Chapter 1 of 7

眠つても眠つても眠り足りないやうな果しもなくぼんやりした頭を醒すために私は、屡々いろいろな手段を講じる。

頭がぼんやりしてゐると私は、いつも飛んでもない失敗を繰り返す癖に怖れをもつてゐたからである。

「うんうん――と、はつきり点頭いてゐたから約束通り僕は今迄停車場で待つてゐたんですよ。がつかりしちやふな、ほんとうに未だ寝てゐるなんて酷いや!」

森だ! と私は、吃驚りして寝台から飛び降りた。が、思ひ返すと、とても具合が悪くなつたので、そつとまた寝床にもぐり込んで眠つてゐる振りをしてしまつた。――綺麗な天気らしい。窓掛けが瑠璃色の陽を一杯含んでゐる。

「まあ、そんな約束をしたの! あたし達ちつとも知らなかつたわ。あたし達が知つてゐればそんなことはなかつたでせうにね。」とユキ子が答へてゐた。

「あいつ等に云ふと、一処に行きたがつたり何かして厄介だから、二人で黙つて行つてしまはう――そんな約束だつたんですよ。」

「まあ酷い。罰だわ!」

「お蔭で僕は、今日一日を台なしにしてしまつた。」

本の包みでも投げ出したらしい音がした。その音が私の胸を痛く打つた。森は、汽車で東京へ通つてゐる大学生である。私は、前の日に森と一処に野球試合を見物に行かうといふ約束をしたのをすつかり忘れてしまつたのである。

「ぢや、あたしが御馳走するわ、晩まで遊んでいらつしやいよ。」

「つまらないけれど、さうするより他はないさ……」

「あんな酷いことを云つてゐる!」

――私は、半身を起して首を振つて見た。相変らず夢のやうにぼんやりしてゐる。斯んな頭で他人に会ふと私は、更に何んな失敗を繰り返すか計られない。

森だから好かつたものゝ! などゝ呟いで私は胸を撫で降した。――その上私は、はつきりした頭をとり返さないと自分の仕事が出来ないのだ。

「途中で行き違ゐになりはしないかと思つて僕は、びくびくしながら来て見たんだよ。」

森は、未だそんなことを云つてゐる。森は、此処から三四駅上りに寄つた私の家族なども住んでゐる町に居るのだ。

「行き違ひになつたら、なつたで好いぢやないの。」

気のせいか幾分声を忍ばせたらしい調子でユキ子が云つた。

私は、ユキ子と森の表情を想像した。

「…………」

森の返事はなかつた。

私は、起きて其方へ現れる勇気がつかなかつた。

「ともかく斯う頭が、ぼんやりしてゐては救からない。」

と私は呟いだ。

私は、そつと寝台から降りて着物を着換へると、泥棒のやうに足音を忍ばせて窓を乗り超えた。そして裏庭をまはつて台所口から覗くと、四五日前から来てゐる妻が歌をうたひながらジヤガ芋の皮をむいてゐたので、私は口をおさへて、そつと、そつと! と臆病な眼つきを動かしながら、手振りで、靴を持つて来て呉れ! といふ意味を伝へた。

「ちよつと散歩に行つて来るよ。」と私は、声が潰れた者のやうな喉で囁いた。そして、庭の、森達の方を指差して、何か悪事を相談した芝居の悪者のやうに、手の先で秘密を云ひふくめた。

私はスリツパを靴と穿き換へると、裏の蜜柑畑を脱けて、大廻りをして、街道に出たのである。

真実悪事でも働いた者のやうに胸ばかりドキドキと鳴つて頭は恰で無いものゝやうな感じだつた。何といふこともなしに、堪らない、因果な気に打たれた。

白いバスが通りかゝつた。

私は、駆けて行つてそれに飛び乗つた。不図気づいて見ると私は、ガマ口を持つてゐなかつた。まごまごして、また飛び降りようかと思つてゐると、

「Mさん、此処があいてゐますよ。お掛けなさいな。お出かけですか? 私も行くんですよ、一処に参りませう、私は今日は道楽気ぢやないんですよ、何うしても今日は勝つて来なければ男がたゝない! といふ素晴しいわけがありましてね、まあまあ此処にお掛けなさいよ、あなたに此処で出遇つたのは幸先が好い、あなたに聞きたいことがあるんですよ。」

――忽ち流暢な朗らかな言葉が私を縛つたのである。百合といふ大変可愛らしいお酌がゐるので私が此頃では妻達にかくれて、足繁く通つてゐるロータスといふ花の名前に似た酒場の親爺だつた。

女車掌が親爺の前で切符を切つてゐた。親爺は、回数券を出して、

「二枚だよ。」などゝ私の分まで切つてしまふと、決して私が言葉をいれる余地が無いほどの饒舌を続けるのであつた。

私は、ぼんやり彼の傍らに腰を降してしまつた。

親爺は興奮して喋舌り続けるのであつた。酷く酒臭さかつた。

「どえらい穴をあてなければ、引つ込みがつかない! 今朝は、どうも白々あけから眼を醒してしまつて、大変な騒ぎでしたぜ。店の方はすつかり女房任せにしてしまつて、私は店の儲けも、すつかり買つてしまはなければならないといふ仕末で――それは、余りだ、そんな馬鹿なことをする位ひなら、あたしは競馬場へなんか店は出さない、好い加減にするが好い! と斯う女房がつむぢを曲げ出した、何を云つてやがるんだい、競馬場で酒を売つた儲けで、質をうけ出すなんていふ了見で、運が開けるものかへ、そんなケチをつける奴はたつた今出て行つてしまへ! とばかりに私は見得を切つたところが、女房も、黙つては引つ込まない……大変な夫婦喧嘩が始まるといふ始末でね!」

競馬があるのだ。バスの乗客は悉く競馬行の人々ばかりらしい。――私は、競馬があるなどゝいふことは恰で気がつかずに居たのだつた。途中の湯村にある「温泉プール」へ行つて、滅茶滅茶に泳いで来たら、清々とするかも知れない! と私は思つて、これに飛び乗つたのである。

私は、遂々競馬場へ来てしまつた。

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