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人々に答ふ
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人々に答ふ
正岡子規
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Traducción Pagera AI
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Chapter 6 of 13

六

「国歌は国歌として独立し」などとは訳の分らぬ言葉なり。「俳句は俳句として独立し」ともいふべきにあらずや。独立とは他国文学の影響を受けぬといふことか知らねど、和歌に漢語を用うるは前にも言へるが如し。思想の上にも多少漢学仏教の影響を受けたるは事実なり。それでもなほ日本固有の処があるとの意味かも知れねど、その固有の処が極めて価値なき者ならば、なかなかにはづかしくて独立などといへた義理に非ざるべし。維新前後の歌などに残つてゐる日本固有の部分は、その価値なき者ならんと思ふなり。

「文人読者をして新思想を抱かしめ、知らず識らず旧思想を嫌悪否定するに至らしむるの用意なかるべからず」とは手段の緩急をいへるなり。われらは必ずしも「知らず識らず」的の緩手段をのみ取らんとは思はず。知りて改むる人もあるべしと信ずるを以てなり。

外国の文学思想を輸入すべしといふ事、外国の文学を剽窃せよといふにあらず。剽窃にあらずして輸入する事、歌人の腕次第なり。外国文学より得たる思想にても、日本歌人の脳中に入りて、それが歌となりて再び出づる時は、その思想は日本化せられをらざるべからず。既に日本化せられたる者は日本の思想なり。天真の桜花の、人造の薔薇のといふ譬喩はかたはらいたし。桜花をのみ無上にありがたがりて、外の花の美を知らぬ人とは、共に美術文学を語りがたし。

或人(秋田県樺園子)曰く、万葉の歌は十中八、九まで世道人心に関係あれば善し。古今以後の歌は徒に月を賞し花を玩ぶ。故に取らず。云々。

答へて曰く、かくの如き事は前にも度々言ひたれば、今更繰り返すもと思へどなほ少しいふべし。歌は世道人心に関係ある故善きにあらず。世道人心に関する歌にて善きもあり悪きもあり。歌は花月を弄びたるがために悪きにあらず。花月を弄びたる歌にて善きもあり悪きもあり。万葉の中には「田子の浦ゆうちいでて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪はふりける」「わかの浦に汐満ちくれば滷をなみ蘆辺をさしてたづ鳴きわたる」などといふ歌ありて、人も名歌とし、われらも爾か思へり。されどこれらは世道人心に何らの関係もなきなり。善を勧め悪を懲らし、人を教へ人を導くは道歌に如く者あるまじ。されど道歌なる者は総じてつまらぬ者なり。

また『万葉集』を評して「歌は国家治教の道なるにより、当時の人は思のままを述べたる者なり」などといへるは一文章の内既に撞著あり。国家治教とかを目的として歌詠まんには、思のままには詠まれぬ訳なり。思のままに歌詠みたらんには、国家治教などいへる事に関係なき歌も出来る訳なり。実にや万葉時代の人は、思のままを詠みたれば、国家治教などとは似てもつかぬ歌を多く詠みいでたるなり。

一般にいへば、歌は倫理的善悪の外に立つ処に妙味はあるなり。俗世間の渦巻く塵を雲の上で見てをる処に妙味はあるなり。倫理は徒に善を勧め徒に悪を懲らす傍にありて、歌は善とも悪ともいはず、ただかくの如く愉快にかくの如く平和なる場所あることを黙示するなり。世間は名利に趨り煩悩に苦しめられ、掌大の土地の上に気違ひの如く狂ひまはるを、歌人は独りこれを余所に見て花に遊び月に戯れ、無限の天地に清浄の空気を吸ひをるなり。彼俗人だちが歌を善悪の間、俗界の中に求むるはそもそも誤れり。(四月二日)

Chapter 6 of 13
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