Chapter 1 of 5

あいつの本箱には、黒い背中を縦に此方向きにした何十冊とも数知れない学生時代のノート・ブツクが未だに、何年も前から麗々と詰つてゐる。――尤も扉には必ず鍵がかゝつてゐるが、硝子が曇りでないから、中の書籍は一際見えるのであつた。珍らしいものは持つてゐないが殊の他の蔵書家で、書斎に続いた小さな納戸は殆んど書庫のかたちを呈してゐた。

どうしてあんなノート・ブツクなどを、そんな風にならべて置くのか自分には彼の了見が解らなかつた。彼は、都の大学では理学を専攻したと、吾家の者や近隣の知人に吹聴してゐると云つてゐたが、当時の彼の生活は自分も知らないので、そして彼の時々の口調から察しても月や星のことなどには割合に精通してゐるらしいので自分も、さう思つてゐた。彼は、哲学などにも多少の興味を持つてゐるらしく、話材がなくなると勿体振つた口調で昔の学者の名前をあげては色々な場合にそれらの所説を引用して、六ヶし気に眉をよせるのが癖だつた。――それで、それらのノート・ブツクの背中には、何れも白い絵具で、何々博士天文学講義とか、何某教授ギリシア哲学史とか、卒業論文「ヴント心理学の研究」とか……様々な科目の表題が、太く叮嚀な文字で誌してあつた。

書籍ならば好いが、そんな筆記帳などをいつまでもそんな風に飾りたてゝおくことに自分は、自分にはそんなものは一切無かつたからさういふものに対する他人の保存癖も解らないわけだが、何だか妙な気がしたので一度彼に訊ねたら、彼はムツとして、

「君は、実に他人に対して無礼な、卑俗な憶測をする奴だ。他人のすることを一概に感傷的だといふ風に軽蔑的な眼を放つ奴は無智な不良の徒だ。――俺は、一見君などからは退屈風に見られる場合だつて、俺の胸のうちには何時も或る種の熱情が炎えてゐるんだ、驚異が眼を視張つてゐるんだ!」と、突然赤い顔をして、途方もないことを口走つたので自分は吃驚して、それ以来其方ばかりではなく、彼の書斎の異様な飾りつけにも成るべく好奇の眼を放たないやうに努めた。(彼の書斎が何んな風であつたかと云ふことは余裕があつたら後で述べるかも知れない。)

さうかと思ふと彼は、また或る時、変にはにかむやうな吃音で斯んなことも云つた。――「俺はこの通り母家と離れて、ここで斯んな日を送つてゐるんだがね、時々母親や女房が覗きに来るんだよ。こんな風に衒学的な装飾を施しておかないと、あいつらは俺を馬鹿にして仕様がないんだ。俺はね……これは君、頼むから誰アれにも云つて呉れるな……俺はのう(と彼は思はず、俺はね! と同じつもりの田舎訛りで口走つた。)――俺はのう、自分が馬鹿であるといふことを他人に知られるのが何だか厭なんだ。それだから俺のすること為すことは、悉くがうわべの悧巧がりに過ぎないんだ。一生懸命で悧巧振りを装つてゐるんだよ。学問嫌ひの奴なんていふものは大抵学問を軽視し得るだけの何かの自信を持つてゐるやうだが、俺は、生れながらに自信を忘れて加けに学問嫌ひと来てゐる。そして精神の内容のあまりに貧弱なことを想ふと吾ながら唖然とするばかりだ。

君は俺が謙遜家でないことを十分知つてゐるからこんなことも白状するんだが俺は、生れながらに怖ろしい阿呆だつたんだ。馬鹿なら馬鹿で未だしも仕末が好いが、馬鹿をかくさうとする感情だけが妙に小賢く発達してゐるのが情けない。」

彼は、慎ましやかに眼蓋を伏せて溜息を吐いた。自分は、彼の斯んなに沁々とした様子を見たこともない。何となく自分もしんみりとしてしまつた。くだらないことを思つてゐる奴だ、あんまりつまらぬことで自分には何としても同感は出来なかつたが、成る程そんな愚かなことにそんなに悩まされてゐるのか! と思へば、さういふ彼の存在は誠に情けなく同感出来ないこともなかつた。自分は、気の毒な男だ! と思つた。彼は、息をのんでつゞけた。――「第一俺は、吾家の奴等とさへ一処に暮すのは苦しいんだ、彼等の前でさへ俺は、悧巧振らう/\とするうわべの切ない努力で、言葉は凡て科白のやうにぎごちなくなり、動作は凡てわざとらしい芝居になり――だから彼等と一日も一処に居ると晩には、苦しい芝居でも演じた後のやうにへとへとに疲れてしまふんだ。と云つて若し、それらの努力を俺から引いてしまつたならば、俺の人格は零なのさ、零点だ! 単に其処に転がつてゐる邪魔ツけどうな物体! あゝ、俺は何といふ愚劣な法螺吹きであらう、如何して斯うも行為と心とが一致しないのだらう。――例へばあのノートだつて、あれはどれもかも学校時代の産物ぢやないんだ。実は、此方に帰つて以来、勉強と称して此処に離れてゐるんだが、仕事がない……吾家の奴等が時々のぞきに来る……仕方がなく俺は、いろんな講義録を抜萃してあれだけのノートをつくつたんだよ、俺としても、たゞぼんやりしてゐるよりは余ツ程救はれるんだ。たゞ碌々してゐると見られると、また俺は務めに追ひやられるおそれもあるのさ。――務めは、向方で御免だし――」

「さうだ、君はいつか“Childrens Science”の記者をしてゐたことがあつたね。」

自分は、彼が学校を出て間もなく暫くさういふ子供雑誌の編輯助手をしてゐたことを思ひ出した。それは彼が子供の時分に初号から十年あまりも購読してゐたといふ或る新聞社から発行されてゐた子供科学とお伽噺を主にしてゐた雑誌で、何でも彼は当時大変得意になつて大人の自分の処へまでそんな雑誌を月々贈つて寄したことがある。あの頃の彼の気障さ加減を今でも自分は覚えてゐる。彼が、得々と、似合ひもしないタキシードなどを着込んで、そつくり反つて銀座通りなどを歩いてゐたことを覚えてゐる。あの頃の彼の趣味があまりに鼻持ちがならなくて自分は、成るべく遠ざかつてゐたくらゐだつた。自動車が如何の! 香水が如何の! カフエーが如何の! オペラが如何の! 文学が如何の!(あいつが文学を口にしたのには思はず自分は噴き出してしまつた。そして、文学にでも走らなければ好いがと自分は内々案じた。)

「あれは如何して止めたの?」

「寝坊のために免職されてしまつた。」

「がつかりしたらう。」

「うむ。」

「だが、二三年たつてまた君は東京へ来たんだつたね。」

「行つた。その時に俺は、半年ばかり何とかといふ文芸雑誌の――これも助手だが、記者をやつたよ。」

「へえ、君が! 一体何といふ雑誌?」

「エツセイ。」

「聞いたこともない。――学術的なものか?」

「…………」

「それは何故止めたんだ。やつぱり寝坊のための免職か?」

「…………」

彼は、妙に首を傾げて、気持悪るさうに顔を顰めた。うまく自分に、云ひあてられたに違ひない。

「お父さんとは近頃は仲直り出来たか?」

「うむ。……」

「で、この頃は、主にノート・ブツクの製作か?」

「それも、まあさうだが――これは内証なんだが――」と彼は、声を低めて云つた。厭に、内証々々といふ奴だと思つて自分は、退屈さうに点頭いた。「俺は、この頃文学に心を馳せてゐるんだ。」

「文学に!」と自分は叫んだ。「君が!」

「小説だ。」

「古典でも研究するのか?」

「いや、自分が作家に……」

「ほう!」と自分は、まつたく狐にでも化されたやうに口をとがらせた。――何故自分がそんなに仰天したかは、いろ/\彼の人と為りを説明しなければ解らないが、兎も角自分は彼の向ふ見ずに舌を巻いた。――成る程、馬鹿だな! と沁々、さつき彼が己れの愚を説いてゐた言葉に同感した。

彼は、此方の冷い心にも気づかず、何か大きな六ヶしいことでも考へてゐるといふ風に、深刻気に表情を歪めて凝つと、海の見ゆる窓の方を睨んでゐた。

(若者には文学病といふ一種の病ひがあるさうだ。あいつもそんな雑誌の記者などをしてゐるうちに、可愛想にそんな途方もない病ひにとりつかれてしまつたのか。)

自分はさう思ふと、さすがに気の毒になつて何か忠告めいた言葉でも掛けてやらうかしら? とも思つたが、直ぐに、

(あいつ、また惨めな芝居をはじめたのだらう。自分で、俺は法螺吹きだと云つてゐるんだから、大丈夫だ!)と気づいたので、自分は可笑しな安心をした。そして、だんだんに彼の先程の所謂「愚かさ」が解り、哀れな人と為りに同情出来るやうな心持になつた。

さう思つて見るせいか、彼の横顔を眺めると、その眼は、動物のそれのやうに無智な光りを帯びて、たゞどんよりとしてゐるばかりであつた。開いた小鼻が呼吸に伴れてヒクヒクと動いてゐた。彼は、白痴のやうに口をあいて海の上をぼんやり眺めてゐた。――少くとも自分に、こんな顔つきでは、成る程、沈黙の時には思想はないだらう、そして饒舌る言葉には自信は持てないだらう、何も彼もカラツポだらう、云へば嘘より他にないのも無理はないだらう、さぞさぞ寂しいことだらう、あいつの笑ひ顔を自分は何時にも見たことはないが! あの顔つきは恰で梟だ、何とまあ、洞ろな悲しみに満ちてゐることだらう! あいつはいつか自分に、俺は恋の経験もないと滾したこともあつたが、まつたくあれぢあ近づく女もないだらう、それにしても、あいつも気の毒だが、あいつの細君の方が一層気の毒だな! それはさうと俺は、あいつの為に何か適当な職業を探してやらうよ! ――などと思はせられた。

「来た、来た、来た!」と彼は、突然酷く慌てゝ叫びながら、しどろもどろになつて何やら自分を促した。

「何だ?」

「向方を見ろ! 阿母と女房がやつて来る! 俺の様子を見に来るんだ!」

彼は、あたふたとして立ちあがつた。――見ると、海に近い松林の間を彼の母と細君が睦じ気に語らひながら歩いて来る。午に近いおだやかな海辺である。爽々しい陽の光りが、凪いだ水の上に銀色に映えてゐた。

自分には、彼のそんなに慌てる心がさつぱり解らなかつた。――自分は、一年振りで彼を此処に訪れたのであるが、前には斯んなではなかつた、子供沁みてゐたが快活な男だつた、衒学的なことを口走る癖はあつたが、此頃のやうな怠惰な鬱屈の影はなかつた、たゞあいつの変らないところは細君をもつても少しも家庭の人らしくならないところぐらゐなものだ、噂に聞けばあいつの家も破産の状態に陥つてゐるさうだが、そんなことを或ひは気に病んでゐるのかも知れない、案外気の小さいしみつたれなところのある男だから! それならさうとはつきり云へば好いのに男らしくもない見得坊だな!

彼は、早くちに云つた。「俺は彼女等に、再び学生を装つてゐるんだ。そして、君は、俺の先生のつもりに吹聴してあるんだ。年齢は二つ三つ上だし、そんな立派な鬚もあるし……彼女等は疑つてはゐない。もつと早くこのことを君に話して置かうと思つてゐたんだが、つい今まで云ひそびれてしまつた、御免!」

道理で二三日前から、稀に会ふ彼の両親や細君の様子が何だか妙だつた! と自分は気づいて、てれた。――彼は続けた。

「いろいろそれにも苦しいわけがあるんだ、後で話さう! ……あゝ、もうあんなに近くに来やあがつた! 好いか君、俺――急に言葉を叮嚀に改めるから、君は、何となく鷹揚に点頭いてゐてくれ。」

自分は堪らなかつたが、彼は酷く真剣で真赤になつてゐるので、謝絶る隙もなかつた。自分は、仕様ことなしに凝つと彼の顔を眺めてゐた。自分は、未だ何んな人の前でも嘘をついた経験はない。自分は、他人を瞞着した経験もない。自分は、何んな意味でも他人の前で芝居を演じた経験もない。自分は、蔭ひなたのある人間を憎む。そして自分には何んな遊戯的の分子もない……。

「あゝ、もう石段を昇りはじめた。」

切端詰つた顔つきをしてゐる彼の眼からは、この時ほろりと涙が滾れ落ちた。自分も何だか酷く動悸が高まつて、にわかに全身の血潮が逆上して来る苦しさのあまり、ふと彼の涙に誘はれさうになつた。

自分達は、達磨のやうに向き合つてゐた。

Chapter 1 of 5