一
「マリヤの僕カアル」と呼ばれていたアルトの子カアルは、青い五月のある夜、心にかなしみを持って海のほとりを歩いていた。
それは彼がイオナの島を離れてからまだ間もない時であった。聖コラムはこの青年をアラン島に送るにつけて聖モリイシャに手紙を書いて頼んでやった。聖モリイシャはアランの南端の東むきのくぼみにある小さなピイク島の岸の岩窟に住んでいる聖者であった。カアルの為には西のうつくしい島を離れることは悲しかった。はるかに遠い北の島国で父がロックリンの人の手に殺され、母が狂暴な金髪の男たちの漕いで来た櫓船に奪い去られてから後は、この島に来て彼は楽しい月日も知ったのであった。彼のただ一人のみよりは父の兄弟にあたる老僧のみであった。
イオナの島で彼はキリストの道を教えられ、白衣を着る身となった、そして、削がれた樹の枝や海豹の毛のほそい束や野鴨や鵞鳥の羽じくを以て仔羊の皮や巻物に聖い御言葉をかくことも出来、御言葉のなかに散らばる大きい文字をば、土の褐色にも空の青色にも輝く緑色にも、血しおの紅色にも、陽のあたたかい海の砂の金色にもいろどることが出来た。彼はまたながい聖歌をうたうことが出来た。コラムはそれをきくことを好んでいた、イオナの島でいちばん美しくひびく声はカアルの声であった。ちょうど彼が十九のとし、フランクのある王子が聖者コラムの祝福をうけにイオナに来た時、王子は彼を南の国につれ帰ろうとした。彼のその声のために王子はいろいろの約束をしたのであった。その時以来、ねむたい暑い午後など、いつもカアルが夢に見るのは、たやすく人を殺し得るながいしろい剣、うつくしい服を買うことのできる白くひかる貨幣、金の飾りで身をかざった大きな黒い馬、鳥の羽毛の寝床、そして白い手と白い胸と、青春の日の歌とであった。
カアルはフランクの王子と一緒には行かなかった。しかし、その後、彼はたびたび夢を見るようになった。
そういう夢の日の或る日彼は僧房にちかい砂丘の暑い草の上に背をのせて横たわっていた。陽の照りで島は金いろの靄に浴していた。海峡は眼もまぶしくきらきらして、やわらかい白砂に曲線をなした青い小波は金の火花を散らすかと見れば、又すぐに水泡の小さい珠にくだけたり虹のしぶきの泡と変ったりした。カアルは自分の歓びを歌に作った。その歌を作ってしまうと、心のなやみがすこし慰められた。いま、彼は横になって、フランクの王子の言った言葉を思い出したり、または異教徒のとし老いた奴隷ニイスの不思議な言葉を思い出しながら、歌をうたった。
あわれ、北のいずこに、南のいずこに、ひがし西のいずこに
しろき花の手と白鳥の胸毛のむね持てる彼女はすむや
もし彼女西にあらば、もし彼女ひがしにあらば、あるいは北か南にあらば
剣は跳び、馬は躍るべし、われその甘き口の人に到るために
彼女は山の上の牝鹿のごとき大なる目を持つ、彼女はあたたかく優し
ああ、甘き口のひとよ、我に来よ、かがみて我にくちつけせよ、甘き口のひと
彼女の名は「しろき手」と名づけられ、うつくしき王侯たちをすべ治む
しろき手は波をくぐる白鳥のごとく黒き波たつ髪の中にうごく
しろき手はわが胸を抱え、しろき手はわが息をあおぎ立たしむ
しろき手よ我よりわが心を取りさりて、われに与えよ、生か死を
しろき手は聖歌よりもなお美しき歌をつくる、しろき手はわかくなつかし
ああわれに剣を与えよ、あまき口のひと、われに脚とき馬をあたえよ
狂おしくなつかしき眼、うれしく狂おしき眼、ああ口よ、そのなつかしさ
我に来よ、あまき口のひと、われにかがみて、くちつけせよ
うたい終った時に彼は砂丘の向うのしろい砂に人影の落ちるのを見た。眼をあげて、彼は聖者コラムを見た。
「たれがお前にその歌を教えた」しろき聖者は烈しいきびしい声でたずねた。
「たれも教えたのではありません」
「それなら、悪魔がここに来ていたのだろう、カアルよ、私はお前にもうじきに聖い名を与える約束をしたが、これでは、やることは出来ぬ。お前は麻の衣を着、頭に塵をのせ、身に痛みを与え、心に深い悲しみを持って、私のもとに来なければならぬ。そうもしたらば、私は兄弟たちの前でお前を祝福し、マリヤの僕カアルという名をお前にあたえよう」
わかわかしい血の中に火を持っているカアルがその血に霜を加え、心のなかに湧きでる歌を黙させて待っていることは、にがい悲しい時であった。それでもその週の終りにはカアルは再び聖い僧となってコラムが教えてくれた聖歌をうたうことになった。
コラムが兄弟たちの前で彼を祝福し、マリヤの僕という名を与えたその日の夕がた、彼は女の悪と女が与える呪いを考えながら、まだ何の意味か自分の知らないその罪から救われるように聖母に祈りながら、一人で歩いていた。彼は自分の部屋に戻って来る路で年とった奴隷のニイスとすれ違った。ニイスは嘲けるように言った。
「アルトの子カアルよ、お前が悲しむのもよい――しかし、もし殺されたお前の父親がお前の母親だったホオムにあの熱い愛を持たなかったら、お前というものがここに生きていてお前の神を讃美することも出来なかろうし、あのドルイドのかしらが神の母だと言ってきかせるその女に仕えることも出来なかったのだ」
カアルは老人をだまらせた、黙らなければ思い知らせると言って。しかし老人の言葉が彼の心をなやました。その夜目がさめた時に、彼の脣は罪ふかい自分自身の言葉をくり返していた。
しろき手は聖歌よりもなお美しき歌をつくる、しろき手はわかくなつかし
ああわれに剣をあたえよ、あまき口のひと、われにあし疾き馬を与えよ
翌朝カアルはコラムの許に行き、悪魔が自分に平和を与えなかったことを話した。その夜、聖者は彼にアラン島にゆく仕度をするように命じた――その頃ピクト人が白衣のキリスト僧等に迫害を加えなかったのはアラン島だけであった。ピイクの小島の浜の岩窟に住んでいた聖者モリイシャの許にカアルは行くのであった。ピイクはその頃すでにモリイシャの教と奇蹟のために聖島と人によばれるようになっていた。
コラムは思案した「モリイシャは賢い人である、曾ては異教の外国人で、その人々の中では王侯の一人でもあったのだから、罪のあまさもよく知っていて、カアルをあぶない罠から救ってくれるだろう。断食をしながら、ひるは多くの危難を通り夜は疲れを忍んでいるうちには、青年の血はその心に悪魔が教えてくれた歌をわすれて聖い御歌をうたうようになるだろう。マリヤの僕カアルがまだ青年でいながら聖者になることが出来れば大なる光栄である、彼は昼も夜も、夜も昼も、自分の肉体をくるしめる殉教者として生きて、やがてはその信仰のために異教徒に殺されるであろう」
そういうわけで、カアルはコラムに祝福されて東方の野蛮なピクト人の中に送られたのであった。
カアルは歓びを以てモリイシャに仕えた。四ヶ月のあいだにモリイシャは自分の知っている限りを彼に教えてやった。そこで老聖者はコラムに言ってやった、カアルはもうすでに聖者になって、殉教者の栄冠は確かなことであるということと、それから北の方の大きな島国の、女王スカァアの支配するミスト島へ青年をやったらばよいだろうということも親切にすすめたのであった。ミスト島の異教徒は去年の夏の船が往った時一人の僧を生きながら皮を剥いで殺したのだった。立派な幸福な最期である、カアルは今そういう最期に値した――そして、あるいは勝利を得て、ひょっとすると、あの異教徒の女王をも改宗させることが出来るかも知れない、モリイシャはそれにつけ加えた「女王は眼もまどうばかり美しく、カアルも眉目よき青年であるから」と。
しかしコラムは、わかい僧が現在のままでいて、十字架がまだ怖がられている異教のアラン島で霊魂を救うように努力するがよいと、返事してよこした。
さて五月と黄金の天気が来た時にカアルの血がまた熱して来た。時には、フランクの王子とその人の罪深いあまい言葉をさえ彼はゆめみることがあった。
そのうちにある日が来た。その日、モリイシャとカアルはピクト人の酋長が住んでいる山の砦に行って、酋長及び砦じゅうの人たちと砦のそとの部落じゅうの人たちまでもすっかり改宗させてしまった。
その夕がた、カアルが部落そとのみどりの松のなかの寂しい路を歩いていると、酋長の女と行き会った。女は実にうつくしかった、背がたかく色白く、雲のない真ひるの海のような眼をして、髪は西になびいた麦がまた吹き返されたようであった。
「とし若いドルイドよ、あなたの名前は何といいます? わたしはエクタの女、アルダナといいます」女が言った。
「アルダナよ、あなたの美しさは見る目に快い。わたしは、海の島国から来たアルペンの族、アイの子孫アルトの子カアルというもの、ドルイドではありません。神のおん母マリヤと神の御子のしもべ、キリストを伝えるものです」
アルダナは彼を見つめた。カアルの顔に色がさした。彼の眼にはフランクの王子がこの世の歓びの話をきかした時その眼にかがやいたのと同じ光があった。
「おおカアルよ、本当の事でしょうか、ドルイドたちは――キリストと二人の神たちの僕、わたしたちがクルディと呼んでいるあの白い衣の人達は、あなたもその一人と見ますが、あの人たちは女とすこしの交渉もないということは」
カアルはもう女を見なかった、ただ自分の足もとの地を見ていた。
「それは本当です、アルダナ」
女は笑った。ひくい優しい、馬鹿にするような笑いであったが、その笑い声はカアルの血の中を走った。空を焔の雲が走るように。まだ彼の見なかった何ものかを現わされたような気がしたのであった。
「あなたがた聖い人たちは女を斜に見て、悪や危難の罠として見るということも、本当の事でしょうか」
「本当のことです。しかしキリストの姉妹となって天にのみ眼を向けている人たちを、そうは思いません」
「あなたの神の姉妹でない女たち、見るに美しく、恋するによく、愛するによい、ただの女たちはどうでしょう」
カアルはまた顔をあかくした。眼はまだ地を見つめたままで、彼は返事をしなかった。
アルダナは低く笑った。
「カアル」
「何ですか、エクタの美しいむすめ」
「あなたはまだ愛したいと思ったことはありませんか」
「童貞の誓いをしたわたしたちの為には、ただ一つの愛のほかに愛はありません」
「童貞とは、何のこと」
カアルは眼をあげてアルダナを見た。彼女の口もとには微笑が見えていたが、濃い青い眼は清くやさしく彼を見つめていた。カアルは溜息した。
「それは、肉体の清さをいいます、アルダナ」
「わたしには解らない」彼女は単純にそう言った。
「それにしても聞かせて下さい、あわれなカアル……」
「なぜ、わたしをあわれなカアルと言うのですか」
「なぜと言って、あなたが、そんなに若い、強い、美しいあなたが、自分の男性を捨てているから。あなたは勇士でもなく、剣も、猟も、琴も、女も、好きでないから」
カアルは惑った。彼はいくたびもアルダナを見た。入日のひかりが金髪の中に光って、彼女のまわりに栄光のように輝いていた。彼はこの人のうつくしい顔のように不思議なほど青じろい月を見たことがあると思った。しろい手は百合の花のようだった。眼のなかの火焔の光は彼が曾てゆめみたことのある光であった。
「わたしは、好きです」彼が言った。
アルダナは少し近く寄って、やや前に屈んで彼を見た。
「あなたは綺麗な人です、カアル――まだわたしが見たことのないほど綺麗な人です」
聖僧は頬を赤くした。これこそはコラムが曾て注意してくれた魔の言葉であるのだろう。だが何という甘い言葉、ひくい声は琴の音のようだった。まことに、めさめて見る夢は、眠っていて見る夢よりは、はるかに楽しいものである。
「わたしは、好きです」彼は弱々しく繰返した。
「カアル」
カアルは徐かに眼をあげた。その眼が上の方に進んで白い胸の上に留まった、胸は黄ばんだ海草の中から浮き出している海の水泡のように白かった。彼女は白い衣の上に鞣された仔鹿の皮帯を金の釦金でしめていた、衣はひろがって暖かい風が胸を吹くのにまかせていた。
それがカアルの心をなやました。彼は再び眼をおとした、くれないが顔にのぼった。
「カアル」
「アルダナ」
「あなたは女の口にあなたの接吻を与えようとは思いませんか、あなたの胸を女の胸の上に置きたいとは思いませんか、あなたは冷たい海の水から生れた人ですか――小川を流れる水でさえ陽には温められるものです。カアル、きかして下さい、あなたは僧モリイシャから離れますか――もし――」
キリストの僕は急に女に向いて眼をかがやかした。
「もし、どうすれば、アルダナ」彼はいそいで訊いた「もし、どうすればというのです、美しいアルダナ」
「もし、わたしがあなたを愛したらば、カアル? もし、酋長エクタの女のわたしがあなたを愛して、あなたをわたしの男にし、あなたがわたしをあなたの女にしたらば、あなたは、それで満足しますか」
彼は夢みている人のように女を見た。その時コラムから押しかぶせられていた凡てのおろかしい狂熱が不意に彼から離れおちた。あんな老人たち、コラムやモリイシャが、何を知っているものか、生命のまことの意味を知るものはただ若い人たちばかりだ。かれらはもう老いている、彼等の血は凍っている。
彼は祈りの時のように両手をあげた。それから笑った。アルダナは彼の眼の中の光を見た、その光はアルダナの心に飛び入って歌をうたい、耳の中に鳴りひびき、眼を眩ました。彼女は自分の身が非常に高いところから落ちたように感じた、まだ落ちつつあるように感じた。
カアルはもう蒼くはなかった。赤い焔が双方の頬に燃えた。彼のうしろにある入日の光が彼の髪を火でそめた。眼は篝火のようだった。
「カアル」
「さあ、アルダナ」
それで十分だった。もう何を言う必要がある、彼女はカアルの腕の中にいた、彼女の心臓が彼の心臓にぴったり当って動悸していた、ちょうど係蹄に陥ちた狼のようにカアルの体内に躍っている心臓に。
カアルは身を屈めて彼女に接吻した。彼女が眼をあげると、カアルの頭がふらふらした。彼女が接吻した、彼も接吻したが、彼女は低い声を出して和らかに彼を押しのけた。カアルは笑った。
「何を笑うのですカアル」
「わたしが? 今はわたしが笑う。あの老人たちがわたしを惑わしていたのだ。もうマリヤの僕カアルではない、アルトの子カアルだ、そうではない、アルダナの僕カアルだ」
そう言って彼はそばにあったななかまどの枝を折りとって、その葉をむしって、北に、南に、東に、西に、投げた。
「なぜそんな事をします、うつくしいカアル」
アルダナは愛の眼を以って彼を見ながら訊いた、彼女はちょうど夏の日の朝のようだった、髪のなかの日のひかりと、野ばらのような顔の色と、山の湖のように青い眼と。
「これはコラムが教えてくれたすっかりの聖歌です、みんな返してしまう。わたしはもうちっとも覚えていない。どれもみんな、つまらない馬鹿げた唄だった」
カアルはその枝を折って地に投げすてて踏みにじった。
「なぜそんな事をします、うつくしいカアル」アルダナが訊いた。彼女の呼ぶような眼で彼を不思議そうに見ながら。
「これはコラムが教えてくれたすっかりの智慧の枝です。奴隷の老人ニイスはかしこかった。あんなものは、みんな狂気です。ごらんなさい、もう、みんなありません、わたしの足で踏んでしまった。今わたしは男になった」
「それでも、カアル、おおカアル、日もあろうに、きょうという今日、わたしの父エクタはキリストの教の人となりました、父も父の一家も。今からは、父は何もかもモリイシャの言葉どおりにするでしょう。そしてモリイシャはきっとあなたの死を求めるでしょう」
「死はひとつの夢です」
そう言ってカアルは前に屈んでアルダナの脣を二度吸った「一つは、生のため、もう一つは、死のための接吻」
アルダナは低くわらった。「聖僧も接吻することが出来る、聖僧は、愛することができますか」彼女はささやいた。
カアルは彼女を抱いて、二人はうす暗い黒いみどりの中にはいって行った。
月は、森の樹々のたゆたう波の上に絶間なく黄ろい焔を散らす青金の火の円のすがたして、徐かに昇った。星がひとつひとつ現われた。ふかい静寂が森にあった、ただ蚊吸鳥が松の枝からひくく身をのり出して侶をよぶあやしい物あわれな声がした、ともの鳥はその声に胸をふくらませて、露ふかい蔭に飛び隠れることを考えた。
風は静かだった。一点の影もない息もない動きもない樹頭の原の上を星のしろいひかりがさまよっていた。
「あの音は何」カアルの腕に寝て、くらがりの中にほの黒いかたちに見えたアルダナが訊いた。
「わたしは知らない」青年が答えた、血管のなかの熱した血が彼の耳をまぎらせる唄をうたっていたから。
「聴いて」
カアルは聴いた。なんにもきこえなかった。彼の眼はまたも静寂のなかを見つつ夢みていた。
「あの音はなに」彼女はもう一度かれの胸にささやいた「海からでもない、森からでもない」
「天のうめき声でしょう」
カアルは疲れたように返事した。