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このごろ私は、ときどき音取かくからの手紙(代筆)を貰ふので、はぢめてその音取といふ苗字を知つた次第でありますが、それまではその人の姓名は怒山かく――かとばかりおもふて居りました。ところが怒山といふのは、その人の村の名称だつたのです。左う云へば人々は、その人のことを怒山のおかくと称んでゐたのに気づきました。また、おかくに限らず町の人達は、それらの村の人々を区別するには苗字の代りに村の名前を用ひてゐたとうなづかれます。ともかく私は、この頃その人からの手紙を貰つて、音取かく――と見る場合妙なぎこちなさを覚えるのです。それも定つて音取とあるわけではなく、音頭となつたり音田であつたり、雄鳥と変つたりするのです。おかくに会つて、私が苗字を訊ねて見ると稍暫く呆然とした後に、
「おんどる……だな。」
と答へるのですが、るが、りなのか、また他のものか決して聞わけ憎いのであります。字は訊ねても無駄なのです。怒山といふひゞきの方が、明瞭であるためか、習慣のためか、いかにもおかくの風貌風姿に適はしくて親しみが多いやうにおもつて居りましたが、やがて、おんどるなのかおんどりなのか判然としないのも気にならなくなりました。その山奥の小さな村では、苗字なんてものはほんとうに要もないものだつたのです。郵便なんていふものを受けとる人は村中にひとりもないといふところなのですから――。私のゐる寄生木も隣りの怒山も、その他五つの字名の小区域と共に竜巻村といふものゝ中の小字であり、俗称であつて、登録された名称ではないのです。
おかくは代筆された手紙を自分で私のところへ携へて来るのですが、その内容はいつもきまつて意味が曖昧なのです。
「一体、ぶくりんの名前は何といふんだね。」
文中に、倅柚吉とあつたり、柚七となつたり、柚太であつたりするので、また私が左う訊ねても、やはりおかくの返事は烏耶無耶なのであります。
「ぶくりんが何うも悪さばかり仕でかして……」
おかくは左う云ふだけなのです。ぶくりんといふのは、おかくの倅の仇名なのですが、仇名より他の名前を知る者は誰もゐないのであります。ぶくりんといふのは何ういふ意味なのか、凡そ字義からは忖度の出来ぬ、わけもない単なる語呂であるのでせうが、いつも憤つてゐるのか不平満々なのかわからぬ気の青ンぶくれで、憤つてゐるのかと察すると左うでもなくて、そのまゝの表情で喉の奥にわらひ声などをたてる片目のおかくの倅の風貌は見るからにぶくりんなのです。これは何もぶくりんに限つたわけではなく、何故かこのあたりでは古来から大概の男は仇名の方が有名で、いつの間にか当人でさへも自分の本名を忘れてゐる者さへ珍らしくありません。ぶくりんで連想するのは代書業のぐでりんです。私も無論未だ彼の本名は知らぬのでありますが、彼の様子は打ち眺めたところ別段に際立つてぐで/\してゐるといふわけでもなく、いつも浅黄色の絹はんかちを首に巻いたどちらかといふと優型の美男子ですが、何故か彼は他人と会話を交へる場合に決して相手の顔を見守りません。顔を稍斜めに曲げて眼を伏せたまゝ仲々の饒舌ですが、その間常に同程度の微笑を湛えてゐます。そして左の指先で頤の先を引つ張つてゐるのが癖ですが、さうしてゐるときはとても細長い顔に見うけられるのに、ひよいと何うかしたハズミに正面を向いたところを見ると寧ろ扁平なかたちで見違へられます。青いとも黄色ともつかぬヘチマ様の顔色で、時々薄化粧を施してゐることがあるさうです。尚彼は、口の利き振りが悠長のやうに見へるのに他人の云ふことを終りまで聞かず、無闇に左うか/\と点頭くのです。非常に悟りが速いことを示したがる態です。その癖彼は約束を守つたことはないといふはなしです。また彼の歩き振りは飄々たる抜きあしの態で、爪先から先へひよい/\と脚を運びますが、上体はやはり長閑なヘチマのやうにぶらついてゐるのに斜めに頤を伸した伏目をもつて、油断なく前後左右を警戒してゐます。いちいち説明をすれば際限もありませんが、彼は何故ともなくその面前では相手の者を信用させる徳か技に似たものを持つてゐますが抽象的には断じて信用の出来兼ねぬ銀ながしだ左うであります。つまり、それがぐでりんなのでありませうか。
その他にも仇名でなければ通用せぬ人々のことは算えきれません。親兄弟であらうが、貸借りの帳面づらであらうが凡て仇名を持つて不思議とされてゐないのでありますが、たゞひとり消防小頭の諸星源十氏だけは、これらの弊風を「根底から改革すべし」と意気捲いて居ります。源十氏は屡々これらの野卑極まりもない風習に関して、悲憤慷慨の演説を開きますが、一朝一夕に永年の習慣が改まる筈のものでもなく、稍ともすれば氏の前でその仇名を呼ぶ者に出会つては叱咤の声を枯らしつゞけてゐる始末です。で、諸星氏の本名よりも遥かに通用し易い仇名は、湯アガリといふのであります。諸星氏の顔色は何故か四六時中湯あがりのやうにテラテラと赤いからであります。彼は謹厳実直の郷士で、一滴の酒も嗜むことなく夙に竜巻村小字界隈の風教改革運動に東奔西走して寧日もなき人であります。あたりで中学の課程を終へた者は諸星氏たゞひとりださうでした。
ところがいつの間にやら、私の上にも仇名がついてゐることを発見して、驚き且つ諸星氏と同様に憤慨しました。私はその仇名をやはり諸星氏と同様に自ら非常に嫌つて、決して認めたり許したりはせず、自ら想ふだに怒りの激情に堪えられんのでありますが、はなしの行き懸り上厭々ながら述べるわけであります。どうぞ、直ぐ忘れて下さい。私の仇名は水車小屋のトンガラシといふのです。いつも/\、唐辛子を舐めさせられたやうな苦気な顔ばかりしてゐるといふところから、誰が云ひ出したともなくそんな名前が流布されたといふのでした。私は、それを聴いた時は思はずカツと逆上して、
「トンガラシとは何だ!」
と身震ひと一処に怒鳴りました。居酒屋の泥亀の店で、村祭りの宴の場でした。皆な白けて黙つてしまひ、私は席を蹴つて立ち去りましたが、間もなく向方にワーツといふ歓声が挙りました。名前を呼ばれて怒る奴は湯アガリだけだとおもつてゐたら、またひとり野暮なトンガラシが出現しておもしろいぞ――とはやしたてたのださうです。
当人が高飛車な牽制を加へれば加へるほど、それは須臾の間にそれからそれへ喧伝されて、今ではもう手の施しようなく私は大勢に巻き込まれました。
ほんの少しばかり音取かくに就いての私の回想をお聴き下さい。私は、十五ほど齢下の弟との二人兄弟で、私たちは共々に幼年のころ音取かくに育てられました。
ぶくりんを知る者ならば、不図はぢめて出遇つても、これはあの息子の母親だなと気づくほど倅の容貌に好く似た母です。私はおかくを先に知り、ぶくりんとは五六年前からの知り合ひですが、おかくの倅だときかないでも直ぐにそれと悟りました。
おかくは昔から滅多に口を利くためしがなく、いつもぶくりん! としてゐて年齢の想像が今でもつきません。相当のお婆さんには違ひないのですが、私にはやはり昔のおかくとそんなに違つてゐないと見えます。おかくは、何んな場合にも逆ひといふものを知らぬ驚くべき気永な性質で、蓋し子供の守役には稀大の適任者だつたのでせう。子供がおはなしを求めると、噺は何も知らぬからと弱つて、粉ひき唄といふものを歌ひました。その歌の調子といふたら世にも悠長なメロデイで、まるで欠伸のやうに漫然たるものです。今も昔と変りなく秋の収穫れが済んで冬の仕事にとりかゝらうといふ時ともなれば、あちこちの家々の窓からごろ/\とまはす石臼の響きに伴れて歌の声が聞えますけれど、何んなに私が辛棒強く聴耳を凝らして見ても、あまりにその唄の調子が緩漫に過ぎて、何うしてもその歌詞を聴きわけることが適はぬうちに、ついうとうとゝ眠気を催してしまふのです。何ういふ文句なのかと訊いて見ても、節と一処でなしにそれを口にすることの出来る者はひとりもありませんでした。つまり歌詞を明瞭に知る者は無かつたのです。
弟の幼時には、私は中学生でしたが、おかくと赤ン坊は冬になつて風のない日であると、裏の蜜柑畑に続く芝原の日向で遊んでゐました。私の机の前の窓から、その光景が額ぶちに収つた画のやうに眺められました。粉ひき唄をきゝながら幼児はもうとうに眠つてゐても、おかくは抱きあげることもしないで切りと歌をつゞけてゐるのです。歌はやはり石臼をまはすと同様に上体を動かせてゐないと調子がつかぬと見えて、おかくは粉ひきの物腰でいつまでも歌つてゐるのです。そして子供が再び眼を醒しても相変らず石臼をひいて歌つてゐるのです。そんなに永い間子供は眠つてゐるのだから、せめてその間は歌を休んだら好さゝうなものなのに、一度子供にせがまれて歌ひはぢめたとなれば、聴手が退屈して他の遊びを申し出るまでは決して自ら止めようとは致しません。それからまた子供が芝生を逼ひ出して畑のふちなどへ差しかゝると、おかくはそれを引き戻さうとはしないで、子供の行手に筵を敷くのであります。子供の腕が伸びて行く方向へ、作物の上であらうが籔側の日蔭であらうが頓着なしに、それからそれへ筵を敷き伸せて逼ふがまゝに逼はうとする子供の行手を決して遮らうとは致しません。逼ひまはる子供の腕や脚は仲々疲労しないものであつて、私は子供が蜜柑の林の下を亀の子のやうにぐるぐると逼ひ廻つて、畑を横切り、母家の方までも逼ひ込んで来るのを見て感心し、どこまで逼つても邪魔ものゝない広場で逼はせたならば何メートル位ひの距離を逼ふものか知らなどゝ代数の問題を解くことも忘れて、見惚れました。おかくは子供が通つてしまつた後の筵を丸めて、更に行手に敷き伸す仕事を繰り返しながら子供の運動に伴れて何か口のうちで呟いて居ります。
弟の時も私の時も、その養育振りは全く同様だつたといふことで、そしてそれ程齢の違ふ弟と兄を稍ともすると感違ひして、呼び間違えるのです。おゝ、それで私は今不図気づいたのですが、子供が私の窓の下に差しかゝつた時、おかくが、
「トン、トン、トントン――」
と子供の歩き振りに伴れてうたつてゐるのでした。
「トントントントン、トンガラシ……」
それだけが何かの文句の後先にはつきりとひゞきましたが、おかくは窓の中の私の顔を見ると、アツ、間違えたか! といふやうに眼ばたきして、
「ラツキヨウ坊主、ネギ坊主……」
と拍子を変えました。
して見るとトンガラシの仇名は、何も近頃の私にはぢまつたわけではなく、赤児の時からそんな苦気な顔をしてゐたものか、それとも頭の格構でもが唐辛子を髣髴させるのか、ともかくおかくに与へた私の印象がトンガラシであり、それはおかくの命名に他ならなかつたのです。ぶくりんとかぐでりんとかいふのと同じやうに別段の意味もなく、別にこの男の何処がトンガラシに似てゐるといふわけでもなくとも、何やら左ういふ印象を人に与へるところから即興的におかくの口に登つたのだから適ひません。また弟のことをおかくは、ラツキヨウ坊主、ネギ坊主と呼びましたが、左う云はれて見るとたしかに私の弟の感じは、それに違ひありません。
その町には、昔ながらの鐘つき堂といふのがあります。一時間毎に、その時刻の数だけを報じて、更に「棄て鐘」と称して、三つだけを余分に打ちます。つまり、十一時には十四、十二時には十五の数を打つのです。これはその後大正の震後に改正されて、今では朝(六時)と午の二回に減らされ、棄て鐘なるものも廃止されたようですけれど、何百年の昔世は北条の戦国時代から打ち鳴らしつゞけられたものといふことです。
子供はこの鐘楼の下に立つて、鳴り響く鐘の響を算えるのを好みました。おかくは子供を伴れて、その下に立ち、子供といつしよに一つ二つと鐘の音を唱えました。鐘が鳴り止むと子供は、
「もつと/\!」と強要するのです。
朝、学校へ行く私が、子供を伴れたおかくと共に家を出かけて、午後になつて再び其処に帰りかけると、おかくは未だ鐘つき堂の石垣の下でランチ・バスケツトをさげたまゝ鐘の鳴るのを待つては、まだ算えて居ります。私には、鐘つき堂の下で子供の手を引いたおかくが、ぼんやりと仰向いて鐘の鳴るのを待つてゐる時の姿が一番鮮やかな印象に残つて居るのです。