Chapter 1 of 3

數年まへの春、木曾へ旅したときのこと。落ちつく先は、奈良井にしようか、藪原にしようか、とちよつと氣迷つたのち、――まづ、鳥居峠を越えて、藪原までいつてみた。いい旅籠でもあつたら、とおもひながら、お六櫛などをひさいでゐる老舖などのある、古い家竝みの間をいいかげん歩いて、殆どもうその宿を出はづれようとしたとき、一軒、それを見るなり矢張あつたな、とおもつたやうな、昔なつかしい家作りの、小さな旅籠があつた。

其の夜の泊りは其處にきめて、ともかくも、その宿のはづれまでいつてみた。すぐもうその先きは鳥居峠にさしかかるらしい、その宿はづれには、一本の大きな梨の木が立つてゐた。その花ざかりの木を前景にして、そこから見下ろされるまだ春淺い谷間を、私はいかにも此處まで來たかひのあつたやうな氣がしながら、しばらく眺めてゐた……。

夜、うすぐらい爐邊で、その宿の娘が串にさした川魚を燒いてゐた。その傍へいつて、私もその爐の火にあたらして貰つた。その魚の名を聞いてみたが、なんだか覺えにくい名で、私はすぐ忘れた。もつとも、つまらない魚です、と娘も云ふには云つてゐたが……。そのかはり、秋、鶫のとれる時分に是非いらしつて下さい。その時分には、よく東京のお方がお見えになります、といふ。

「ものなど書く人もたまには來ますか?」と私はきいてみた。

「はい、いろんなお方が……」娘はいたつて口數が少ない。そこで私はもう一度きく。

「どんな人?」娘はちよつと考へてゐたが、まづ一番さきに、「津村信夫さん……」といつた。

私はおもはずにつこりとした。――實はさつきから、私も、こんな話を宿の人たちと交はしながら、こんな煤ぼけた爐のまへに胡坐をかいてゐるのは、自分なんぞではなくて、津村信夫だつたらさぞ似合ふだらうに、と思ひ描いてゐたところだつたのだ。……

Chapter 1 of 3