Chapter 1 of 2

堤の白明

野菜を積んだ馬車を駆つて、朝毎に遠い町の市場へ通ふのが若者の仕事だつた。

村を出はづれると、白い川の堤に沿つて隣りの村に入り、手おし車ならばそのまゝ堤づたひに真ツすぐに、また次の村に入れるのだが、そのあたりから道が急に狭くなつてゐるので、馬車だと迂回して、鎮守の森の裏手から、村宿を通り抜け、鍛冶屋と水車小屋に、朝の挨拶をかけて、橋を渡るのであつた。

「お前の槌の音が聞えると、タイキ(馬)は、きつと脚を速くするぜ。」

「その脚音は此方にもちやんと聞えるわよ。斯んな勤勉家のお前と私とが、万一夫婦になつたら村一番の金持になるだらうね。」

鍛冶屋の娘と若者は斯んな話を、大声でとり交したことがあつた。

娘のあんな戯談を若者は、どうかして思ひ出すと屹度悲しくなつた。何故だか若者には好く解りもしなかつたし、また、深く考へて見もしなかつたが――。そして若者は、この頃では、鍛冶屋の前を通る時には、

「お早やう!」

と叫んで、振り向きもせずに駈け抜けるやうにしてゐた。

と、屹度、娘も、槌を止めて、何か云つた。――「ヒツプ! ヒツプ!」と、口笛のやうな声をおくることもあつた。

「靴を買つて来てお呉れ! そら、お金よ。」などゝ、駈け寄つて来て、若者の胸先きに財布を投げつけることもあつた。

「オーライ!」

と、云へることゝ、云へぬことゝがあつた、若者は――。だが、娘からの頼みを忘れたことはない。

三つの村を通り、二つの橋を渡つた後に漸く若者の馬車は市場のある町に着くのであつた。

……夏だと、白い川の堤に差しかゝつた時分に夜が明けるのがならひだつた。屹度、そこで白々と空が明るくなるのが常だつた。そして若者の胸に、娘の映像がはつきりと現れ出すのが例だつた。――白い川の堤を、ゆた/\と進みながら、娘の白い幻をあざやかに空に描くのが、若者の秘やかな悦びだつた。

曙の薄明りの中で若者は、娘を堅く抱き締めた。

明方の白い川である。若者は、寝屋の夢でも屡々この堤を見た。御者台に娘と肩を組んで並びながら堤を進んで行く白い夢を、若者は屡々見た。

いつの頃からか若者は、その川のことを「白い川」と独りぎめに称んでゐた。或日、市場からの帰りに、旅人に村へ行く近道を尋ねられると若者は思はず、

「あの白い川の堤に添つて――」などゝ教へて、不図苦笑を覚えたことなどもある。明方の印象だけが深いので若者には何時もそれは白い川だつたが、その時は快晴の真昼時で水はあたりの新緑を深く映して、一面に青く光つてゐたから――。

この頃若者は、白い川のあたりから、町に入るまでの間、御者台に首垂れて本を読み続けることにした。タイキは道に好く慣れてゐたし、出遇ふ者のある筈もなかつたから別段手綱を執る要もないのである。馬は間違ひなく、それで、町へ着くのである。若し若者が全くまどろんでゐたとしても――。

……「俺は昨夜不思議な夢を見たよ。お前が今俺におくつて呉れる次々の輝かしい言葉に答へる俺の悦びの返事を、俺はすつかり昨夜の夢でそらんじた。だから、万一俺が今お前に答へる言葉が、お前にとつて不満であつたにしても、どうか悪く思はないでお呉れよ、ロータス!」

「お前が若し、妾の言葉に対して一切の沈黙を守つてゐようとも、妾の心はあらゆる輝かしさに満ち溢れてゐるから、この上もう、何んな言葉も要らない。勇ましい姿のアハヴよ。橄欖の冠は必ず汝の頭上に落ちるだらう、ゼウスにかけて妾は疑はぬ。」

若者は、白い川のほとりを進みながら、こんな言葉を声をあげて朗読した。遠い昔、ギリシヤのこと、パンアテナイア祭の戦車競技に出陣する勇士とその恋人の物語である。

若者は、一行読んでは書物を胸に抱き、空を仰いで恍惚とした。白い川のせゝらぎの音が、群集のざわめきでゞもあるかのやうに颯爽と若者の耳に伝はつた。

若者の脳裡では、アハヴが自分となり、ロータスが鍛冶屋の娘に変つたりした。

「アハヴは腰の剣を抜き放つと、天をさして高唱した――ロータスよ、別れだ!

ロータスは恋人の剣をとつて、薔薇の枝を剪つた! そして、誉れに輝く勇士の鎖かたびらの胸に真紅の薔薇をさして、云つた。――発ち給へ、道々にこの花片を撒きたまへ、妾はそれを一つづゝ拾うてお前の戦勝を祈らなければならない! 夢にも後を振りむくことなしに、この瑠璃色の朝陽を衝いて、さあ、一散に発ちたまへ……」

若者は、震へ声で朗読した。若者は、思はず御者台に立ちあがつて、空に向つて拳を振つた。

「一散に――行け、行け、行け!」

若者は、パンアテナイア祭の戦車競技に選ばれた幸福な、そして悲愴なアハヴの心を心としてしまつた。――ほのぼのと明け放れた朝霧の中で、若者のタイキは花々しい嘶きを挙げて快走した。

そのまゝ鍛冶屋の前を駈け抜けてしまふ決心だつたから、

「寄つてつて頂戴!」

娘がタイキの轡をとつた。ロータスを、いつか若者はこの娘に扮装させて、幸福な騎士にしてゐた自分から、不意に醒めてドギマギしてしまつた。若者は、真赤になつて、

「早起きだね!」

と、無愛想に云つた。

「早起きだつて? あたしが――。毎朝々々お前の車が通る時に起きてゐるのは吾家と、水車屋さんの二軒にきまつてゐるのを知つてゐるくせに……。何を空とぼけたことを云つてゐるのさ。」

「いや、それは間違へたか!」

若者はソフト帽の前をおろしながら云つた。

「でもね、今朝は少々お願ひがあるのよ。ミヤツ村が今日からお祭りで、招ばれてゐるのよ。途中まで乗せてつて貰はうと思つて待つてゐたの――」

「待つてゐる間に、まあ一杯! こいつを一つ仕上て置かないと義理の悪いことがあるんで――」

娘の父親はジヨツキの酒を若者にすゝめた。娘と父親は槌をとつて馬蹄を打つた。朝から晩まで槌を打つ仕事に励んでゐる父と娘だつたが、若者は彼等の仕事を足をとめて眺めたのは今朝がはじめてだつた。

カーキ色のシヤツの袖をまくしあげて、唇をしつかりと引き結んだ娘は、早朝から一杯機嫌の父親が、槌に合せて、飄逸な掛声で音頭をとつても、眉一つ動かすことなしに、夢中で重い合槌を打ち続けた。娘の額からは玉の汗が流れた。

「手伝はうか?」

と若者は云つた。

「素人には――」

娘は耳もかさなかつた。

娘の槌が降りる毎に綺麗な火花が飛び散るのを若者は、胸が一杯になるやうな想ひで眺めた。

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