳させたことが、私ありますけれども、これも戦前のことでもうその本がどこへ行ったか、恐らく爆撃で一冊も残っていないだろうと思うんであります。

この本のことも言えば、もう一時間はすぐたちますけれども、これは結局――あとでもういっぺんふれるかも知れませんですが――これはまあ非常に大事な本ということを憶えていただきましたらいいんですが、最近に、ま、たんと――詩に関する本はもうたんと出ているんであります。これは日本では小説がたんと売れて、石原慎太郎がベスト・セラーになったりするんですが、これはやっぱり日本とイギリスとの大変な違いで、むこうはもう詩の本が、詩集も出ますけれども詩に関する本がどんどん出ているのであります。その中に、やはり小さな本でありますけれども、The Poet's Way of Knowledge「詩人の認識の道」という本なんでありますが、今日はこの本を主として、現代における詩の defence of poetry、何もこの人が現代の詩の弁護の全部を代表している訳ではありませんけれども、この人の本を私は二、三訳したことがあり、子供向きの本ですけれども『詩を読む若き人々のために』という本と『現代詩論』という本がありますが、その人の最近の本なんであります。オックスフォードの詩学の先生、今オーデンがとって代っておりますけれども、ま、そういう詩人であって詩学の教授であるということさえ分かっていただけば結構です。これはまあ大変私は面白く読んだんであります。これはリチャーズの反駁――リチャーズのことも踏まえておりますけれども、これから一歩出た考えだと私は思っております。

科学者が科学的な認識をする道が一つある。ところが、リチャーズの考えでは、詩人の言うことは科学者の言うような真理のことじゃない。これは詩人が嘘をつくんです。嘘をついて――ま、大体日本の詩にも「巨大な胃袋の中に」とかいうような詩もあるんです。胃袋の中に何か人間がおるような詩を書く。そんなことが常識では考えられんけれども詩ではそれが、嘘が、本当になるんです。つまり事実に関する真理は科学が引受けるんだが、詩の方は嘘をつくんだと。だからそれは本当であっても嘘であっても構わない、まァむしろ嘘の方だと。大ざっぱに言うとそういうことになるんですが、このルーイスはですね、それでは、どうも、これは、やっぱりこれは科学本位の詩の考え方じゃないか、真偽の区別は科学にまかせておいて詩人はそれに責任を負わない、詩人といえども何※かの仕方で詩的認識というものを自分の詩の中で提供しているのではあるまいか。という立場から半分はリチャーズの立場に対する反駁でありますが、もう少し現代的な詩観というものを提供したのであります。

これは、私は非常に面白いと思うのですが、現代でも私はやはり science and poetry という問題、まァ宗教と詩という問題もありますけれども、あまり範囲をひろげますと、今日暑いのが余計暑うなりますので、まァええ加減できり上げるつもりですけれども、これが依然として問題でありますのは、この問題の取り上げ方が、リチャーズとは大分変ってきているのであります。大体、さっきのシェリ、ワーズワスの時代の defence of poetry はどういうところに立って詩を弁護したかと申しますと、あの時代の Industrial Revolution ――産業革命――です。あれがつまりロマンティシズムの、つまりキーツとかシェリとかワーズワスの時代の詩的活動の中心が、この産業革命というものに対する reaction です。非常な反逆。これがつまりイギリスのロマンティシズムというものの根本なんです。彼ら詩人にとってはですね、この煙突や鉄道や、こういう我々の日常卑近な生活を安易にするための、知識あるいはそれの応用たる科学工業、こういうもののために日々にイギリスの田園が荒らされて行って、詩人の呼吸する余地がなくなった。これに対する反逆なんでありますが、現代では、ま、産業革命に対する詩人の反逆、これは依然としてやはり詩人の課題だと思うんです。それはですね、我々のいわゆる進歩思想というものによって、生活の改善を目標にしている科学というものが、工業化の道をいつまでも歩みつづける限りは、詩人はどうしてもそういう世界に住みきれないんです。だからこれに対する何※かの詩人的認識を自らの詩の中で発表せざるをえない。だから、産業革命というものの課題は、ロマンティシズムで終っているとは思いませんが、その他に詩人が相手としなければならない科学の新しい局面が続々として現われて来た訳なんであります。

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