三
「しからば先導仕ろう」と大野順平は、逞しい体躯を揺ぶって立ちあがった。
オヤフロの野にはいっての数時間は、ヤチダモ、アカダモの密林つづき、次第にカシワ、ナラなどの節くれ立った木が目につき、白い肌の樹が点在する粗林となった。やがてギシギシ、ヨモギなどの野を越えて、ススキ、ヨシの湿地にはいった。まだか、まだか――と、そうせき立てられた案内人が見つけたのは、風に吹き折れて枯れたヤチダモの立木であった。荷を投げだして攀じのぼり、彼は木の股に足をかけてしばらく東の方を睨んでいた。
「見えるか――」と下から催促した。
「見える」と、ようやく彼は答えた。
「どの方角?」
「この――」と彼は腕をのばした。
指さす方角に添って阿賀妻は磁石をのぞきこんだ。戸田老人は地図をひろげるのである。玉目三郎は、青く書きこまれた川を辿ってその方向をのぞいていた。
「この山――トウベツ山のふもと」
「ふん、どれ、念のため――」と大野順平もヤチダモの樹にのぼって行った。
あぶなかしく足をささえて、彼は樹上の人夫に重なって、そのものの指さす方を眼をしかめて見入った。
なだらかに波うっている一帯の山つづきであった。湧きだした雨雲の下に、あお黒く静かに拝み合っているひとつの峰がそれであった。
「あれに間違いはないか」と彼は片手を脇差にかけて見せた。
「山の恰好がそう変っちゃたまらない」
「しかし、貴様の見たのは冬だというではないか」
「夏だってあなた――遠くからみれば同じことです、第一、あそこには、あれより高いのは無えんだから」
「では許してつかわす」
「冗談でしょう――」と彼らはおりて来た。
高いところで見渡すと、それは指呼の間にあった。けれども、野の中に身を没してしまうと、はてしもなく遠方に離れているのだ。見えるものは、草また草のひと色である。
風が吹き荒れて来た。野に低く雲がおりて目路を蔽った。青い草の海は逆巻くのだ。行く手にふさがる樹林や丘陵は測りがたい悪路を示していた。
「日も傾きはじめた」と云うのは戸田老人であった。真実行く手の困難を案じた年長者が、それとなくあたえる注意であった。
「人夫どもに聞けば、用意の糧食も残り少ないとか」
「それというのも、貴様がよい加減なことを申し、安うけあいをしたためだ」
玉目三郎はそう云った。すると案内人も、ここまで来ればなかなか負けてはいなかった。
「ま、誰にでも、間違いということはありまさア――山は見えたじゃござんせんか」
「そう――山は見えたり、だ」と大野順平は笑った。
阿賀妻は磁石と照して野のはてを見入っていた。
「あの木――あの盛りあがった樹木のなかに一本黒く見える松の木、お判りか?」
その方向に一先ず目標を置いて、この野を横切れと命じていた。
浮き沈みして、草の海を泳ぎ抜こうとする一行であった。
見ず知らずの山野を踏みわけて、夢にも描かぬ土地を探している彼ら自身は、ふっとその姿を、どこか遠いところから見おろしていた。行けども行けども湿っぽい土であった。この地つづきに、云うが如く、考えたような肥沃なところへめぐりあえるであろうというはかないのぞみも、つきつめて行けば、消えてとびそうな願いでしかない。これは落人の姿であった。しかもたたかわない落人であった。危ぶむ思いがきざしたとき、失った死に場所に対する深い悔恨がよみがえる。雲井竜雄が呼びかけた『討薩の檄』はその一例でしかない。まだ起てた。何度でも起つべきであった。そして斬り死にすべきものであった。機会は次々と齎らされていたのに――会津救援には何を措いても駈けつけるべきであったのに――拱手傍観を強いられた彼らは、むざむざと数百の生命を屠らしたではないか。意地はつぶれてしまったのだ。土民のように追い立てられた。首鼠両端を持した藩の重役どもが、今荒野の中に連れ込んでのたれ死に導いている!
えり首がひやりとした。雨の滴くがおちかかったのだ。はっと我にかえった玉目三郎は、思わず大声に呼びかけた。
「阿賀妻どの」
「何でござる」と、彼はふりむきもしないで答えた。
目的に向って余念もないふうであった。すると玉目は、云いたいことも云いそびれた。
「予想のとおり、降ってまいりましたぞ」と戸田老人が云った。
「大したこともなかろうと思うが」
「なかなか」と老人はあたりを見まわした。
ひろい空はすきまもなく、鼠色にかわっていた。厚い雲がのびたと見るまに雨は野面をたたきつけて来た。
「夕立ちでござろう」と事も無げに云う阿賀妻であった。
「溶けて流れる気遣いはあるまい」
体力に自信のある大野順平はそう云って、もう五六歩先に進んでいた。笠にしぶく雨が野を暗くした。草原は一時にざわめいてうねり廻り、まきあがった風が横なぐりにふきつけた。
雲は走った。名も知らぬ小鳥がとび立った。
はじめ驟雨のように断続して降りだした空は、おもい雲を重ね、野面をうす暗くおさえつけていた。雨にうたれた草葉々々はしずくを散らして人々の着物を濡れびしょにしてしまった。水に洗われ、風に吹きはらわれた原野の気温は、ぞくぞくするほど下っていた。簑を出して手早く着たけれども、鳥肌だつ冷気は一層強まるばかりであった。間もなく四辺は、篠つくような雨に煙っていた。
大野順平も立ちどまった。直ぐうしろに続いていた阿賀妻は、彼の太い首根に自分の笠をぶっつけ、驚いて、しかし咎めるように云った。
「どうなされた?」
「目標が見えませぬ」
「ばかなこと――まっ直ぐ行けばよろしい」
果して前向きのそのまま進むことがまっ直ぐであるかどうかを躊躇していたのだ。一切はしぶきの中に沈んでいた。雨を受けてはげしくざわめく草葉の音に耳も遠くなっていた。夕ぐれがかって、模糊とした灰色の幕に包まれはじめた。
「拙者が替ろう――」
そう云った阿賀妻はながく立ちどまることを拒むのであった。
「それには及びませぬ」
踏み抜いた草鞋を蹴とばして、大野順平は前屈みになって急ぎだした。なるほど、ひとつの定めた目標は好ましいが、今はそれだけに執着しなくても宜いのだ。前方一帯に見えた丘陵にたどり着けば、そこから先の山つづきに、道はおのずから開けるに違いない。磁石と地図とを持って、あとは勘の強さにたよるほかない。そういう風にして何度となく山野を跋渉した阿賀妻であった。それを援け、つき従っていた大野順平であった。
数時間のあいだ、上からは殴るように降りつけられ、下は湿地と水溜りをこいで歩くのであった。全身あますところなく濡れていた。樹液のにおう木立ちのなかにはいったときには、血の気をうしなった唇の奥で歯ぐきが打ち合っていた。
とりあえずもう煖を取らなければならない。
木立の下はもう夜であった。
次第によってはここにまた一夜を明かさなければならない。
別に相談するともなく、最も暗い木かげを探して進んで行った。雨風のあたりを少しでも避けたいためであった。里程にすれば何程でもないに拘らず、予測と実際のちがいは彼らの気持を重くしていた。わけても疲労の甚だしい戸田老人は日ごろの諧謔も出ずげっそりしていた。彼の穏かだった半生にくらべて、この二三年はあまりに激しい変りようであった。彼もまた空しく老いた身をぶつぶつとかこつのである。
しげり合った樹木の下まで来て、太い点滴の音をたしかめて立ちどまった。ここは一体どこのどの辺にあたるか。だが、ここからどんなに歩いたとしても、在るものは、山と谷と密林であろう。人家を求めることは出来ないのだ。自分らが人家を置こうとしては入って来た最初のものなのだ。
「火を焚け」と阿賀妻は命じた。
黙々として従いて来た人夫は、立木の根もとにばさりと背の荷をおろした。
「水を見付けて来よう、玉目どの」と彼はふいに誘った、「立っているのはよくない、貴殿らも薪など探して置いて下され、火が燃えだせば明るみが見えるであろう、それを目当てに立ちもどればよい」
先に立って木立ちを縫い、低みへ低みへといそぐ阿賀妻であった。玉目三郎もおくれてはいなかった。ここまで来ては後にかえすも前に進むも、自分ひとりの考えでは仕末が出来なかった。そう思った刹那彼の心は阿賀妻の意志の下に繋がれていた。
「流れる水がある筈だ、玉目どの――」と、阿賀妻はときどき立ちどまった。耳を澄して聞きわけようとした。雨の音だけであった。樹林はそうそうとざわめいて、遠い潮騒を聞くようであった。
また立ちどまって阿賀妻は云った。
「聞えて来ましたな?」
玉目三郎は耳をそばだてて暗やみを眺めた。
「まさにこの下に当る!」
重ねてそう云った阿賀妻は熊笹のしげみにさっと身を躍らした。あッと云うまもなかった。がさッと鳴った葉ずれの底に彼の身体は消えていた。
笹は弾力のある茎をはねあげ、ひろい葉の表に雨はばさばさと砕けていた。しぶきをあげる水滴が夜目にも白かった。
「在った、あった!」
やがて底の方でそう叫ぶうれしげな声が聞えた。太い余韻がひろがって行った。
谷におりたならば水があるのは当然であろう――玉目三郎には、それほど歓喜する阿賀妻の気持が測りかねた。自分も行くべきであるか否か、まだ思いまよっているとき、折りかえすように阿賀妻の声が遠くから命じていた。
「行って呼んで来て下され、あの、そら、案内の男を――おお、ついでに鍋なぞ、米なぞを持たせて――」
うしろの木立ちにぼーっと明らんだところが見えて、火も燃えて来た。ぬるぬるとすべる足もとを踏みしめて彼は焚火のそばに戻って行った。一度燃えついた火焔のいきおいは、積みあげた木の間に這いまわっていた。湿りけをぱちぱちとはじきだすのだ。焙りだされてまっ赤になった戸田老人は、あきらかに生気を取り戻した。ま向うから、わめくように話しかけた。
「阿賀妻どのはどうなされた?」
「おい」
玉目三郎は幾らか不機嫌に、背を向けている人夫を呼んだ。
案内人は首をすくめて、ゆっくりとうしろをふり仰いだ。
「呼んでおられる、水があると」
「えッ?」と云った。彼はつっ立って叫んだ。
「やっぱりそうだ、トウベツ川の枝沢にかかっとる、どちらですね?」
玉目三郎はとび立つように元気になったその男をじろじろと睨んでいた。
「こちらですか」
「うん」
そのまま駈けだそうとする男を、彼は「おい――」と呼びとめた。
「なんですか?」
「飯を煮る用意をして行け」
ほかの人夫も立ちあがった。
「ついて行け」と、玉目三郎はそのものたちにどなった。
谷間に向って「おおい」と呼びかける案内人の声が木立ちの低みにひびいて来た。
「玉目さん、着物を乾したがよろしかろう――」と、薪を投げ込みながら戸田老人が云った。照り出された頭上の青い木の葉が、吹き上げる焔にちらついていた。そこから大粒の雨滴がばざッばざッとおちていた。
いつの頃か吹き倒れたであろう枯れたトド松を、大野順平はひきずって来た。むらがっている枝葉をぽきりぽきりと折って火にくべた。簑の先から滴がきらきらとび散った。
「空腹はいかがでござるか?」
「されば――」と大野は、話しかけた老人の方を見ないで言った、「追々と目的地も近づきましたな、踏み分け路のようなものがこの裏にありましたよ、阿賀妻どのは?」
眼をあげて玉目三郎を見た。
「間もなく見えられましょう」
短かくそう答えて、彼は焔に背を向けた。濡れた背中を温めだしたのである。
しばらく彼らはお互いの思いにおちていた。
「殿も気遣われておられるだろう、今頃は――」
ぽつりと戸田老人が云った。それは疲労を感じたこの場合の彼らに、思いを同じ流れにまとめたのである。海鳴りの聞える草葺き小屋のなかで、身を寄せあうようにした彼らの家族たちは、ひたすらにのぞみをかけて待っている――その姿もありありと見えるようであった。
「玉目どの、そなたのご婚礼は、一昨々年でござったかのう――左様、あのとき、白河口のたたかいに、そなたの父御は斬り死なされ、生き残ったそれがしは、――」
「ご老人――」と大野順平がさえぎった、「それはもう昔のこと、云わぬが花でござろうよ」
「生き恥じをさらしおります」と、戸田老人は鼻をおさえた。