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異版 浅草灯籠
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異版 浅草灯籠
正岡容
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Original Public Domain
Chapter 5 of 5

吉原大火前後

私が漸く五歳か六歳のころであつたらう、下婢の背に負はれて大叔母と共に唯一ど吉原の夜桜並びに花魁帳見世の見物に赴いたことがある。夜桜がゆめのやうに白く咲き、往来の人々が影絵のやう格子先へ群り、格子の中の小白い遊女の顔と絢やかなる裲襠の姿とが、煌々たる燈火の下に世にも美しく浮きだしてゐた。私はその夜下婢に負はれてわが家をでかけるとき、花魁を籠に入れて買つて来るのだと云つて大そう家人を笑はせた由であるから、恐らくは祖母か大叔母かが花魁は籠の鳥さ云々とでも洩らした言葉を小耳に挟んで、このやうなことを云ひだしたものであつたにちがひない。

吉原の大火は明治四十四年四月九日と記憶してゐるが、木村富子女史が「浅草富士」はその折の大火災の顛末を「半襟火事」と題して、具さに記録されてゐる。江戸町二丁目某楼の遊女が揮発油で拭ふてゐた半襟へ、火鉢の火の燃移つたのが原因ゆゑ、半襟火事とは呼ばれるさうな。私は今日、張見世の景色よりもやゝ明瞭にその日のことの方を記憶してゐるが、大南風の吹荒ぶ午前十一時ごろ、花川戸の私の家の近所では、只今吉原が火事であると云つて俄に騒ぎだした。家人と共に直ちに表二階へ上がつて北向の窓を開けて見ると、正面の浅草学校の校舎の裏手に一とすぢ焦茶いろの煙りが横にながれてゐた。この火事の煙りは午後になるに従つて次第に大きく太く燃えひろがり、燈刻ちかくなるにつれ次第に町内一帯までが物情騒然としだして来た。夜に入つて再び二階へ上がつて見ると怖しい火勢は最早浅草学校の長い黒い建物の背後を一めん唐紅に塗潰してしまつてゐて、その火影を浴びて瓦屋根に生えてゐるぺん/\草の二、三本の赤く黒く揺いでゐるのが、はつきりと見えた。もうそのころには本郷からも根岸からも神田からも、遠方の親威の人々が続々と見舞に詰めかけて来てゐた。さうしてその夜遅くまで私の家の天井で大そう鼠の騒ぐ物音を聞いて、見舞客の中のひとりは、

「みんな火事場の鼠が逃げて来るのです、ですからこゝまで燃えて来る気づかひは決してございません」

かう云つて逃仕度をするがことはないことを切りに力説した。

私がはじめて吉原の遊里に遊んだのは、十九歳の晩秋であつたらう。このときのことは、先年「抱一俳句鑑賞」を某誌へ連載したとき、些か言及しておいた。

けなしながらも吉原の宵

吉原に見返り柳丈けの江戸

阪井久良伎翁の大正中世の製作にこの川柳二句があるごとくに、未だ/\大震災までの吉原には多少の陰影と情緒とがのこつてゐた。私が屡々遊んだ中見世は角町の金中米と云ふ妓楼であつたが、中庭に面した洗面所で敵娼に付添はれて、遊客が金物の嗽茶碗で口を滌いでゐる景色などは宛然柳浪が「今戸心中」もしくは盲小せんが「とんちき」中の情景であつた。お茶を引いた花魁が私刑として終夜廊下に坐らされたことや、両側の店の牛太郎は互ひに道の中央以上に進みいでて遊客を拉することができないやうに掟されてあつたことや、さうしたいまは亡びつくした明治年代の廓の習ひを私に談つて聞かせて呉れたのは、羅生門河岸に等しい小見世の、しかしその割合には人相の悪くない遣手婆さんであつた。彼女も亦往時お茶を引いて一夜を廊下に涼まされた妓女のひとりの成れの果てであつたかもしれない。さるにても前述の小せんが「とんちき」と「白銅」とは、秀抜なその廓噺の中でも就中大正の吉原情調遺憾なく横溢した名篇であると云へよう。

近世吉原の真景を描破してゐる小説として、私は師、吉井勇が「雀大尽」(「墨水十二夜」中)、田村西男氏が「電話」(「芸者」中)、村松梢風氏が「北里夜話三題」(「梢風情話集」中)の三作を挙げ度い。いづれも明治末年の吉原風俗であるが、「たけくらべ」「今戸心中」「註文帖」以後の年代を写した北里文学の秀粋としていい。「雀大尽」は初秋の午前の廓内及び宵の口、中引け、大引けと刻々の仲之丁の情景を活写して余さず、「電話」は婉麗な吉原芸者が禍を転じて福とする好短篇で師走の吉原の点景が妙、「北里夜話三題」中の医者の代診とのみ信じてその客を頼りとしてゐた遊女が、一夜、廓を抜けてその下宿先へ逃げて行くと、いづくんぞ図らん、男は千金丹売の行商人に過ぎなかつたと云ふ話に至つては、同氏が数多い作品中の秀粋とし度い。吉原の年中行事や推移を叙した随筆には、富子女史のほかには、久保田万太郎、増田龍雨、高篤三の三家が数へられよう。高篤三が北廓に材した随筆中、午の日の縁日に植木市を素見して歩く花魁が偶々鉢植の梨の木に梨の実の熟れてゐるのを見て朋輩を省み、「おやありのみの木だねえ」と云ふ小篇は殊に可憐である。昭和戦前の吉原街上を写しては永井先生の「おもかげ」であるが、先生の御作中に「東綺譚」のごとく現代吉原の遊女の生活を記録される一作なきは今日太だ遺憾である。しかし先生には別に明治往年を懐旧された「里の今昔」、昭和戦前の深夜オペラ館の踊子を拉して廓内の小料理屋に一酌、老幇間と邂逅された顛末を叙された「草紅葉」の二随筆があつて、共に掬す可き殊玉篇である。吉原大火の火災が遠く巣鴨の辺僻から望見されたと云ふ小説も野上臼川氏の旧作中にあつたが、同じころの吉原大洪水の風景は北原白秋が『雪と花火』に「CHONKINA」と題した絶誦があるからその一半を紹介して見よう。

(前略)

「華魁、ちよいと、御覧なさいな、

久し振で裏門が開いたと思つたら、

大変ですわねえ、あれ、あんなに水が、

随分しどい音だこと、

堤をもう越したんですとさ。

龍泉寺、山谷、今戸のわたし、

そりやもう大変な騒よ、

おやおや、まあ、素つ裸で、

揚屋町の通を伝馬担いで奔るなんて

銀ちやん、威勢がいいことねえ。」

“Chon-aiko ! Chon-aiko ! ………”

(中略)

格子戸越しに、赤い日が

高い屋並の不思議な廂にてりかへし、

洪水の音がきこえる。

欄干では何時までも何時までも

気まぐれな狐拳。(下略)

戦後吉原花街の変貌は、どうやら牛太郎が廃され、一夜千金の花魁が横行してゐるらしいが、東京に生育した小説家の責務として私はせめてその外観丈けでも一見しておかうとおもひながら、多忙未だに果してゐない。でも現代末世の吉原図絵は最早慌しい生活裡にある作家諸君の感興を特別に誘引するやうなものはないのであらうか。「性を超越した美」のあつた既往吉原、浮世絵歌舞伎声曲等徳川文化一切の発祥地たりし過去吉原の最大讃美者であつた亡き久良伎翁にも、吁昭和改元以降の吉原情緒称揚の川柳はなくて曰く、

東京名墓顕彰会席上講演即興

吉原も序に墓の部に入れる

(昭和丁亥文月改稿)

●図書カード

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