Chapter 1 of 2

或日彼は、過去の作品を一まとめにして、書物にすることで、読みはじめると、大変に情けなくなつて、恥で、火になつた。――身も世もなき思ひであつた。

就中、純吉といふ主人公が出て来る幾つかの作品では、堕落を感じて、居たゝまれなかつた。「純吉」が、他人をモデルにしたものでもなく、架空の人物でもなく、読む者に作者自身であるかのやうな概念を与へるのみか、作家自身の態度が充分そのやうな心組の許に、悪る騒がしいタツチで筆をふるつてゐるのが彼は、堪らなかつた。――彼にとつては、その作者である己れが、読者である己れに対してあまりな冒涜家であつた。

「純吉の小説」には屡々Y子といふ娘が現れた。純吉はY子に秘かな恋を感じてゐた。事毎にそれが裏切られてゐた。性格に強さを持たない純吉は、口の利き振りまでが常の純吉ではなしに、悉くY子の悪趣味におもねつてゐた。

事実では決してそんな筈はなかつたのであるが、その頃の心の象を創作にして見たならば、そんな風にY子が自分の心に喰ひ入つてゐたのかしら? ――彼は斯うも思つて見たが、それもあまりに空々しかつた。そんなことを創作の上で想像した当時の自分さへ、彼は解らなかつた。

……何よりも彼に、破廉恥を感ぜさせるのは、小説上の事件ではなしに、事実ではあのやうに淡白であつたにも関はらず、Y子に対する純吉の態度がフールのやうな挙動であることだつた。ヘラヘラと冗談口を叩き、皮肉を衒ひ、狡さを戦はせ、そして得体の知れぬ悦に入つてゐるかのやうである。

彼にも、恋の思ひ出はある。いつ思ひ出しても澄んだ涙を誘はれるかのやうな、切なく甘い思ひ出がある。恋ではなくても、人の純情は、そのまゝ何時までも消さずに残してゐられる自信を彼は持つてゐる。――だが、Y子の純吉(斯う云つていゝ)に依つて架空された彼は、

「Y子の悪影響だつたのかしら?」斯うも考へたが彼は、それほど呪はれた弱さがあるとは思へなかつた。――だが、あんな風なことを書いたといふことは事実である、Y子に恋してゐるかのやうな………。

「嘘だ! 嘘だ!」

「では、退屈のあまり法螺を書いたのか?」

それは、また、何んな場合にも彼には信じられないことである。彼は、何んな場合にも「道楽」は出来得ない人間であつた。彼は、一時は「戯れ」と思つたことも、反省して見ると悉く一途な情熱の変形であつたことに気づいて、常に息窒つた。――彼は、恋愛を(人生至上のものと思つたことはないが――)偶像視してゐる者であつた。恋愛の為の痴愚と云はるべきものを聖なるものと信じてゐた。彼には、結婚を忘れた恋のある筈がなかつた。同時に、妻帯者の「恋」は悉く汚れで、唾棄すべき戯れで女性に対する怖ろしい悪徳で、単なる、軽蔑すべき道楽に過ぎなかつた。彼等は、莫大な物資を携えての上で、遊里へ赴くの他、婦女に対して戯れの心を持つことは許されなかつた。

彼の妻は稍ともすれば云つた。「さういふ種類の人が、道楽を始めると大変なんだ、何とかの一心といふもので――」

「さういふ心配は無いよ。僕とあゝいふ雰囲気は怖らく反対だし大嫌ひだし……」

「そこは安心だけれど――」

「それをもう一歩すゝめて云ふと僕は、あたりの日本的な風俗・習慣・人情に悉くいれられないと思つてゐる。」

「小さい範囲で云つてゐたつて、仕方がありませんわ、あなたのやうな――」

Y子のやうな人物は、凡そ彼の趣味・風俗に合はぬ者だつた。

だから、その頃だつて彼がY子に恋らしいものを感じた筈はないのである。第一彼は、Y子を信じてゐなかつた。関心は、その当座だけは軽く持つた、それは軽蔑である。それなのに彼の「純吉の小説」に依ると、純吉は全くY子の純吉である――といふのは、自分の主張が皆無で、純吉の心は全くY子の反映で、彼女の操り人形なのである。――軽蔑を感じてゐる相手が、そのまゝ軽蔑に価する己れに映じてゐるのだ。

更に云ふ、痴愚を云々するのではない――彼は、それらの虚偽らしきものを恥ぢるのであつた。

「然し、そんな嘘がつける筈のものではない、少しでもY子に対して結婚を予想する心があつたのかも知れない、――少くとも彼女の姿を目のあたりに眺めてゐた間は……」

彼は、斯うも思つたが、如何にも空々しくて何の思ひあたるところもなかつた。

それどころか、彼女が彼に対する約(戯れだと彼は思つてゐたし――)を自ら破つて、嫁いで行つた時などは寧ろ爽々しさを覚えたことを思ひ出すことが出来た。彼女の母親が酷く勿体振つた態度で、婦女画報に載つてゐる結婚写真を彼に示して、何か得意気なことを云つたことを彼は覚えてゐるが、自分は何んな心地がしたかも、彼は、今はもう知らないのである。たしか、この人は――と彼女の母親は、たしかに立派やかな、顔の細長い、髪の毛を真ン中からぴつたりと分けた、白手袋を握つて花嫁姿のY子の傍に直立してる燕尾服を指差して、何とか会社の重役の倅で、今年からは何処何処の支店詰となつて、長となり、間もなく夫妻共々打ちそろつて欧米視察に出かけるのだ、その時にはあんたは勿論行くだらうが、お父さんやお母さん、なるべくならば叔父さん叔母さんも、出来るだけ大勢みんなそろつて見送りに来て貰ひたいものだ。先方の見送り人には到底敵ひつこはないが、これは内密だが此方では夫々手配りをして他人まで頼んであるのだ、そして、あんたのお父さんの音頭で景気の好い万歳を唱へて貰ひたいのだ……といふやうなことを云つた。

感心しないと彼女の母親が不機嫌になりさうだつたので、彼は傍から覗き込んだのであるが、容易に彼女はその頁を翻さないのである。

「どうよ、純ちやん?」

「綺麗ぢやありませんか――」

「あんたも、今に斯んな風にして写すでせう。」

彼は、何故か、結婚の写真を写しそこなつた、父親が丈夫の時分で、大神宮の御前に、ひれ伏して、ちやんと当り前な結婚式を挙げた筈であつたが――。

「あんた、まあ、この着物の柄や何かも好く見て頂戴よ、張り合ひのない人だねえ。」

「見てゐるぢやありませんか、この通り――」彼は、何の秘かな悲しみもなかつたから云はるゝまゝに達磨の眼をして眺めてゐたのである。

「ぢや、何とか、おつしやいなね、一言位は――」

「だから、綺麗ぢやありませんか。」

全く彼にはそれより他に感想はなかつた。綺麗過ぎて、Y子の顔なんて恰で似てはゐない――と彼は思つた。彼には、どうもY子の済してゐる姿などは見たこともないやうに思はれた。Y子の顔は、ものでも食つてゐるところか(彼女は夥しい乱食家であつた。)、愚かなことを云つて(彼女は蓮葉な芸妓の云ふやうなことを好んで口にし、また、一切花柳界的な人情・習慣に憧れてゐた。)笑つてゞもゐる顔より他に印象がなかつた。芸界の芸には憧れずに、たゞ、無駄を誇りとするかのやうな野卑なる、花美にのみ溺れてゐた。――彼は、彼女の写真姿と実生活とを連想することが出来なかつた。彼は、テレて、傍らの字を読んだ。

すると、何うだ! 余り馬鹿々々しいので彼は、今でもはつきりと思ひ出せるのであるが、Y子嬢は、△△女学校を優等の成績で卒業後、××英語塾にて語学を専攻し――とか、三絃を何某氏に踊りを何流に、茶の湯、生花――とか、さもさも、さうした嗜みに深いといふ風なことが、写真の傍らに証明されてゐるのだ。彼は、思はずY子の顔と見くらべた。が。花嫁姿の傍では、そんな途方もない空文も別段嘘らしくもうつらなかつた。

遠縁にあたつてゐるとかで(父がそんなことを云つたので彼が母に訊ねたら、母は知らないと云つた。そして、さういふ家に倅を寄食させる父の考へが解らぬ! と云つた。)その頃彼はY子の家に寄食して、二階で、Y子と机を並べてゐた。凡そ、十年も前のことである。――Y子は、△△女学校を、賄賂を贈つて辛うじて卒業し(彼女はそれまでに二度も学校を転じた。)そして級友達よりは二つも年上で、彼と同年であつた。××英語塾へ通ひ、彼は、彼女や彼女の母親達が、何故か、嫌つてゐる文科の早稲田へ行つてゐた。

店が別なので彼は詳しいことは知らなかつたがY子の父は毛織物の輸入商を営んでゐる傍ら、株券の売買に従事してゐるらしかつた。珍らしい好景気の頃で、Y子の家庭の空気は、彼にとつては、常に祭礼の如く賑々しく、花やかな別荘にでも招かれて客となつてゐるかの如く面白く、稍ともすれば、云ひ知れない不安を感ずることが多かつた。彼は、面白気には見ゆるけれど、彼等と共々に烏頂天になり切れずに、そのくせ、薄ら甘い誘惑を覚えながら、何故か独りの邑想を忘れ得ない自分を、心憎く思つたが、恰度それは、軽い眠さを、辛えてうとうととしてゐる時の、何んなものゝ象も輪郭が滲んで、たゞ、ひとりでに艶めかしい幻想に誘はれて行くかのやうな快いまどろみに似たものでもあつた。まどろんでゐれば何も彼も艶めかしかつたが、はつきりと眼を開き言葉を耳にすると、小さな不自然の色彩りが、惨めに殺風景で、自慢をもつてすゝめられる何堂の菓子も、何亭の料理も、滑稽なばかりで、有りがたくなかつた。

「話せないわね、純ちやんは! 此処の家の洋食の味が解らないなんて――」

「Yさんが、つくつたら、屹度僕は、もつと/\おいしく食べられると思ふがな。」彼は、お世辞でなく云ふのであつた。

「チエツ、そんな厭なことを云つたつて、悦ぶやうな閑人はゐないわよ――」

彼女は自分で料理などつくる興味は一切無いのである。無いといふよりも、嫌ひで、出来なかつた。稀に、それでも母親が料理や裁縫についての彼女の身だしなみの無さすぎることを喞つたりすると、不承無承に針を持ちかけたりするが、直ぐに指先きを怪我をしたり、頭痛がしたりしてしまふのであつた。

「芸事に励んでゐる人とか、学問で身を立てやうとしてゐる人なんかなら、女だつて、男のやうな人もあるけれど、お前のは、何一つ他に、これと云つて……」

「煩いわよ、母さん。――女は、おつくりさへ上手ならそれで好いんだわよ。」そんな調子で、彼女は遠くから鏡をのぞいてゐるのであつた。彼女は、座敷に座つてゐる時でも遠くの鏡台に顔が映るやうに、鐘の面を斜めにして置くのが常だつた。

「あゝ、さう/\。」と直ぐに母親は賛同して娘の横顔を凝つと見入つた。「でも、顔ばつかり見てゐないで、その座り方の下手な処も映して見たら何うよ。」

そして彼女は主に母親を相手にして、芝居の噂、百貨店の品定め、父親が吾家の者に対して吝嗇で悲しいといふこと(彼女等は Golden touch の夢を信じてゐたらしい。)――などを、何時彼が階下へ降りて行つた時でも、脚を投げ出したり、何うかすると肘枕で寝転んで、屹度何かを喰ひながら喋舌つてゐた。彼女は、学生らしいこと、陽の下で汗を誘ふあらゆる類ひのことは一切嫌ひで、彼が好きな山遊びや、運動や、遠足などと云つたら、聞いたゞけでも身震ひするのであつた。殆ど友達などとも手紙のやりとりなどはしないらしく(夥しい悪筆である為か)彼は若い娘といふと凝つた封筒や紙箋を想ふのであつたが、来ることも、出すこともなかつた。彼は、彼女の友達が遊びに来そうなものだと思ふこともあつたが、全く友達との交際はないらしかつた。彼女は、様々な祝儀袋などを集めてゐた。

夜になると店の者や、株式店の社員のやうな若者などが集つて芸妓などを引きつれて帰つて来る主人と、車座になつて弄花の戯に耽つた。にわかに栄えたつた店だといふ話だつたが、さう云はれて見れば、主人と雇人との隔りなども無茶苦茶で(彼は、何故かそのことだけには好意を持つた。)だらしのない若者の酔つ払ひが野放図な歌をうたつたり、主人の家庭であることも打ち忘れて女にからかつたりするやうな騒ぎも珍らしくなかつた。彼は、酒は勿論、花合せの遊びも知らないので大概二階に逃げ込んで、何となく偉さうな顔をしてゐるのが常だつたが、寄り合ひがはじまるとY子は決して机の前に現れなかつた。騒ぎは手に取るやうに聞えるし、とても本などは読めないし、話相手もないので、つい彼も、うかうかと見物に出かけてしまふのであつた。

Y子が、仕事に熱中してゐる態は、彼は、花合せの時より他に見たことがなかつた。そして、これだけは、相当巧みであるらしかつた。夜中の二時、三時も厭はなかつた。

「五カンぢやおりられねえ!」

彼女は、斯んなことを云ひながら神妙に首を傾げたりするのであつた。

「さあ、来い!」などゝ云つて、腕まくりをしたり、吾を忘れて膝をたてたりするのであつた。さうかと思ふと、接戦の中ばで、不意と、真ン中に積みあげてある札を素早く取りあげて、

「チヨツ、なめてやがら!」などゝ叫んで、失望のあまり、思はずピシヤリと自分の頬を叩いて、

「助平しちやつたなあ!」

生真面目にそんなことを呟いで、眉一つ動かさないのである。言葉など誰も、一切気に留めぬ風であつたが、彼は、驚きのあまり、胸が震え出すのであつた。

「昨べは、斯んなに勝つちやつた。おごつてやらうか。」

彼女は、彼の目の前で財布を振つて見せたりした。

「何さ、その目つきは! 汚らはしいとでも思ふの?」

「金なんて、かけてやるの!」

「当り前ぢやないのよ。子供ぢやあるまいしカラ花なんて誰が引くものですか!」

酒宴などが始まつてゐると彼女は常一倍マセた口を利いて若者達にからかつたり、屡々、妙齢の娘の言葉として、到底彼には想像もし得ない卑猥な冗談を事もなげに放言したりするのであつた。

「ターさん!」彼女は、ふざけてそんな風に彼を呼んだりした。

「あんたも、二三杯でも飲んで御覧な。」

「何アンだ。あたしぢやなかつたのか。」田代といふ若者が笑つた。

「うちの樽野さんたらね、いくら飲んでもちつとも酔はないんですつてさ。」

「酔ふもんか。」と彼は、苦々し気に云つた。(あの「純吉の小説」に依ると、彼は、何かY子に感ずる嫉妬のやうなものが動いて、苦々し気にうなつた、といふのであつたが、事実は、単に、汚らはし気に――であつた。)

「喜三さん、あんたは此間の晩、うちの帰りに真直ぐ帰らなかつたでせう?」

「やゝゝゝゝ! どうぞ御内聞に――」

「馬鹿ね、あんたわ、あたしが斯んなことを云ふと本気にしてゐるわ、御内聞にだつて! 嘘つき! あの晩妾が一寸店に寄つたら、あんたはちやんと独りで寝てゐたぢやないのよ。」斯んなことを云つて彼女は、相手に恥を掻かせて、腹を抱えるのであつた。

「あんたの寝像つたら、妾は、吃驚りしちやつてよ、あんな寝像の悪い人つてえのが世の中にあるかしら! ……アツハツハツ……」

「ほんたうですか?」

「妾、それからといふもの、あんたが凝つたなりなんかして歩いてゐるところを見ると可笑しくつて/\堪らないわ。」

田代でも、喜三と云はれる若者でも、彼女にそんな風にからかはれても、不愉快がる気色もなく、努めて娘の気嫌と合せるかのやうに、事更に生真面目さうに、参つたり、眼玉を白黒させたりするのであつた。――彼女に云はせると田代と喜三は競つて、彼女を「張つて」ゐるのださうである。それに彼女は、蔭では彼等を悪態に冷笑してゐたが、会ふと、いろ/\な意地悪るをしながらも、機を見ては如何にも意味あり気な親切を示すのであるから決して彼女が云ふやうに男ばかりが「おしが強い」のではなかつた。

「ね、母さん、今度喜三公の奴が来たら、それとなく気をつけてゐて御覧、滑稽つたらないわよ、隙を見ちや、それあ、もう、何とも云へない、妙な眼つきをして妾の方を見るわよ。」

「へえ! さう云へばあの人は、来ると長つちりだね。現金でさ。お前のゐない時には、用達だけ済すとさつ/\と帰つてしまふ。」

「一寸見ると、おとなしさうでせう。あれでゐて、仲々隅にはおけないのよ。つい此間まで茅場町の牛屋の女中と好い仲だつたんだつてさ、ところがさ、彼奴、あれでゐて、とてもきりよう自慢なんだつて!」

「でも一寸、男前ぢやあないか。」

「あらア! 母さん――」と彼女は真顔になつて打ち消すのである。母親の云ふ通り喜三は、苦味走つた、いつも髭の剃痕が青々としてゐる長身の美男子なのである。「あんなのを好いと思ふ? 冗談でせう――銀ながしぢやないのよ。」

「Yさんにあつちや敵はないわね。」母親は、あんな美男子でも、ものとも思はない娘のたくましい自尊心を悦んだ。

「あれでね、あの人は、おツそろしいやきもちやきなんですつてさ――それがもとで女の方で愛想を尽かしてしまつたんだつて――」

「ほう! あんたはまた誰に聞いたのさ、そんなことを?」

「田代クンが皆な妾に云ひつけたものさ、彼奴ツたら、田代クンに向つて、Y子の奴は、俺に女のあることも知らないで岡惚れをしてゐやあがる――ツて云つてゐるんだつて。しよつてやがらあ。」

「何だつて、そんな太いことを抜かしたの、彼奴が。さあ、あたしは承知出来ない――父さんに云ひつけてやらうか知ら!」

「憤らなくつたつて好いわよ、母さん、田代クンの云ふことだつて、まるツきり当になんてなりはしないわよ、母さん、彼奴こそいけ図々しいのよ。」彼女は、親でも、斯んなことを云つて顔色を変へさせて見るのが道楽であるかのやうだつた。「此間、学校の帰りに乗換場で遇つたらばね、Y子さん、これから一寸新富の立見に行きませんか、だつて――妾、あんな奴に、あんな処で話かけられて、すつかり赤くなつちやつたわよ、癪に触つたから、お角が違ふでせうツて云つたらばね、急に厭味つたらしい笑ひを浮べて、僕の――だつてさ……」

「あの人の僕――は、ほんとに気になるわね、あの人、おつに、大学出てえことを鼻にかけてゐる見たい――」

「僕のラヴアが今日は彼処に行つてゐる筈だから、一目で好いから遠くから見て下さい、あんたはいつも僕の云ふことをほんとうにしないから、今日といふ今日は見せてあげたい――だつてさ、ああ云へば斯う云ふといふ彼奴は法螺吹きなのよ。――女の苦労をした人でなければお話にならないと、いふやうなことを妾が不断あまり吹き込み過ぎたもので、てんでんに好い加減な空ごとをつくつて、妾の顔色を読まうとするんで、妾、可笑しくつて堪らないわ――それに、あの人、ひたかくしにしてゐるけれど、田舎ツぺえでせう、だから妙にネツいわよ、云ひ出すと。」

「立見へなんて一処に入つたら、それこそ大変ですよ。」

「お気の毒様――母さんたら随分失礼しちやふわね。……あゝ、妾、沁々悲観したわ、父さんがあんな商売をしてゐるもので、低級な人達ばかりが出入りするんですもの。」

「学問をさせると、ふんとに気位ゐが高くなるものね――まあまあ、結構だわよ。」

婦女雑誌には彼女が英語に堪能だなどゝ誌してあつたが、彼女の語学の力は二年の中学生にも劣るものだつた。教科書には、テニソンや、ラスキン、エマアソンなどゝいふ洒落たものを毎日包みにして通つてゐるにも係はらず、単に音読だけでも、彼が一度試験して見ると、辛うじて片仮名読みにたどらなければ声が出なかつた。形容詞と副詞の区別も知らなかつた。

「それで専門程度の英語塾の生徒なのかい!」彼は、激しい語気で斯んなことを云つたことがある。机の前だと彼女は事の他従順だつた。

「学校ぢや読ませたりしないの?」

「えゝ――」彼女は、英語に関して斯んなに無智であるといふことだけは親達に秘密にして呉れ! と彼に頼んだ。

「ふん、女は羨ましいものだ。」と彼が、ほき出すと彼女は、酷く悸々とした。「一年か二年の本を出して御覧な、読むだけで好いから、それを読んで御覧よ。」

だが彼女は、それすらさつぱり読めなかつた。そしてわけもなく彼の気勢を怖れてゐるかのやうだつた。

「チヨツ、まあ、何てえ態なんだらうな。」

彼は、日頃の苦々しさを晴すかのやうに高飛車に舌を鳴すのであつた。すると彼女は、益々切端詰つて、ポツン/\と読んで行くうちに、思はずせき込んで、学校へ――などゝいふ処を、ツー・スチヨールと云つたり、ナイフをキニフと発音したりしてしまふのであつた。

「止さう/\……」彼は、堪えられない不気嫌な顔で、投げ出した。「出来たつて出来なくたつて、籍さえ置いてあれば、それで済むんだから好いさ。――喋舌つたりはしないから、それは安心しておいでよ。」

「屹度よ、一生のお願ひよ。」

長唄や藤間流の稽古にも通ふには通つたが、芸ごとにかけても彼女は性来が驚くべき不器用で、自ら辟易して、それとなく中絶させてしまつた。――だが彼女は、さうした一切の無智・無能を決して気に留めてゐないばかりでなしに、何か自身には女としての確固たる誇りを持つてゐるかのやうな自信と落つきを、何時も――それは、見る者に感じさせる、云ひ知れぬ自由な甘さを、姿や性質に生れながらに持つてゐることは争はれなかつた。他の若者達が、あんなに騒々しい彼女にからかはれても、彼女に対して毒を感じない理由を彼は認めることは出来た。才能や智識や教養の点では何一つ取得のない彼女のやうな女が、考へ方に依ると男にとつては悩ましく朗らかな魅力を放つやうなことになるのかも知れない――などゝ彼は想像したこともあつた。

「妾、吾家が、何時何んなに貧乏になつたつて平気よ。妾、その時は直ぐに芸者になつてしまふから好いわ。自分も面白くつて、それで親達に尽すことが出来るなんて、こんな有り難いことは無いと思ふは――。妾、斯う見えても、おなかの中は仲々持つて親孝行者なのよ。」結婚などゝいふものよりも彼女の憧れは、そんなところにあるらしかつた。

彼は、気持を悪くして空ふくのが常だつた。「そんなに芸者になりたいんなら、何も貧乏になるのを待つ必要もなからうさ。なれるものなら、遠慮なくなつたら好からうに、試験でおつこちるに決つてゐる。」

「試験だつて! 何云つてんのさ――なると決れば妾だつて修業にとりかゝるわよ。」

「何年習つたつて駄目だらうよ。」などゝ彼も彼女の天性の不器用さを攻め寄せるのであつたが、彼女は飽くまでも平気で、勝手なことを云ふが好い、芸事が出来なからうと、物覚えが悪からうと、お前などには解るまいが妾には妾の持つて生れた立派な得意があるのだから関はないのだ。修業だとか、勉強だとか、そんなことは何うでも好いことなのだ、なまじな手習ひなどをして折角の自分を歪めでもしたら、それこそ取り返しがつかないといふものだ――といふやうな意味のことを言葉のうちに含めてゐるかのやうであつた。

不図斯んな事を新しく回想して見ると彼は漸く彼女の白々し気な傲慢さが、圧迫を強ひるかのやうに感ぜられた。そして彼女こそ、持つて生れた素質を、最も素直に育くんでゐたものである――そんな羨望さへ覚えた。そして彼が嘗て、苦々しさを覚えたり反感を誘はれたりした様々な思ひ出は、彼女にとつては、たゞああした家庭にゐて、あんな生活をしてゐたが為の、その場/\の衣裳に過ぎないもので、そんなことを、趣味に反する! とか、好みが野卑! だとかなどゝ正面から反撥した自分こそ、ものゝ心をつかみ得ない軽薄なる卑賤な徒であつた――そんな敗北を感じさせられた。

また、あれらの小説に対して執つた自分の態度や言葉だけが悉く誤つた業で、吾知らず、重苦しく、彼女に対して愚かな反撥を強ひてゐた憐れむべき自分で、真実あの家庭にゐた頃は、自分こそ胸のうちを底知れず攪乱されてゐたのに違ひないのだ――と彼は仔細らしく首をひねつた。そして、Y子といふ女は、眼の前に居る間は、相手の胸を悩めるが、一度去れば何の余韻も残さずに消えてしまふ爽々しい金魚のやうな質なのだらう、白の洗面器の中に金魚を放つと水は忽ち染められたかのやうに赤く映えるが掬ひ出してしまふと、もとのすき透つた水である――彼は、自分が嘗て口にしたといふ思ひも寄らぬ言葉を、現在のY子から聞いて吃驚りすることが屡々だつた。

「妾達が若しあの時結婚してゐたら、何うだつたらう!」斯んなことをY子は、ためらふ気色もなく云つた。彼女は、未だに彼が彼女との約を守つて、自分達の破婚を嘆いてゐる者と定めてゐた。そして、彼がこんな意味のことを云つたのださうである――どんな境遇に離れても、お前のことは忘れない、自分に妻が出来ても、それは空しい人形に過ぎないだらう、お前は自分の一生を通じた永久の恋人である。

そんな馬鹿なことを、何うしても云はすやうな芝居をしくんで彼女は、云はせたのだ。若し愛を感じたにせよ、金魚と同様なその場限りの幻で、凡そ永久の何々などゝいふものとは反対のものである筈なのだが――今の彼女の態度に依ると、別段彼女は、昔も芝居を演じたわけでもなく、純粋で、彼が最も唖然としたことには彼女に寄る彼は「未だに」彼女を想つてゐるのである。芝居、皮肉、意地悪、戯れ――そんな風にのみとつて、反撥し、忘却し、軽蔑し去つた彼こそが、白々しい哀れな独断家であつたことを、出し抜けに彼は感じさせられなければならぬやうな破目に陥つた。だから彼は、心苦しかつたので、あの時分からの偽はらぬ心持を、或日彼女に告げると、いきなり彼女は腕を延して、彼の頬ツぺたを、厭といふほどひつぱたいた。

「ひとを※したんだな、畜生! 何と云やあがつた。その口で! その口で!」

「乱暴は困るな――実際僕は、そんなことを誓つたやうな覚えはないんだがな。」

「嘘つき! 堕落書生……あゝ、妾はお前に今日といふ今日まで※されてゐたのかと思ふと、口惜しい/\!」

彼女は、そんなに叫びながら、恰も冷酷な情夫を罵しるかのやうに激しく、彼に飛びかゝつて、息もつかせず、二つの拳で力一杯男の胸板を大鼓のやうに叩いた。

……はつきりと断つて置くが、彼等は接吻をさへ交したこともない仲なのである。恋心をもつては、手を握つたことも、肩をすれ寄せたことも、一切、そんな静かな、嬉しい記憶もある筈がなかつた。そして、彼は、仮りにもそんな衝動を感じて、息苦しく胸に秘め終せた――といふ記憶もなかつた。

あの頃は、あんな風で(今も大して変りはないのだが――)真面目に思はれるやうなY子の態度を彼は見たこともなかつたし、此方が当り前のことを当り前に話してゐてさへ、やれ気取つた顔をして気障つぽい――の、野暮臭くつて片腹痛い――の、などゝ嘲笑するし、その位彼だつて怖れることもなかつたが、此方も我を通して多少でも真剣な顔を続けて論理をすゝめやうとでもすれば何んな人身攻撃的な嘲笑をもかまはず、満座の中で恥を掻せやうとしたりするので、煩いから彼は相手にしなかつたまでゞある。彼は、独りでハーモニカや、ヴアヰオリンを奏でるのを楽しみにしてゐた者だつたが、その音を耳にすると意地悪く彼女は覗きに来て、演奏中の彼の顔つきと云つたら、妙に夢でも見てゐる見たいに細い上眼をつかつたり、酷く勿体さうに唇を歪めたり、それに伴れて小鼻がピクピクと動くところなどゝ来たら、疳癪に触る程可笑しい――そんなにも無礼なことを臆面もなく放言するのに辟易して彼は、残念の極みであつたが好きな楽器の趣味をも棄てさせられた位ひであつた。

「妾はね、何ういふわけだか、お師匠さんの処へなんか行つてもね、きちんと向ふ前に坐つて、いざお稽古が始まらうといふ途端になると、文句なしに、そんな風に真面目くさつてゐる格構が可笑しいやうな、擽つたいやうな……で、凝つとしてゐられなくなつて――」彼女は、自分の無芸をそんな風に弁明したことがある。

「それがね、妾のは何も年頃の娘が、何でも彼でも可笑しがるといふあれとは何だか違ふやうに思はれて……」

「馬鹿の癖に不真面目なんだよ。」と彼が苦り切つて一蹴すると、不図彼女は、珍らしくも打ち沈んでしまつたことがあつた。

斯んな風であつたから、泊り客などが多くて屡々彼女と二人限りの部屋に寝むやうなこともあつたが彼は、全く、意を用ひては手を触れ合つた験しもないのである。――田代君が、或時、真に迫つた顔をして妾の手を握らうとしたので妾は思はずその場で噴き出してしまつた――とか、満員電車の中で、斯んなことをする奴がある――とか、などゝいふことを彼女は寝に就いてからも話したりするのであつたが、彼はもう飽々してゐたから聞いてもゐなかつた。――もう少したつと喜三公の奴があんたが、此処に寝てゐることも知らないで、忍び足で覗きに来るから、シンとしてゐて来たらいきなり二人でワツと悸かしてやらうぢやないか

「あの、廊下トンビに眼を廻させてやらうぢやないか!」

そんなことを云つて独りで、さも/\可笑しさうにゲラ/\笑つてゐたかと思ふと、いつの間にか彼女はぐつすりと寝込んでしまふのだつた、そして、翌朝になつて残念がつてゐた。

口でこそは、淫らがましいことを遠慮なしに喋舌るのであつたが(あんな風で、近寄る者も出来なかつたのか)事実の上では別段に何の不行跡な振舞ひもなかつたらしい。――勿論彼だつて、怪しからん野心などを持つたことはないのであるが、親達も彼女の行跡については絶対に信用してゐるらしく、仮りにも若者である彼を一つ部屋に寝ませて疑念さへ抱かなかつた。

稀に彼と一処に映画などを見に行つて、接吻の場面などに出遇ふと、彼女は心底から苦々しさうに横を向いて、

「妾、活動も好いけれと、あれが大嫌ひよ。尤もらしい顔をしてあんなことをするのを見ると妾は、とても済して見ちやゐられない、馬鹿臭くつて/\!」などゝ真に堪らなく退屈さうに舌を鳴すのであつた。娘のつゝましやかで、そんな光景を眼にするのを恥らふのでも嫌ひがるのでもなく、彼女のは、人間の無気や恍惚などゝいふ状態を、黙過するに忍びない因果な性癖に依るらしかつた。

Chapter 1 of 2