四
いまは大災害が避けられたかのようだ。夜を徹して消防士や有志の一団が水不足地域へ貴重な水をせっせと運んでいる。だが個人井戸などを含めても、給水能力は日量三十五万トンにすぎず、これを五十キロ平方にいる六百万人に配らなければならない。
それに結局これは全くの予防策にしか過ぎない。ニューリバー社とケント社は表向き日量二十五万トンを供給したが、これは最大供給水量であり、平均を大きく上回る量だ。
かてて加えて、干ばつが長引き、予備の貯水池も容赦なく引水された。一日か二日で割当水量を半分にせざるを得ないだろう。
繰り返すが、病院や病人世帯では専用の水が不可欠だ。一方、主要鉄道の大部分は運休にされ、地方発の給水タンク列車に使われた。スプリングガーデン当局は超人的に働いた。
一晩中、人の流れは絶えず、トラファルガー広場や、他の無料給水場の間を往来した。やっと朝が来て、またもや蒸し暑い一日が確実だ。数人が何かやろうと国会議事堂へ向かった。二日前、下院は土曜日の閉会を楽しみにしており、もはや水のことなど眼中にない。
再び通りが忙しくなり始めた。粋に着こなした紳士があちこちいるが、あごや顔が垢汚れている。奇妙に見えるけど、上等な上着や、純白のリンネル服を着ているのに垢まみれだ。絶えず風が吹いてるので、一時も道路の埃には耐えられない。乾いた粉塵が舞い、肺や喉に刺さり、ひどい脱水状態になる。道路に散水できないから、災難に耐えるしかない。
みな一つの疑問があった。ペストが広がっているかどうかだ。当局の発表でとても嬉しかったのは、さらなる症例の報告が無いという。これを聞いてホッとした。
ロンドンは少し息を吹き返した。敏速に手を打ったため、疫病の流行を回避できた。やがて患者の名前も知れた。恐ろしい代償をロンドンはサンタアナ号難破で払う羽目になった。
しかしながら結局、爆薬へのほんの導火線に過ぎなかった。度を過ぎた無関心と、バカげた噂が大騒動の元となっていく。これから百年先もロンドンの水道は、多くの町村が下水をたれ流す河川から取水していたと、驚き哀れみをもって記録されることだろう。当面、淡々と事実を簡潔に記述する。
低俗新聞が最大限に利用した。レッドバナー紙が支配階級の堕落と無関心を書き立てた。同紙がまた問うたのは、傲慢な立法議員たちが自分たちだけ専用給水を受けているのじゃないか、平民が給水制限されているのに、立法議員たちがいつものようにコーヒーやお茶、ウイスキーや水をぐびぐび飲んでいるんじゃないか。
これはこの種の新聞にありがちで、いつもの下品な邪推であり、出まかせの攻撃であった。だが今度だけは本当だった。見れば下院は専用井戸から専用給水を受けている。
一般にレッドバナー紙はほとんど影響力がないけど、この件だけは人々の口に登り評判になった。ある人は何ら規制を受けることなく貯水塔に接触できる、これを下院議員と称し、すなわち民衆の困惑に全く無関心だ。
焼けるような、あえぐような日々が延々と続いた。人々はおぼろげながら水飢饉がどんなものか分かり始めた。誰もが垢まみれで疲労困憊だ。
イースト地区もウエスト地区も、薄汚れた顔が見られるようになった。夜になるとあちこちで小さな騒動が起きた。貴重な水を運んでいると、奪われる。ロンドン各所の雑貨店は、井戸があると知れると、店が襲われ、混乱に乗じた盗人に商品を持ち去られた。警察は厳しい実力行使によってのみ、なんとか優位を保つことができた。
翌日や二日後にロンドンはどうなるだろうか。夕方、不可欠になったのは、何百万トンという有毒水を放出して、下水管詰まりを解消することだ。これは危険だが、大局的に見てジフテリアを拡散しない。
でも人々の中には喉が渇いて、後先も考えずうっかりこの水を飲みかねない者がいる。無分別が習いのイーストエンドはその日の割当水量を早々と使い果たし、血走った男どもがもっとよこせと通りでわめき散らしていた。
時々、警察が急襲してこれら危険人物を蹴散らした。有名な扇動家が信奉者を引き連れてウエストミンスター橋にやってきて、パレスヤードで信奉者の一団に熱弁を激しくぶった。
警察は当座、不意を突かれた。大柄で赤ら顔の扇動家が膨れ上がった無言の群衆を見渡し、ビッグベンの明かりを指差した。口角泡を飛ばして訴え始めた。
「全てはもちろん行政の過失だ。ヨーロッパ大陸ではずっとうまくやっている。キミら男なら、やつらをあそこから引きずり出せ。連れてきて我々のように働かせろ。今日バナー新聞が何と言ったか。高慢な統治者どもは何ともない。何も困っていない。今この瞬間にもたっぷり水を持っている。キミらが水の為に、魂すら売りかねないというのに」
「お前が先頭に立てば付いて行くぜ」
とだみ声があった。
扇動家が辺りをひそかに見渡した。警官の帽子は一つとして見えない。まさに五百人から六百人の向う見ずな男どもがうずうずしている。
扇動家が叫んだ。
「ついてこい。今晩歴史をつくるぞ」
議事堂へ踏み込み、群衆が叫びながら続いた。中にいた数人の警察官はあちこちでもみくちゃ、洪水の枯葉のようだった。
ロビーの静粛な秩序は破れ、真っ青になった議員は議員部屋に逃げ込み、ロンドンが暴動だとか、ならず者の群衆が議会をめちゃくちゃにしたなどと騒いでいる。
議会はどうでもいいような質問を延々と議論していた。議長は職服やかつらの重みに耐えてフムフムとうなずいている。緑色の下院席は議員がちらほら、暑苦しい熱波にぐったりしている。真夜中ごろ長い休憩となるはずなので、喫煙室やバーやテラスは議員であふれていた。
議長がキッと見上げた。辛辣なお叱りが口をついて出かけた。議長がひとこと言う間もなく、あたかも手品のように緑色の下院席が群衆で埋まり、やじり始めた。大騒ぎの中、議長が言うことを聞かせようとしても無駄だった。
議長席に水が入ったガラスコップと瓶があった。乱入者のうち大胆な一人がコップをつかんでぐいと飲み干した。
この奇抜な行動にどっと拍手喝さい。まだ群衆にはユーモアを理解する余裕がかなりあったが、やがて雰囲気がどうなるか知る由もなかった。政府議員の一人がもう一人にささやいた。
「忌々しいバナー新聞め。やつら我々の専用給水を狙ってきた。誰か電話して警視庁を呼べないか」
一方、群衆はふざけたがる。議長席へ殺到して議長を後ろに押しやり、テーブルをひっくり返し、書類をまき散らした。仲間の外国人が仏国家ラ・マルセイエーズを調子っぱずれで歌い始めた。歌詞が武勇的な為、皆の血を焚きつけた。誰かが大声で叫んだ。
「ここで暇をつぶそうぜ。バーや食堂がある。入って来たときグラスの音がガチャガチャ聞こえたぜ。こっちだ」
群衆が一斉になびき、あたかも一人が全員を統制してるかのよう。まだ大騒ぎの中にも笑い声の余裕があり、全ては順調なように見えたが、意を決した小部隊の警察が現れた。群衆に激しく突入し、瞬く間に悲劇が起きた。
警察が来たぞと叫んだ直後、後ろにいた一人か二人が警棒で殴られて大けがをする一方、ビジター席の最前部にいた者もひどい目にあった。下院部屋はめちゃめちゃになり、外側のロビーには壊れた家具が散乱。
そのとき、人の流れがバーや食堂に押し寄せた。ビビった接客係や給仕係りが数人、持ち場に突っ立っている。水の入ったコップや瓶を見て群衆が狂った。蛇口を全部開けろと要求し、配管をネジ切ると、どっと歓声が上がり、たちまち床にあふれ出たこの水こそ、ロンドン中が求めて騒いでいるものだった。
部屋は割れたガラスや陶磁器が散乱し、床は汚水でじめじめ、びしょびしょ。あちこちで略奪したごちそうをむしゃむしゃ。こんな光景は以前の議会で決して見られなかった。数人の勇敢な議員が騒動を鎮めようと警官の居場所を探した。
さあ、警官が来る。やってきた警官の数二百人、ざっざっ、決然と隊を組んだ警官隊を前に、暴徒は追い立てをくらって、もみ殻のようにさーっと逃げた。五分ちょっとで議会から一掃された。しかし被害は甚大だ。
外では大勢の人々が暴動のニュースを聞いて集まっていた。とても法や秩序を守るような雰囲気じゃないし、騒動の首謀者が無事に逃げるのは無理というもの。
か細い高音で、ずっと離れた群衆の後ろから、誰かが何事か叫び、逮捕に気をつけろと言ってるようだ。パレスヤードにうめき声が上がった。群衆のヤジが手品のようにピタリ止まった。
「何と言ってるんだ?」
とアイルランド議員が訊いた。
「さっぱりわからんが、トラファルガー広場の水か何かだ。もしかして……」
と他の議員が答えた。
ほんのちょっとの間、またどよめきが上がった。このときは恐怖の感情があった。叫び声が飛び交った。次第に何とか理解できるようになった。
先のアイルランド議員が言った。
「まったく恐れた通りだ。トラファルガー広場の泉が枯れた。大衆の災難だ。見ろ、みんな去った。今晩の行列はない」
大群衆が急速に散会していった。各々が新事態を自分で確かめたかった。トラファルガー広場へ流れる群衆はあたかも生死をさまよっているかのようだ。幸運の女神がトラファルガー広場にあったら、激しい闘争はしなかったろうに。暑さと闘争のさなか、多数が途中で行き倒れ、放置された。
冷たい泉はもうない。貴重な水を求めて容器を携え、はるばる来た人々は身を地面に激しく投げ出し、大声で呪った。衝撃が余りにも大きかったので、群衆の暴動がしばらく収まった。
この時とばかり、警察が群衆をあちこちに追っ払い、ついに静寂を取り戻した。
ロンデール医師は帰宅途中で立ち止まり、事態をよく考えた。
「ブルチャー先生を今晩尋ねるか、ダービシャイア教授は朝にするか。いやすぐダービシャイア教授の助言をもらうことにしよう。チャリングクロス病院を訪ねて容態を見舞おう」
このころストランドは比較的静かだった。四、五人の屈強な警官が病院の階段に立ち、警護していた。なぜなら、病院には水がたっぷりあるからだ。かかりつけ医があわてて出てきた。
「ロンデール先生、よくいらっしゃいました。あなたをお迎えに行くところでした。教授のダービ……」
「まさか、悪化したと言うんじゃないだろうね」
「それどころか、ずっと良くなってます。実際、完全に意識があります。あなたに会うまで眠らないと」