第六章 夜の訪問者
検死官はそれ以上質問がないようだったし、証人が証言すればするほど明らかなのは、とても複雑で厄介な問題に直面している。
今まで判明したことは犠牲者が故意に引きこもり、身元を隠し、人目を避けている。同様に明らかなことは異常な神経を使い、誰からも、いや頭取にさえ金の出所を知られないようにしていることだ。
検死官「とても不可解です。郵便配達員にもう一つ質問して終わります。この十八ヶ月間、ポンダ通り二号館に手紙は一通も配達しなかったということですか、一切ないでしたか」
証言人「いえ、そこまでは言い切れません。当然大量のちらし、つまり商売人の宣伝手紙があります。あの邸宅へ私が配達した唯一の手紙は外国からのもので、しかも召使い宛でした」
検死官「なぜ召使い宛と分りますか」
証言人「時々、朝じかに受け取ったからです。召使いが階段掃除をしているときに配達することがありました。召使いが、私宛ですとか言っていました。そして時々すぐ開封していました。だいたい六週間に一回の割合でした」
検死官「召使いの名前を覚えていますか」
警部補「大して役に立たないと思います。ギルレイ氏はここへ来てずっと一人の召使いしか置かず、この召使いは外国人で、同氏が邸宅を借りたとき来ました。しかも亡くなり、二週間以内に埋葬されています。召使いの病気を診察した医師に会いましたが、何も得られませんでした。召使いは肺炎で死亡し、友人か誰かに看病されており、必要なら追跡します。もちろん良ければ医者を召喚しますが、時間の無駄でしょう」
検死官「そうですか。その召使いには友人がいたのですね。召使いの身元を知れば、少しは進展するでしょう。どんなに奇妙に秘密裏にしようと、十八ヶ月間も邸内にいる召使いなら、被害者のことを大いに知ることもあるでしょう。ところで郵便配達員、その召使いの名前を知りませんか」
証言人「申し訳ありませんが、知りません。ただ知っていることは洗礼名がイズミと言うことです。名字は知りませんが妙な外国名で、特殊な筆跡です。これがその召使いが持っていた唯一の手紙ですが、いつも外国の消印がありました」
検死官「欧州それとも米国の消印ですか」
証言人「確かなことは言えませんが、欧州のどこかだったと思います。紙が非常に薄く、米国では滅多に使いません」
郵便配達員の後にほかの証人が続いたが、ほとんど話に中身はなかった。同地区にギルレイ氏御用達の商人もおり、注文はいつもギルレイ氏本人が行い、どの時も即金払いだったとか。
劇場や音楽会の代理店も同様な話をしたし、そのあとギルレイ氏行きつけのホテル食堂店主も、それを裏付けた。いつも一人で食事し、常に正装で来店し、誰とも話さなかった。食事態度は静かで完璧、そそうは見たことがない由。
二時間の証言のあと、死因審問は一週間延期され、ぞろぞろ出てきた傍聴者の表情は、困惑するばかりで、朝刊を熟読した方が良かったみたい。
そのなかにテンプルもおり、社会の陰を知り尽くした記者の洞察力を持ってしても、行きずりの通行人同様に途方に暮れていると認めざるを得なかった。会場を出て、スパロウ警部補と一緒に歩いた。
「警部補はどう思われますか」
スパロウ警部補が力なく言った。
「聞かないでくれ。昔はきつい仕事もしたものだが、こんなのはなかった。まず動機が全くないし、次に被害者の身元が何も分らん。素性を完全に隠しており、もし親戚が現れなければ次の手が打てん」
「親戚は現れないでしょうね」
「ああ実を言うと分らん。被害者は明らかに紳士だ。氏も育ちも良いし、上流社会に慣れている。たぶん名家と血縁がある。だがその貴族性に対し、何かどこかに悪がある。だからおそらく親戚は黙っているのだろう。今ごろ英国中に知れ渡ったから、親戚が名乗り出たら、大衆の興味から逃れられないだろう。だから慎重に考えて引っ込んでいる。もし偶然、白日の下に引き出されたら、親戚だとは全然知らなかったと言って非難は逃れられるだろう。そしてギルレイが偽名だったといえば、確実に正当化される。実際、当然なことだ。被害者の本名はギルレイでもなくスパロウでもないのだからな。君も知っての通り、犠牲者は金持ちだ。宝石やら高級家具を大量に持っている。だから充分、いや充分すぎるほど、しめやかに埋葬できる。親戚もこれらをよく勘案して、名乗り出ないことに決めたのさ。実際、名乗るべき理由はない。なぜ醜聞に引きずり出されなきゃならない? なぜ噂されなきゃならない? 万が一親戚だとばれたら、殺人犯の疑いを少しでもかけられかねない。考えれば考えるほど好かんな、テンプル君。本官はこの種の事件をずいぶん担当したが、未解決となれば、世捨て人がしばしば被害者になりかねん。もちろん本官は全力を尽くすし、いま別なところを探っている。誰も知らないが、些細なことが重要な結果を導くこともある。君も本官と一緒に行きたいだろ」
テンプルがかりかりして言った。
「たぶん出来ませんね。実は貴重な午前を費やしました。知っての通り、僕はけっこう忙しくて、二紙で働いています。今から明朝二時まで次週向けの週刊サザンヘラルド誌を仕上げなければなりません。それに大量の原稿にも目を通さなければなりません」
案の定、午後遅くなってからやっと時間が取れて、豪壮なヘラルド社ビルの上階にある小部屋へ上がり、ここで週刊誌を編集することになった。
見れば秘書室で二名の社員が、仕事に没頭している。床には各種の切り抜きが散乱し、のりと煙草の臭いが漂っている。いつもはすぐ仕事にかかるのだが、そうしなかった。通常であれば、直ちに仕事を始め、熱中する。だが今は困惑していた。まずいい記事を書かねばならないが、詳細を詰め切れていなかった。
いま衝撃的な犯罪が起こって欲しくない。わずらわしいことがいっぱいあった。たとえばあの手紙の件だ。手紙のことを考えれば考えるほど、謎が深まる。
自分の机は特殊な机だ。私用書類はすべて中に入れていたので、とても注意して鍵をかけており、誰もいじれないようにしていた。
メーカーの保証では、誰も鍵をこじ開けられないし、こじ開けられたという事実もないし、実際ほかの鍵では開かないはずだ。
いままで施錠がいじられた形跡はない。よくこの机を使っていたので、この点に関して少しも疑っていなかった。それに不思議なことだが、ほかのものは何もなくなっていない。なぜこの特定の手紙だけが抜き取られたのか不思議だ。
ほかにも資料があり、恐喝目的ならもっといいものがあるだろう。とにかく手紙が盗まれた。そしてシルバデール令夫人が自分の手紙に対して、恐ろしい代償を払っている。
必要なのはすぐに悪党の名前を調べることだ、こんな無垢な女性の感情につけ込みやがって。それを思うと、フィル・テンプルの心臓がどきどきし、指先までずきずきした。
とりあえず手紙の件は脇に置き、秘書室へしけ込んだ。たぶん少し経てば、気を静めて仕事へ戻れる。テンプルのいつものやり方は社員達が退出した後、仕事をすることだ。
あまりにもギルレイのことや、シルバデール令夫人の騒ぎに心を奪われていたので、作家志望の原稿に気が向かなかった。机の上にゴミのようにたまっている。テンプルが尋ねた。
「誰かここへ来たか」
年配の社員が言った。
「一人来ました。原稿の追っかけです。取り戻したいようでした」
「おう、了解。そんな奴は、おととい原稿を送り、今週出版しろ、折り返し小切手を送れという輩だろう」
「そんな様子は全くありませんでした。原稿を間違って送ったとか。郵送を任されていたが、うっかり間違った封筒に入れたようです。とにかく騒ぎ立てました。見つからなかったからです。言いましたよ、まだ査読されておらず、編集長の机に鍵をかけて保管してあるのでしょう、同種の面白い小説と同じ所ですと。いずれにしろ相手は不機嫌でした。今晩また来るといっていました」
「おう、そうか。止めて欲しかったな。言って欲しかったよ、木曜日は午後二時以降、誰にも会わないというのが絶対の決まりだ。どんな奴だった?」
「青白いやせこけた奴で、長髪で顔を覆い、黒眼鏡をかけていました。五〇歳がらみの無鉄砲な詩人ってとこですかね。ところで奴が騒ぎ立てたので皆思いましたよ、追いかけているのは別口の失楽園の原稿だろうて。もちろん言いましたよ、今日また来ても全く無駄だから、明朝来れば会えるでしょうと。その場の興奮に呑まれて、貴重な原稿の名前を聞くのを忘れましたが、名刺を置いていきました。編集長の机の上にあります」
幾分くたびれた厚紙、あたかもパン屑で拭いたような名刺が、書類ごみに混ざって机上にあった。名前はエドワード・セイモア・スカフ、住所は九九番地サースニット通りロンドン。テンプルがふんと脇に放り投げ、仕事に集中し始めた。
中断無く夜八時まで精を出し、外で夕食をかっ込み、遅く帰社して、一人で夜中まで頑張る予定だ。しかし下階の編集長室に引き留められて、夜十一時前になってやっと自分の仕事に戻った。
いまや全員退社して大型ビルの上階は墓場のように静かだ。階段を上がっていくと、誰かが部屋の中を動き回っているようで、自分専用室じゃないか。窓ガラスの黒文字を透かして見れば、明かりがついているようだ。
「妙だな。誓って電灯は消したはずなのに。もしかして社員が中で冗談を仕掛けているか」
ゆっくり慎重に進んだ。そっと扉を開けて中を覗いた。机のところで、全く知らない男が、書類をかき回し、あたかも何かを探しているようで、こそこそ、無言で、必死だ。テンプルがじっと待った。