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随筆 寄席囃子
正岡容
寄席囃子
当代志ん生の味
当代の噺家の中では、私は文楽と志ん生とを躊躇なく最高位におきたい。文楽は菊五郎、志ん生は吉右衛門、まさしくそういえると思う。ただし、芸質の融通無礙なところでは志ん生の方が菊五郎らしく、双方の芸を色彩にたとえていえば文楽の方がハッキリと明色で六代目らしい。そのくせ一字一劃を疎かにしない文楽の小心さ几帳面さは吉右衛門を思わせ、志ん生のいい気な図太さは六代目に似かよっているのだからなかなかおもしろい。
最近鴨下晃湖画伯も「落語三人男」と題してほぼ私と同様の意見で文楽、志ん生、可楽について論評されたが、その中の志ん生に関するくだりだけを引用してみよう。
曰く、
志ん生の飄々として「テニヲハ」の合わぬ話し振りの中に奇想天外な警句と愉快な諧謔の連続にいつしか聴き手を不可思議な八ッあん熊さんの世界に引き込んでゆく可笑しさ、とめどもないような中に本格の修業を失わないところ、彼独特な「マクラ」の奇抜な面白さ、また現在の彼の地位も不当ではない。
ほんとうに志ん生は早くからこの社会へ身を投じていながら、若い時分をずぼらにでたらめに暮らしすぎたため転落し、そのため一時はずいぶんひどい貧乏暮らしをしていた。本所業平の陋巷、なめくじばかりやたらにいる茅屋にいて、その大きい大きいなめくじはなんと塩をかけると溶けるどころかピョイと首を振ってその塩を振り落としてしまうというのである。志ん生(その頃は甚語楼といったり、隅田川馬石といったり、また古今亭志ん馬になったりしていた)のお神さんに至ってはこのなめくじに踵まで食いつかれた。
「あんな腹の立つものはありませんね、ナイフで斬ったって血は出やがらねえし」
よくその時分、志ん生はこう言っていたが、「血はでやがらねえし」は巧いではないか。今日、彼のギャグのおもしろさがもうこの時に立派な萌芽を示していると思う。しかしその骨の髄まで滲み透るような貧困のどん底生活は、いろいろと彼にめげない逞しさを与えた。持ち味のおかしさにも、もっともっと本物の底力ある磨きをかけてくれた。恐らくこの「生活」なくして今日の古今亭志ん生は得られなかったろう。でも、どうしてその時分この生活こそのちの最大幸福の原動力なりと本人はもちろん、我々にしても知り得たろう。すべては神のみぞしろしめす、である。
何より私はそうした彼の数奇な半生に、私自身の姿を見出さずにはいられないのだ。私自身もまた年少にして文筆の生活に入り、時流に耐える底力なく自棄の生活を送っているうちにすッてんころりんと落伍してしまい、ひどいひどい貧乏暮らしのありッたけをしてから、やっとこの頃多少でも自分の好きなものだけを書いて世間に問うことができてきたのである。世の中へ出たことは志ん生の方が私より三、四年早かったけれども、志ん馬から馬生と彼の売り出し時代、ほんとうに私は他人事ならずその出世を喜び深く眺めていたことだった。そうして彼も近来恐らく同様の感慨を、私の上に抱いているのではないのだろうか。すなわち何か身近なものを私の上に見出しているのではないだろうか。新作嫌いのこの男が、最近「寄席」「圓朝」と二つも私の長篇小説を自由に脚色し、構成して、高座にかけ、内的にも奏効していることを思えば――。
「寄席」は昭和十七年十一月、十二月の二回にわたる発表(神田花月、昼席)だったが、あの噺の中で志ん生はお艶ちゃんの仄白い顔をチラッと美しく描いてくれた。熱海でザブリ温泉へ飛び込んで「芸」の修業の難しさを語る時の今松の独白には、ジーンとこちらの胸まで熱くさせるものがあった。横浜でペスト劇を訪ねて失望落胆するくだりに至っては、ひそかに作者の期待していたのと寸分違わぬ馬鹿馬鹿しさがそこここに満ち溢れて、すこぶる私は満足だった。
「……私は少し今松に似ているのかもしれない」
その時地のところでこう言って志ん生は笑わせたけれど、まさしくそれはそうだろう、私が彼の過ぎ来し半生の上に自分の姿を見出しているよう彼もまた今松という私の変形のあの主人公の上に若き日の自分の姿を見出しているのにちがいない。それには原作にはない先代の志ん生が空気草履を履いたため、盲小せんから江戸っ子の面汚しだと言って絶交され、岡村柿紅氏を頼んで大真面目で詫びに行く挿話もよかった。同じく昔、新石町の立花が貞山ばかりひいきにするので、その頃の若武者小勝が、
「貞山(瓢箪)ばかりが売り物(浮き物)か、小勝(あたし)もそろそろ(この頃)売れて(浮いて)きた」
と地口る挿話もおもしろかった。さらにまた名人春錦亭柳桜が穴のあいた釈場の高座へ飛び入りで客席から出演し、世にも水際立った人情噺を一席演ったので、楽屋で聴いていて感に堪えた一前座はにわかに講釈がいやになってピシーリと張扇を折り、柳桜門下にはせ参じた。だのにこの男、一向に売れなかったという挿話に至っては、層一層とおもしろかった(この男が久保田万太郎氏の『末枯』の扇朝、すなわち春風亭梅朝爺さんの前身であるとのちに志ん生は私に語った)。ようするに『寄席』という私の小説を主に、これら明治大正の噺家世界の愉しいエピソードを従に、まさしく志ん生の話術は時として講談であり時として落語であり時として人情噺であり、同時にそれらのいずれでもないひとつの新世界を開拓してみせてくれたのだった。骨折り甲斐のあった仕事だったといっていい。
「御難をして熱海の贔屓を頼っていく一節などいかにも実感があって志ん生の自叙伝を聴く思いがあった」
と安藤鶴夫君はその日の批評に書かれたが、ほんとうにそのとおりだった。
「もはや一流人である同君がこうした野心作品を示し、しかも相当の効果をあげたことに脱帽したい」
私自身も、同じ頃あるところへこう書いた。
今夏彼が発表した「圓朝」についてはそのうちあらためて書くつもりなので、ここでは言わない。ただ原作にないいい物語が時々用意されていて、それがそれぞれ私をして書きたい欲望を起こさしめるに足るほどの話だったことなど、特筆しておいてよかろうと思う。
鴨下画伯の言われる「奇想天外」の味は、「町内の若い衆」にある、「寝床」にある、「強情灸」にある、「らくだ」にある、「火焔太鼓」にある、「佐平次」「白銅」もわけもなくおかしい。「寝床」「らくだ」の彼の独自なギャグや扱い方についてはすでに他に書いたが、「町内の若い衆」の下層街のおかみさんの活写とその警句百出に至っては、ちょっと他に類をみない。あのようなささいな噺を、あのようなおかしい愉しいものにした功績は、永らくこの道に記録されてよかろう。
「強情灸」で灸の熱さを説く男が、
「熱いのなんのってこの間なんか、あまり熱いンでバーッと飛び上がって天井を蹴破ってそのままどこかへ行っちゃった男がある」
なども、彼のギャグのすばらしさの最たるものだろう。だって考えてもみてくれたまえ、化け猫じゃあるまいし、そんな君、天井を蹴破るなんて……。
もしそれ「お直し」に至っては最後近くあの特異な生活の夫婦の愛情に高潮するあたり、劣等感は微塵も起こらず、まさしくモーパッサンあたりの名小説を読むの思いがある。これは不朽の逸品といえよう。大切に綿に包んでとっておきたい気さえ、私はした。「今戸の狐」ではしがない落語家の生活も千住のおいらんのなれの果ての姿も今戸八幡辺りの寒々とした景色とともに、よく志ん生は描き出してみせてくれる。
先代小圓朝門下で圓喬に傾倒し、先代志ん生の門を叩いた彼は、早く江戸前の噺の修業はいっぱしに終えていた、圓朝系の人情噺もひととおりは身につけていた。ひと頃先代蘆洲門下に走って張扇を手にしていた時代のあったことも、続きものの読める今日の彼に役立っていないとはいえない。
ただ、いかにも昔は陰気でひねこびていたのが(私は馬きん時代のこの人の高座をハッキリと覚えているが)、事変三、四年前、初めて三語楼という陽花植物を己れの芸の花園へ移し植えるに及んで、めきめきとこの人の本然の持ち味は開花した。さらに先代圓右の軽さが巧い具合に流れ込み、溶けて入ったことによって、ついに志ん生芸術の開花は結実にまで躍進した。
『寄席』や『圓朝』を一時間も二時間も読んで、時に笑わせ、時にホロリと、自在な腕を揮えるのも、思えばこうした永い年月の粒々辛苦の芸術行路のゆえである。けだし自然であるといえよう。
文楽と志ん生とが当代の二大高峰であると冒頭に言ったが、幸福にも私は全落語界きってこの両者とは特別の親近の交わりがある。喜びとしないわけにはゆかない。
志ん生の噺にたいする一家言はなかなか鋭角的で、半歩も他に譲らないきびしいものをもっている。権門に降らず、ひたすらほんとうの噺家らしい市井風流にのみ活きぬきたいあの心構えも、文楽とともにいい。
それにはなかなかの勉強家で、よくうちの本箱からいろいろの本を漁っては持っていく。そのくせその本から得た知識がへんにインテリがかったものとなって噺のニュアンスを壊すなんてこともなく、きわめて彼の場合にはいい肥料となっているらしい。便乗落語しかやれない時がきたらただちに噺家を廃業してしまっていいとつねに語っているこの人の心構えの上に私は、岡本綺堂先生描く「相馬の金さん」を感じずにはいられない。同じく「権十郎の芝居」の、討死しても懐中から芝居の番付を放さなかった芝居好きの江戸侍藤崎を思わずにはいられない。後者はつとに本人も読んで知っていて私たちは絶対あの心構えでありたいとも、ある時の酒間では私に語ったことだった。
この人の今後の年一年は特異な話術世界への開拓があり、進軍があり、結果はいよいよ芸能界の好収穫となるだろう。現に九月には私の志ん生、文楽両君と主宰している寄席文化向上会で鯉丈の『和合人』発表の企画がある。くれぐれも加餐を祈ってやまない。
橘之助懐古
「この頃になってしみじみ橘之助を思い返す。もう東京では人気もあるまいが、しかしあれだけの芸人はいない。――ことに、阿蘭陀甚句の得わかぬ文句、テリガラフや築地の居留地や川蒸気などそんな時代の大津絵や。
それから子供がいやいや三味線を引っかかえてお稽古をする、あれなんぞは、どう考えても至上である。――仄かな瓦斯灯からぬけだしてきたような、あの明治一代の女芸人。だが惜しいとまこと思う頃にはこれまた東京の人でない」
かつて私にこの小品があり、昨秋、上梓した『随筆、寄席風俗』の中へ収めた。でも、これで見るともうその頃橘之助は先代圓といっしょになり、名古屋へ去っていたのだろうか。否、私の記憶によるとどうもそうではなく、この時の橘之助はまだまだ圓とはいっしょにならず、どこか別の地方へ稽古かたがた一人で行ってしまっていたのだという気がしてならない。それにしてももう今では「東京の人でない」どころか、この世の人ではなくなってしまった。
「立花家橘之助は、今も六十近くを、あの絶妙な浮世ぶしの撥さばきに、薬指の指輪をさびしく、かがやかせているであろうか その頃(震災の二年ほど前)橘之助は、小綺麗な女中をつかって四谷の左門町に二階を借りていた。
あたしはその鴉鳴く四谷の秋たそがれ、橘之助自身からそのかみの伊藤博文と彼女にまつわる、あやしい挿話を聞かせてもらったことがある。
橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれる時も、その送別の席上、
『こんど、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへ年二回くらい出るようにしろ』
と、橘之助に言った。
『御前、それはほんとうですか』
夢かとよろこんで橘之助は、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで橘之助、高座へ上がると三味線が鳴らない。べんとも、つんとも、まるで鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗ばむ。橘之助、何十年三味線を弾いていて、こんな例は一度もない。――昔、何とかいう三味線の名人が品川で遊んで(原武太夫のことだろう、何とかいう三味線の名人とその時の橘之助は言ったっけ)、絃の音色で大海嘯を予覚したという話さえ思い出して、遠からずこれは何か異変があるのじゃないかとさえ、心ふるえた。