Chapter 1 of 4

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艶色落語講談鑑賞

正岡容

売色ところどころ

岡場所の歌

戦火に遭うまで大塚の花街に、私たちはいた。先だって輪禍で死んだ三遊亭歌笑の家のすぐそばにあたろう。

その頃女房が教えていた新舞踊のお弟子はたいてい若い妓ばかりだったが、その中の一人が一日やってきて、

「先生、キミサリンって踊りを教えてください」

「キミサリン? そんな風邪薬みたいな踊り知らないわねぇ」

言いつついろいろ考えた末、やっとわかって彼女、思わずふきだした。

その踊りは、歌謡曲に取材したもので、すなわち、君去りぬ。

同じ頃、拙作「花の富籤」を古川緑波君が上演、その前祝いを土地の待合で催したことがあったが、もうそろそろ酒が乏しく、サイレンが時々鳴き出す頃で、昭和十七年おぼろ夜、緑波君と脚色者の斎藤豊吉君と桂文楽、林家正蔵(当時は馬楽)両君と私たち夫婦で、女房の門下生の若い妓がズラリ十何人並んで何とこの勘定が七十余円、思えばゆめです。

そういえば、永らく病臥していた柳家権太楼が、かつては文楽座で名人越路太夫の門人だったとやらで義太夫が自慢、一夜お客と大塚へ来て酔余、義太夫を語ったら、侍った芸者がじつによく弾く。

そこで今度は権太楼浪曲を唸ったら、老妓またこれをおよそ達者に弾きまくる。

少なからずテレて彼、その老妓の正体を洗ってみたら、いずくんぞ知らんや、浪曲界の奇才と謳われた先代浪華軒〆友の未亡人で、かつて女義太夫のベテラン。

それじゃあ、浪曲も義太夫も巧いのが当たり前、権太楼先生ギャフンとまいった。

〆友未亡人、小でっぷりした赤ら顔の人だったが、終戦後も健在だろうか。

あの頃より国電の土手沿いまで大塚花街は発展したと聞くけれど、かの未亡人を思うにつけ坊野寿山子が川柳の巧さよ。

義太夫の芸者のような太りかた

ついでに今少しく寿山子の花柳吟をあげようか。アプレゲールの花街風俗詩が、手に取るように書けている。

天井がない待合で二百円

上海のやうな値段で芸者買

どの花街も哀れやいつ建つ草の波

行く前に三百円は小料理屋

見番の骨ばかり出来あかざ草

下肥の匂ひこれが東京柳橋

おごりなら泊るあしたは外食券

入口は喫茶、小待合は奥

三味線は郊外できくものになり

帰りがコワイと三人で向島

水神は目ざせど電車でさとごころ

米の値にふれて遊びの枕許

氷屋の配達に似た客二人

カストリが青大将のような匂いでハバを利かせ(残念ながら私も飲んだが)、停電が続き、は境い期にお米でビクビクしていた昭和二十一、二年の花街があまりにも如実ではないか。

ありがたいかな、これも今は夢。

今住んでいる市川では、土地の芸者衆はお弟子にしていないが、一番の美人はスラリと痩せ型の細おもて、上背のある千代菊の由。浅草から移ってきた某という、薄手細おもての人も婉である。

幇間では東川喜久八が洗錬されていて、十八番は江戸前の獅子。市川音頭も彼の作詩で例年夏の夜を、江戸川花火、七彩の光を浴びては妓たちが踊る。

この喜久八の実弟が、時蔵門下の中村梅花であると、この頃本人の口から聞かされた。

東京パレス紀行

昭和二十六年陽春の小寒い夕まぐれ、宮尾しげを画伯、俳人S氏、温泉協会のA氏と四人で私は小岩二枚橋の東京パレス見学に出かけた。

パレスの支配人原元治郎さんが、講談落語の愛好家で、桃川如燕、桂三木助、五代目小さん君らみなひと方ならない贔屓になり、その社会にたずさわる私もまた自然と御懇意を願うようになったその余恵である。

もっともそうしたつながりから、すでに昨年十月二十一日の創立五周年記念ダンサー大運動会にも、私は招待されて列席の光栄を有したが、その時は運動会だけで妖艶な夜の雰囲気には接しないで帰った。

戦後のこの種の色町といえば、これも昨年の暮春、わずかに吉原のおいらん道中を街上に仰いだだけで、春情鳩の街も知らなければ、立石や亀有の灯を慕ったこともない。だから、今の私には、「特飲街の探訪」と聞くだけで、なにか淡い旅愁のようなものをさえしみじみ感じさせられる。

「東京パレス紀行」と題した所以である。

しかし、その時の運動会も、じつは私には愉しかった。江戸川区長の祝詞があってまず私を驚かせ、次いで専属バンドのジンタ調の「君が代」が演奏されて、いよいよ私は驚かずにはいられなかった。

昔、吉原遊廓で何かの祝典の時、日本陸軍進撃の活人形ができ、傍らの棒杭に「大日本遊廓」と大書きされてあったというナンセンスが斎藤緑雨の随筆にあるが、この日の区長や君が代なども、おおよそ私の想像してきた色町の親睦会とは違いすぎる空気のものだからだった。

当日の競技種目は二十五種で、文字どおり生きた鰌を掴んで走るどぜうつかみ、相合傘で走るアベック競走、男を沢市に見立てて目隠しをさせ手を引いて走る壺坂競走、大きな紅白の張子の達磨を冠ってリレーになるだるま競走、路上の大根や人参を買い物籠へ拾い入れて駆け出す買い物競争など、ことにおもしろかった。

アベックや壺坂に出た男の人はみな原さんたちパレスの役員で、「買い物競争」には場内の電蓄から笠置シヅ子の「買物ブギ」のおっさんおっさんこれなんぼ――の唄が軽快に流れてきたのも、時にとっての一興だった。

風立ってきた曇り日の運動場の一角、招待席の天幕の下で私たちはビールを煽り、ウイスキーを呑んで、寒さを忘れつつ喝采を送った。

しかし、百四十人いるというここのダンサーの、競技に参加した人たちは概して不美人が多く、美人ダンサーたちはせいぜい一ゲームくらいつきあうか、終始、見物側へ廻っているものが多かった。

中で、たった一度だけアベック競走へ参加した面長のダンサーが、美しく私の印象に残った。色は白い方ではなかったが、やさしい品のいい夢見るような眸の色が、渡米した女優の三浦光子を思わせた。

美しさいまだ目にのこる夜長かな

会の翌日、私は原さんへこんな彼女をたたえた拙吟を礼状の終わりへ書いて送ったが、いったいどの女なのだか、原氏にも全然見当はつかないらしかった。

……暗い灯の下で和装洋装とりどりに踊っているダンスホールへ、やがて私たちは案内されたが、ここにも「目にのこる」人の姿はなかった。正面一段高い舞台で演奏しているバンドは、運動会に「君が代」を演って私を驚かせた楽団だろう。

場内の壁に何カ所も、

「リズム・チークジルバー

右 固くお断り申し上げます」

と貼り紙がされている。いずれもアプレゲールのえげつないダンスゆえ、遊里のホールたるここでは、せめてエチケットとしてダンスだけは上品なものばかりを踊ってほしいのだと原さんが言った。ホールは毎晩八時限りで、それ以上やっていると、ダンス以外の遊客に支障を生じるからだともまたさらに原さんはつけ加えた。

いくつかの曲が終わって、場内が急に明るくなり、ダンサーたちは花の散るように四散していった。終了時刻の午後八時がきたのである。

「先生の好きだとおっしゃる女性は見つかりませんか」

童顔のA氏が、その時訊ねた。

「見つかりません」

私は言った。

「じゃあ、もうひかされちゃったんですよ」

童顔をほころばせてA氏は大きく笑った。S氏もともに笑った。私も笑った。

その笑い声をよそに宮尾画伯一人、熱心にスケッチブックへ鉛筆を走らせている。

精工舎の寮をそのままつかっている東京パレスの五棟は、昼は元より、夜目にも殺風景でないとはいえないが、一歩、場内へ入るがいなや、階上階下の片側に打ち続く小奇麗な茶房。

たいてい一軒に三人ずつのダンサーがいて、茶房正面のカーテンの彼方は、これまた、小奇麗な四畳半が三間ずつ、よくもこんなに器用に心憎くも設計されたものかな。しかも、昔の岡場所のような隣との間の境界が決してお寒いものでなく、薄桃色の照明、黒白の壁、その壁へシークに貼られた洋画女優のブロマイド、同じく壁にかけられている目の醒めるような派手なドレス――朱塗りの鳥籠に青い鸚鵡が一羽いても、決して不調和ではない、幻想的なルームである。

「荷風好みだなあ」

見るなりA氏が感嘆の声を放った。

「荷風先生も浅草へお通いになる以前は、三日にあげず買い物籠を提げては昼間おみえになりましたよ」

原さんが言った。

私は、この部屋の異国風な華やかさに、中国の遊里へ漂流の日本人が遊びに行く「唐茶屋」という落語の景色を思い出していた。

屋内に茶房が軒を並べ、その後に気の利いた寝間までできている点は、三代目小さんの十八番「二階ぞめき」の風景にもまた似ていると思って、一人微笑んだ。「二階ぞめき」は毎晩吉原をぞめいて歩かないと眠れないという息子が、自分の家の二階へ遊女屋のセットをこしらえてもらい、そこを投ケ節を歌いながら上機嫌でほっつき歩くという花街落語中の名作である。

それにしても、階下の建物と建物に添ったところには、寿司、中華料理、しるこ、焼鳥、焼そば、焼芋の紅提灯が次々と点されている、射的場、化粧品店、輪タク、自転車預り所、美容院、さては深更まで営業している理髪店まであるに至っては、私のようなそそっかしいものは、うっかり飛び込んだらとんだ八幡の藪不知、出口も入り口もわからなくなってしまうかもしれない。

荷風先生といえば先生は戦前の玉の井を、しばしば「迷宮」の名称で呼ばれていたが、ほんとうにあの町もわかりにくいおぼえにくい一郭だった。一日、私のめぐりあった女は、三十近いつつましやかに美しい東京生まれの世帯くずしで、一応の文字もあり、寂しい野辺の花に似た感じが忘れられなくて再び訪れたが、たしかにこことおぼしい横丁を曲がったのにその家の前に出ず、とうとうそれっきりわからずじまいになってしまったことがあった。事変以前の二月はじめで、その翌日遊んだ箱根の温泉で立春を迎えたためだろう、たった一度でわからなくなってしまった人の思い出には、白梅の花に似た早春の匂いが色濃い。

玉の井の、それも女の美醜までかき添えた明細地図をこしらえたのは、同じく荷風先生によると死んだ神代種亮翁だった由であるが、わが東京パレスにもそろそろ昔の吉原細見のよう、写真入りでダンサー一覧の年鑑を売り出す必要がありはしまいか。そうしたら、私のいわゆる「目にのこる」人の行方もすぐわかることだろうに。呵々。

吉原、新宿、鳩の街に続く第四位の色里と原さんは、東京パレスのことを私たちに語られ、ただ吉原、新宿には古遊廓系統の封建さがやや残り、鳩の町(旧玉の井系)とパレス(旧亀戸系)には私娼地系統の自由さが感じられるともさらに語られたが、それはたしかにそうといえようが、玉の井や亀戸のような溝泥の匂いがなく、何より組織が大がかりなので、何となく「大籬」というゆったりとしたものが感じられる。

女たちにも陰惨な、暗鬱なものがない。

玉の井や亀戸の女たちも大半は明るかったが、いくら登場人物が明朗な顔をしていても、背景が暗くいたましくては――。

ここはバンドが楽を奏で、明るい茶房や美しい寝室があり、バックがすでに明るい上に、彼女たちの生活がおよそまた自由なのだ。

どう自由か――は、次章で語ろう。

明治落語界を風靡した滑稽舞踊「郭巨の釜掘り」の一節に、

吉原おいらん手紙は書くけど表にゃ出られぬバー

という文句があったが、いやそんなに古く溯るまでもない。大正大震災後に流行した現代映画、『籠の鳥』の主題歌でさえ、

あなたの呼ぶ声忘れはせぬが 出るに出られぬ籠の鳥

と歌っていた。外出するおいらんに、小母さん(やり手)が従いて看視していた風景は、戦争激化以前にはよく町で見られた。

ちょうど、それの正反対のあり方をしているのが、今日のパレスの彼女たちなのであると、原さんは言うのだった。

まず雇用関係でないから、いつ外出しようと、いつ客とどこへ出かけようと、いつ親元へ行ってこようと、いつ休もうと、いっさいが自由、従って公休日はない。すなわち公休日の不要なほど、自由に振る舞っていられるというのである。

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