一
沢山な落葉が浮んでゐる泉水の傍で樽野は、籐椅子に凭つて日向ぼつこをしてゐた。彼は、あたりのことには関心なく何か楽し気な思ひ出にでも耽つてゐる者のやうに伸々と空を仰いでゐるが、何時の間にか眠り込んでしまつたのかも知れない、膝の上に伏せてあつた部厚な書物が音をたてゝ足許に滑り落ちても拾はうともしないから。書物は、もう少しで水の上に落ちかゝりさうなところで躑躅の小株につかえてゐた。そして、情熱的な読者の赤鉛筆で共鳴の傍線があちこちに誌してある「抽象的観念の実在」――そんな項目の頁を微風に翻してゐた。
ついこの間までは大きな鯉が悠々と泳いでゐたが樽野が悉く売り払つてしまつたので泉水は霜枯れ時の運動場のやうに静かで、間が抜けてゐた。いつもなら赤、白、青の鯉が行列をつくつて游ぎ回つてゐるので水底は不断にもや/\と煙つてゐたが、今は隈なくすき透つて藻の蔭に沈んでゐる蒸汽船や瀬戸物の破片などまでがはつきりと見えたし崖の小笹の間から滾れる水を招んで気ながに湛えた泉水の水なので、一度濁ると容易に魚の姿が判別出来るまでには澄まなかつたが、斯んなに澄み透つた水が満々としてゐるのを見ると妙に空々しく不自然であつた。
樽野は庭などを眺めるために椅子に凭つてゐるのではない。彼は、鯉などが居ようと居まいと、水がそんなに空しく澄み透つてゐやうと、全く無頓着なのである。――今度はその辺の庭木でも売ることにしようか、あの石灯籠はあつても無くても好さゝうだ、あれに仕様か――書斎に坐つて読書をしてゐたのであるがそんなことばかりが気になつたので本を抱えて庭先きを今更のやうに験めに出て来たのだが、そして、そんなものを売ることの楽しさを考へてゐるうちに、すつかり好い心地になつてぐつすりと眠つてしまつたのである。彼は、口をあいて、虚空を仰いでゐた。爪先きが汀の右につかえてゐるから保たれてゐるものゝ若しや幻で身悶えでもしたら忽ち水の中へ落ち込んでしまふに相違ない。
「つまり僕達は毎日、好い気になつて泥棒を働いてゐたわけだね。」
「あたし達に注意をしに来た時には、番人の方が返つて赤い顔をしてゐたわ。」
「赤い顔もするだらうさ、この真昼間に女もまぢつて、キヤツ/\と騒ぎながら大働きをしてゐる山賊を見たひには――」
樽野の友達の弟である林と、樽野の妻、その弟の正吉、妻の友達である加代子達は、蜜柑の一杯詰つてゐる登山袋や、枝なりの蜜柑などを各自の両手に携えながら、皆な赤い顔をして戻つて来た。
「だけど自分の畑が、とつくに売られてゐるのも知らないなんて、言訳にも何もなりはしないわ。」
「ぢや、お金を払ひませうか――だつて、姉さんも随分平気で白々しいことが云へたものだよ、えゝ、戴きませう! と来たらあの時何うした?」
「今年だけは、とるだけは取つても好いんぢやないのかしら?」
「大丈夫か知ら、僕は未だ何となく脚が震えて仕方がないよ。」
「正ちやんは、また馬鹿に意久地がないのね、あたし驚いたわ、こそ/\と逃げ出さうとなんてするんだもの、みつともないぢやないのよ。――それに、あたしはあんた位ひ頼みにならない人はないと思つたわ。」
「だつて今日だけぢやないんだぜ、今迄何れ位ひ彼処の蜜柑をとつたか解りはしないぜ、先月なんかはあんなに沢山売つたりしたぢやないか、いくら今度の持主が人が好いと云つたつて売つたことが解つたら……」正吉だけが酷く悸々としてゐた。
「さうなればお前も同罪だよ。」
「ほんとうかい、姉さん? そんなら僕は今日のうちに東京へ逃げてしまはう――」
「尤もあの番人には詳しいことは解つてゐないだらうが――こんな格構で畑へ入れば吾家の者だつて何とか云はれるさ。」
「俺は平気だ、これからだつて若し喰ふものがなくなれば、蜜柑だつて、芋だつて手当り次第だ、要領はもうすつかり解つてゐるからね、今だから云ふが僕は今迄だつて他所の場所だと思ふところだつて関はず入つて行つて掠奪を縦にしてゐたものさ。」
「それが案外自分の家の畑だつたんぢやないの? ――馬賊に憧れたことがあるといふ人は違つたものね。」
「いつだつて僕は――」と林はわざとらしく強さうに続けた。「今日はお八ツがない! とか、牛肉を煮るんだが野菜がない! なんていふ日には、一寸とお待ちつて、出掛けたでせう、あれは買つて来るわけぢやないんですよ、まだ/\夏の時分の吾々のデザート……西瓜、桃、真くわ瓜――」
「ぢや、また来年の夏になつたら来て頂戴よ、冬のうちは用がないからお帰りよ。」
「チエツ、酷えことを云つてら。斯んな好いお客がまたとあるものぢやない。釣りはあの通りに名人だし、空気銃を持つて出かければ立所に山の産物を持つて帰るし……これは戯談でなく、僕はほんとうにこの村でならこの儘で四五人の家族を養つて暮せる自信がついたな――米と酒だけ何うにかすれば、何、それだつて、魚や蜜柑や小鳥を売つたりすればね、物々交換といふやつを始めても好い。」
林は真実そんな空想に走り始めたかのやうに言葉を切つて首をかしげた。「蜜柑運びに雇はれても好いな。」
「でも、このことを兄さんが知つたら何んな顔をするだらう。」正吉は独りでくよ/\と蜜柑畑のことを気にしてゐた。「つい此間だつて、兄さんは、あれがあるうちは――とあの山を指差して云つてゐたよ――あれがあるうちは斯んな風に皆なでごろ/\してゐられるが……ツて!」
「そのくせ、阿母さんやGさんに向つても何んにも云へないんだから。あの阿母さんといふ人は何といふ酷い人だらう、町にあるものは皆なお金にしてしまつて、また此処までも――そして名前は皆なあの樽野で、執達吏が来る、競売の通知が来る! そんなことは知らん振りをしてゐる。」
「町の方のことはGさんや阿母さんに頼んだと云ふんぢやないの?」
「面倒がつて投げ出してしまつたゞけなのよ、抵当のものがあるんだから頼むも頼まれるもあるもんですか、お父さんからのことが漸く片づきさうになつてゐるところを、また余外なところへ勝手に樽野を持ち出して――」
「町では表へ出られないと云つて此処に来たのにまた斯んなことを知ると、此処でも他人の顔を怕がり始めるだらうな。」
「俺ならそんなGなんて奴はぶんなぐつてしまふがな。」と林は、唾を吐いた。林は樽野のやうな理由ではなかつたが、両親との不和で学校を止めてしまひ、樽野に何か就職に関して相談するつもりで来たのであつたが云ひ出すまでもなく樽野にそんな能力が無いことが解つたので、漫然と遊び暮してゐた。そのうちには、さつき林が冗談に高言したやうなことが、林でなければ出来ないやうなことが何となく続いてゐた。
彼らは縁端に腰を降して蜜柑をむきながら、そんな馬鹿気た生活の話に沈んでゐた。
「蜜柑畑へ行く径に鶏小屋が出来たね、あれはGが建てたんださうよ。」
「僕は声一つたゝせることなしに鶏を生捕りにする方法を知つてゐるよ。」
樽野は、川向ふの母の居る町に住む筈だつたが母やGの顔を見たり、あそこの倅であるといふことを知られてゐる町の人に顔を見られたりするのが無性に厭で、それのこの村には自分の蜜柑の山があつたのでそれを生活の資にあてゝ暮すつもりだつたのである。もう学資が送れない云々といふ母の手紙を都で読んだ樽野は、そちらで独立せよ! といふ母の言外の意味を知らずに、手紙を見た翌日此処に移つて来たのである。大酒飲みのGが樽野の亡父の持物であり、現在では樽野の意志の代りになるといふ金鎖についた印形を帯に巻いて出歩きポン/\と捺印し回つてゐるので町では自分の名前が何んな風になつてゐるかといふことは樽野は知つてゐたが、村の蜜柑山や野菜畑までにそんな手が延びてゐるとは思はなかつた。樽野は町にあつたものには触れるのも厭な汚れを感じてゐるのでGの行為などに就いては無関心でゐられたが、突然、執達吏! だとか、差押へ! だとか、競売! だとか、さういふ類の言葉を耳にすると、物の失はれるといふ怖れではなしに、たゞ相手の容赦なき殺気だけを感じて、気が遠くなるのであつた。彼は、口論が神経的に嫌ひであつた。同時に彼は、大胆な債務者である自分が斯んなに無知で、気儘な神経を持つてゐるといふ事実に悪と怖れを感じた。うつかり町中などを歩いてゐたら、何時何処から何んな当然な権利を実行する腕が現れて、有無を云はさずひツ捕へられはしないか? ――さう思ふと彼は反つて爽々しい気がしたが、その刹那に浮び出す母達の姿を想像すると無気味な恥と名状し難い怖れに襲はれて眼を伏せずには居られなかつた。自分の留守の間の出来事なら何んな力持の盗賊が入つて家を担ぎ去られても関はなかつたが樽野は、母と子が夫々の行為に対して知らぬ気な顔を保ち、そして子が云ふべき舌を持たない、醜い「理由」を眼にするに堪えなかつた。
彼は眼にしなければ何も彼も済してゐられる質だつた、そして、何んな醜い雰囲気にでも、たゞ此方の態度一つに依つて自己防禦的に真剣になるであらう相手の顔を見るのが厭なだけで、心にもなく愚図々々に妥協してしまふことが多かつた。彼は、成人と成人が利慾の上から夫々唯物的な主張を持つて、反目のまゝ、対坐する光景は想つても冷汗が流れるのであつた。人の物質慾を卑しむといふわけではなく、理由の如何に依らず人と人との Face to face の刹那に生ずる気拙さが怖ろしく、テレ臭かつた。
樽野は、町で出遇ひさうになるとGが狼狽して慌てゝ傍道に反れたりする機会を見ると(Gに限つたことではないが)相手に苦しい共鳴を覚えながら、此方こそ恥で五体が火に化して、居たゝまれなかつた。――彼は、Gの気の弱さや好人物の一面を知つてゐた。彼は、Gこそ俺の母親に欺されてゐるのだ! と思つてゐた。彼の亡父に唾棄されたり、子等に敵視され続けてゐるGこそ、心がらとはいふものゝ飛んだ役廻りを負つたものだ! と思ふことがあつた。「女」といふ哀れを傘にして良人の直接の怒りから逃れ、「母」といふ事実を循にして子等の口を閉し、徒らに子等の胸を「憂鬱症」の翼で覆はうとする母親こそ真にたゞ独りの罪人だと思つた。
「久振りで遇つたね、ハヽヽヽ、えゝ? 何処へ! まあ、いゝでせう、散歩? たつたひとりで――まあ、稀にはつきあつて――」
ぱつたりと樽野がGに出遇ふと、彼は、とても樽野に口を開かせない程の能弁で、恰も電話口に立つて喋舌つてゐる人のやうに独りで愛想が好かつた。Gのは理由があつて何も樽野に特別の気嫌を示すわけではなしに、誰に対しても心から如才のない、そして相当に親切な性質なのである。
「まあ、一杯! 冗談でせう、まあ/\……」
斯んな風にGに誘はれると、或る決意を持つて出かけて来たにも関はらず樽野は、有耶無耶に奇体な平和を感じてしまつて彼と一緒に盃を挙げてしまふのであつた。
「どうかね、東京よりも閑静な田舎の方が勉強をするには具合が好いだらうね……ふゝん、何だか此方へ帰つたら君は血色が大変好くなつたやうだね、ほんとに好い顔色をしてゐる、多少回つてゐるんぢやないのかね。まあ、大いに空気の好いところで精気を養ふんだね、健康第一として――」
「田舎に居ると何となく気分がのうツとしてしまふよ。」などと樽野は、思はず心にもないことを云つてしまふのである。
「それ/\、それが結構なんだよ、君達が、君、浮世のことでコセついたり、金の勘定にかゝり合つたひには己ずと好い作物も出来なくなるといふ事になるだらうし――だ。」
「それは勿論さうだらうね。」
「然し、時には探ぼうといふことも――これまた時に応じて必要とするんだらうね。」
「そんなこと何うだか知らねえよ。」
「蜜柑山の住人が今頃町に現れるなんて、怪しいぞ、つかまへた/\、さあ尋常に白状いたせ。」などとGは“Fool”の身振りをしてふざけ散らしたりした。彼は、以前から酒などの席では必ず賑やかな役目を引きうけてゐた。Gを相手に酒を飲んでゐると大概此方は笑はされてしまふ、女の気嫌の取り方などと来たら実に巧いものだぜ――といふやうなことを樽野の亡父も云つてゐたが、樽野はそんなGは少しも面白くなかつた。だが樽野の母は、自分の眼の前で相手に、賞められたり、無理にでも己れを偉くさせて、高慢な顔をするのが好きだつた。Gは恰も彼女の使用人のやうであつた。彼女は己れの威厳を保つためにはその身の破滅さへも顧慮しなかつた。樽野が母のことを考へて眉を顰めてゐるのも気づかずにGは続けた。
「近いうちに釣りに行つて見ようか、君達皆なを誘つて! 君は嫌ひ? 然しまあ一度はあの気分も味つて見給へな、屹度好きになるよ。第一、君あの辺の景色が素晴しいぜ、山があり、森があり、河原がひろく、昔の道中絵の通りだぜ――蛇籠にでも腰を降して弁当を喰つたりするのは、それあもう甘えぜ。頭が休まるねえ。」
「そんなに好い景色?」
「君は絵もやるんぢやないか。地震の前に君の部屋に掛つてゐる舟の油絵を見て、それが君が描いたといふのを聞いた時には僕は吃驚り仰天したね、実に感心した!」
「今なら、もう少し僕は巧く描ける自信はあるよ。所謂、好い景色といふやつは余り描きたくはないがね。」と樽野は、いつの間にかすつかり応揚な心地に変つてゐた。そして、高慢気な思ひに耽つてゐるらしく上の空に眼を挙げながら静かに盃を執りあげてゐた。
「紀念のために、僕に一枚描いて呉れないかね。」
「直ぐにかい?」
「いや、有りがたう。無理は云はないよ、気分の向いた時に――頼むわ。」
「直ぐに取りかゝつても好いよ。描きたいと目星をつけてある場所が村に一つあるんだよ、これは相当の大作なんだがね。」
「いや、有りがたう、まあ一つゆつくり頼まう――それは兎も角君なんかの仕事は羨しいねえ、世の中の厭なことには眼も触れずに自分の考へだけを究めてゐられるんだからね、幸せだねえ。僕の考へに依ると芸術家の生活といふものは帰着するところ大概ストア流だと思ふが何うでせう? ――フ……!」
「…………」
「僕なんかは酒でも飲む時でなければ笑ふこともありはしない、釣りにでも行く時だけが自分の頭に返つたやうな気がするね。始終斯う頭の中にソロバンがあつて、そいつがどうもひつきりなしにパチパチと動いてゐやあがるんでね。」
「それは大変だね。――僕はもうこれ位ひ酒を飲むととても苦しい。帰るよ。」
「嘘々、一つ歌でも聞かせて貰はうぢやないか、いつか君の家の前を通つたら昼間ツから大変に景気の好い歌が聞えたぜ。さあ/\。」
「それは正ちやん達だらう、彼等はカフエー通の学生だからいろんな歌を知つてゐるらしいが、僕は――」
「ハツハツ! 直ぐに真顔になつて弁解したりしないでも……」
樽野は、Gの帯にからまつてゐる金鎖にピラ/\としてゐる「樽野」の印形を瞥見したが、そしてそれに関して用談があつたのだが今更急に開き直つて、
「それは俺の時計ださうだから返して呉れ。」などと、そんな真面目なことは到底口にすることは出来なかつた。自分のものゝつもりで悠々と畑を荒してゐれば、番人の方で顔を赤くするやうなものだつた。