一
デイリーチャット紙の編集部長がいぶかった。いったい自分は何で会社に居残ったのか。
手元の温度計は摂氏零下一〇度まで下がり、夜明け前に摂氏零下一八度に下がりそうだし、朝刊は、気象記事だけでは埋められない。
さらに、北トレント以北の情報は一切なく、電信と電話が不通とのこと。外は猛吹雪と大雪、すさまじい寒気と静寂に襲われている。
あした一月二十五日の新聞は記事不足になる。ただしアメリカが使命感に燃え、当座の新ネタを何か送ってくれば別だ。島端電報がよくそんな方法で喜ばせてくれた。
たとえば牛肉パン商社という記事の続編。はたしてサイラス・ブレットは世界の食料を買い占めることができるのか。ブレットは一年前、質屋の店員で、何ら重要人物じゃなかった。いつ文無し相場師を脱したのかはどうでもいい。新聞社の観点では三段の値打ちがある。
編集次長が駆け込んできて、両手をフーフー。骨の髄まで凍えているようだが、同情に及ばない。
「あした葬儀新聞になるぞ」
と部長がブスッと言った。
でもゴーフ次長は上機嫌だ。
「そうですね。いまテムズ川が通行不能になった衝撃的な細密画が仕上がりましたよ。北極気候が回復するのは一週間後でしょう。数日間、肉類や小麦粉は一切入荷しないでしょう。現状ではパンと肉が不足するのは否めません。それに例によって、あのサイラス・ブレットが仕掛けています。だから食糧不足になります」
編集部長は帰宅するつもりだった。まだぐずぐずしているのは、何か事件を期待していたからだ。
深夜ちょっと過ぎ、なにやら騒ぎを聞きつけたとき、今にも編集次長室が煮えたぎろうとしていた。ガタガタという足音。たちどころに蜂の巣をつついたように騒ぎ始めた。
「ゴーフ次長、何をつかんだ」
と部長が叫んだ。
次長が転がり込み、手には一束の原稿記事が。
「ブレットが破滅です。神の思召しです、フィッシャー部長。ここに三段記事を書きました。ブレット自滅」
フィッシャー部長が上着を脱いだ。何事も待ち人に来たる。部長は原稿に肥えた眼を通し、念を入れて推敲した。
部長がやっと口を開いた。
「買い占め危機は去った。だが現実はまだ供給不足だ。海上に食糧船はほとんどないし、たとえ接近しても一面氷じゃ入港できない。ロンドンが飢饉寸前だなんて言っちゃいかんが、予測はできる」
ゴーフ次長は軽く会釈して退出した。一時間後、印刷機が回り、本格的にバタバタと音を出し始めた。刺激的な活字が躍っていた。
そして退社したフィッシャー部長が降りしきる雪の中、ベッドフォード広場の方へ眠そうに歩きながら持った感想は、結局世の中どうってことない。
刺すように冷たい風が東から吹き、ここ数日の透けるような青空はどこかへ行ってしまった。
フィッシャー部長が腰を曲げた原因は風、魂まで抜かれるようだった。帰宅後、身震いして玄関の暖炉に覆いかぶさった。
気圧計を見ながらつぶやいた。
「まいったな。昼飯から一センチ下がっている。凹みに寝っ転べそうだぜ。ロンドンの猛吹雪は思い出せないなあ。だが今そうだ」
独り言中、強烈な風が家を揺さぶるさまは理不尽な暴力だ。