一
滝は、あまり創作(小説)のことばかり想つてゐるのが重苦しくなつたのでスケツチ箱をさげて散歩に出かけた。――石段を降つて、又ひよろ/\と降つて行く海辺へ近い松林の中途であつた。彼は、風景よりも人通りを気にして小径を出はずれると頭につかえる松の矮林の中へ腰をかゞめて姿を没した。そして、丘の切れ端に来て月見草の間に胡坐をした。遥かの距離だが、灰色に光つてゐる砂地に風にもてあそばれてゐる風呂敷のやうなものが四つも五つも切りに堂々廻りをしてゐるので、何だらうと思つて見あげると低く大輪を描いて舞つてゐる鴎達の影であつた。
暑い二日日の夕方、遠見の海のスケツチ板を仕上げて、だが滝は、たゞボーツとしてぶらぶら帰つて来ると石段の下あたりで彼の行衛を探してゞもゐたらしくうろうろしてゐる細君に出遇つた。
「今来たところなの? 遊びに来たの?」
「鯡鯉をつかまへるのを見に来たのよ、だけど、どうしてもつかまらないんだつて!」
「また……止めた方が好いんだがな。第一あんな泉水へ持つて行つたつて何の見栄えがするわけぢやなし、無惨に鼻を衝くばかりだらうがな――」
「だつて、その為にわざ/\掘つたんぢやないの、小さいけれど割合に深いから大丈夫なんだつて!」
「あれは何処かに土が入用で寄んどころなく掘つた穴だつて話だぜ。――金魚や駄鯉が少しばかり入つてゐるらしいが、あれで丁度好いと思ふがね。」
「だつて此処に置いたつて仕様がないぢやないの、誰かゞ此処に住むんなら未だしもだけれど、すつかり取り払ひになつてやがて此処には何処とかの倉庫が建つんだつて話ぢやないの――それともあなたに何か考へでもあるの?」
「ないね――」と滝は嗤つた。
「ないんなら黙つてゐらつしやいよ、変ね、何でもそこにあるものゝことには妙に冷たさうに――」
「…………」
「こゝも――」と彼女は蜜柑の樹がくれになつてゐるそこの家を見あげながら、何といふこともなしに可笑しさうに云つた。「これでいよ/\近いうちに片づくらしいけれどあなたはつまらないでせう、一文にもならないんぢや!」
「思ひ出は、あまり、無い家だからな、これは――」滝はそんなことを云つた。
「でも、もう、これであなたはさつぱりでせう、いよ/\お終ひね。」
「さうだらうね――」
「鯡鯉が残つたわけか!」と彼女は独語らしく呟いた。「焼けないと思へば此処の家には道具はなんにもないし――それでもあなたいくらかセンチメンタルな気分がしやしないこと、例へば鯉のことなんかに就いてさ。」
「どういふわけか――」と滝は生真面目らしく沈着な態度でうなつた。「何の感じもない、吾ながら不安を覚える程――」
「自分の仕事にだん/\身が入つて来るからでせう、結構だわ。」
「うむ。」
「一ト頃のやうに、此頃はあなたが愚痴を滾さないので――お母さんもそれが何より安心だと云つて悦んでゐたわよ。」
「悦んでゐる!」
「安心させるのは結構だけれど、いくらお母さんの前だつて、どうせ誰もほんたうにしやあしないけれどさ、あんまり空々しいことを云ふのは……どうも恐縮の態だわ、あたし達! なみの空々しさぢやない、大変なケタ外れの夢見たいな途方もないこと……」
「どんなことを云つたか知ら、忘れた! だけど僕は何も嘘は――」
「聴手の心を神妙にさせるやうな言葉は、あなたは知らないのね。いざ他人を慰めるやうなことを云ふ段になると、飛んでもない大きなことを――でもまア好いツてさ、愚痴やふくれ顔よりは!」
別々の家に住んでゐるので遇ふと斯んなに彼女は能弁になるのかしら? それとも何かの皮肉かしら? などと滝は思つた。
「そんなこと如何でも好いのよ。それより勉強は出来て? 随分熱心らしいわね。」
「半分位ひ――」と彼は何の顧慮もなさげに云ひ放つた。――彼は、この頃全くの架空的な物語の構想に没頭してゐた。ペンを執りさへすれば半分も何もない何時からでも一気呵勢に書き綴れると思つてゐた。いや、書くことなどは懸念もしなかつた。どうかするとあまりに放縦な想ひに眩惑されて重苦しくなることさへあつたが、ペンを執つて散文化してしまふことが、丁度他人と言葉を交へる時と同じやうに稚拙な文章が廻りくどかつたりして折角の感興にそぐはなかつた。
「それが済んだらほんたうに旅行に行く?」
「行つても好い。」
「行つても好い――ツて! あなたから先に云ひ出したことぢやないのよ、もう先から。」
「だから行くよ。行きたいんだよ。」
意志と反対にそんな風に言葉のうけ渡しを間違へるのも彼の癖であつた。
「あたしが考へた処で関はないのね、でなければいつもの通り行かないことになつてしまふでせう。」
「まさか、今度は――。考へてお置きよ、何処も僕は知らないんだから何処だつて珍らしくて面白いに違ひない。住むつもりでも好い。」
「住むつもりは重ツ苦しいわね。それはさうと貸家も探さなければならないわね、そのうちに。また東京にする?」
「東京が好いね。」
「お母さんは何時一所になつても関はないと云つてゐるわよ、だけど彼処にあなたが来るとなると書斎がないでせう。」
「書斎がないことは今迄の東京生活で慣れてしまつたけれど。」
そんなことを話し合ひながら彼等が庭へ廻つて来ると、二人の鳶職が向ふ鉢巻の裸体で縁側に腰を降してゐた。二人は汗を拭ひ茶をのみながら如何しても鯉がつかまらないことを嘆じてゐた。赧土色の水を見降して、直ぐに斯う濁つてしまやアがるんでね――などとAが腕をこまねくと、
「駄目だ、すつかりおぢけがついてしまやアがつてもう此方が一ト足入れると、キヤツ等の方で先に暴れて濁してしまふんだもの!」とBが眉をひそめた。
「これぢや、またあさつてにでもならなけれア元通りにあ澄むめえよ。」
「盲滅法にやつつけて見るか、もう一ト息!」
「どうせ斯うなれあ見当も何もあつたもんぢやねえからなあ。」
「手前え(註、一人称也)が、追ひ込みの中へ、ツツぺえちやツたんだから熱アねえや、けつツぺたあ、どうでせ厭ツてえほどひツつりむいちやツたあエ! 水がしみやあがるだんべえなあ?」
「思えの他これあアてえ変な仕事だぜえ、間抜け臭くつて骨を折らせること酷えや、俺ア頭も何もガーンとしちやツたあエ!」
「商売人を呼んで来なけれア駄目らしいな、無闇にフンづかめえれア好いで殺してしまつたひにあ片なしだからなあ!」
Aのは見事な竜が背中一杯に見得を切り物凄い巻雲が両腕の先きまで翼を伸してゐる素晴しいほりものだが、Bのは何故か仕上げまでに至らないうちに中止したものらしく素地の皮膚に般若の面の輪廓だけが八分通り型どられてゐた。滝はいつかBに何故それだけで中止したのかといふ理由を訊ねて見ようかと思つたが、何となく悪い気がして控えてしまつたことなどもあつた。
二人の干高い会話が、素通りをして奥の部屋でスケツチ箱の蓋をあけてゐた滝の耳へ鮮やかに聞えるのであつた。つかまへる! つかまへる! ――そんな彼等の言葉に関心を持たされた彼は何か、さうしたところで魚などをつかまへる専門の商売人があるんだな? などゝ思つた、後になつてそれは金魚屋の意味であつたことに気づいたけれど――。
「それ、描いて来たの?」
「うむ。」
さうすると細君は至極素直な調子で、
「未だ仕上らないんでせう。」と云つた。
滝は、一寸と不自然に眼蓋をしばたゝいたが、努めて独断的に、
「いや、これでもう完成なんだ。」
さう云つて、腕組みをした上体を反らせながら凝つと微かな眼で画面を瞶めてゐた。
「それで?」と彼女は思はず呟いたらしかつた。そして、
「何だか、雪景色みたいだわね。真夏だといふのに――」と難じた。
「…………」
滝は、急に顔色を上気させて、何か口のうちで呟いた。細君は、悪るかつたのかしら? と始めて気附いた。
滝は他人の言葉が気になつたのは近頃珍らしかつた。――彼は、何といふこともなしに歪んだ神経に目醒めたかのやうに、不快な寒さに襲はれてしまつた。己れの眼が、明るみにある梟の眼である! そんな自嘲に陥つた。茫漠たる想ひにばかり酔つてゐる己れの存在が周囲の者の内心に如何な悲しみを与へてゐることだらう――そんな弱々しく尤もらしい屈托などにまで走つた。また、これまで自分が書いて来た現実風の小説も、そして己れが実に浮々と愚かな態度でこの世に処して来たこと――それらが悉く拙劣な間違ひだらけな「雪景色」になつて、すると忽ち怖ろしい吹雪が起り、彼は目を瞑ぢ胸を伏せて、一散に白皚々の曠野に逃げ出さなければ居られなかつた、何にも見えない……。
「あ……」と、うめき声を発する間もなく、見る間に牡丹の花弁程の大輪の罪深い雪屑がこんこんと五体を埋めてしまふのであつた。
「どうしたの?」
「…………」
「え?」
「おこつたんぢやないよ。――どうも田舎も好いが夕暮時は寂しくつて仕様がない! 厭に蒸暑いなア、あれでも手伝つて見ようかしら――」彼は、事更に苦笑した。
「お止しなさいよ、――変だわ。」
「ヤツ、脚にぶつかりアがつた!」
「おゝツ! 深え/\。」
薄暮の泥水の中で二人の倶利加羅紋々が狂気の如く打ち騒いでゐる光景が、滝の眼に不気味に映じた。