Chapter 1 of 7

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日蔭の街

松本泰

歳晩の寂しい午後であった。私は、青い焔をあげて勢よく燃えさかっている暖炉の前へ、椅子を寄せて、うつらうつら煙草を燻らしていた。私の身のまわりは孰れも見馴れたもの計りで、トランクは寝台の下に投込んであり、帽子掛には二つの帽子と数本のステッキがある。飾棚の漆塗の小箱、貝細工の一輪挿、部屋の隅に据付けてある洗面台の下の耳のとれた水差、それから二組の洋服と外套の入った洋服箪笥、それ等はあった儘に位置を変えず、灰を被ったように寂然と並んでいた。私は気易いのびのびした心持で、四辺の見窄らしい石版画の額や、黄色くなった窓レースを眺め廻した。表道路に面した窓の外に素焼の植木鉢が投出してある。夏前には羊歯種の草が青々と繁っていた。

私はこの宿へ来てから一年になる。その前は学校の近くの旅館にいたり、高燥なH街の某軍人の家などにおいて貰っていたが、最後に腰をすえたこの家が一番気に適っている。性来なまけもので、その上、人づき合のわるい私は、学校友達も煩く、勤厳な家庭で、酒は飲むなの、門限は幾時だのと干渉されては迚もやりきれない。その点で私は現在住んでいる宿を礼讃する。宿の内儀さんは私が酔って真夜中に帰宅して廊下の壁に頭をぶつけようが、靴のままで寝台の上へ倒れてしまおうが、一向叱言もいわなければ、忠告もしない。それでこそ倫敦も住甲斐があるというものだ。そしてまだいい事は、軍人の奥さんに支払う金額より、ここの下宿料はずっと安くて、遥かに旨いものを喰べさせてくれる。金の事にさもしくて、私を陰気にする。私は最う金はないのだ。

私の宿は繁華なV停車場通りから東へ入った、テームス川寄りの取遺されたような街にある。それは激しい活動の世界から忘れられたような日蔭の街であった。

私は卓子の上の吸い馴れた黄色い紙袋の煙草に火を点けて、汚れた窓ガラスを透してどんよりと暗くなってゆく陰気な街の空を眺めていた。

そこへ飄然と、柏という友人が訪ねてきた。

「いいところへ来たよ。お祝いをやろうと思っていたんだ」

「お祝いとは豪気だな」柏はミシミシと壊れかかった藤椅子へ腰を下すと、絵具の附着いた指先で無雑作に卓上の煙草を抜出して口へ持っていった。

「いよいよ破産なんだ。親が僕に遺していった金は基督降誕祭前に銀行から引出したやつで全部だが、昨日までに消費果して、見給え、ここに百円残っているきりだ。これが無くなると、厭でも日頃の君の忠告に従わなければならない」

「そう来なくてはならない。それで君も一人前の男になる訳だ。百円あれば当分暮せる。その間に適当な職業を探すのだな。働くという事はいい事だ。フン」と柏はいった。この男だってズボラにかけては退けをとらない方で、日頃私が充分な時間を持っているのを羨しがっていたから、御同様働く仲間が出来たのを喜んだのに違いない。

「いい事か、悪い事か知らんが、僕は計画があるんだ。詮りね、この端金を一晩でビールの泡にしてしまうというんだ。遊民生活の過去と華々しい訣別式を挙げるのさ。さアこれから一緒に出掛けよう」

「成程、君らしくって面白い、思いきりがいいや」柏は高笑いをしながらいった。

柏は猶太人経営の某美術商に雇われている画家で、僅か二三年の知合であるが、磊落不覊のうちにも、情に厚いところがあって、私とは隔てのない間柄であった。

二人は数分のうちに肩を並べて下宿を出た。百円の処分方法に就て、あれこれと意見が出たが、結局穏かにサボイ旅館で晩餐を摂る事にした。

食堂は殆んど満員で、空いた卓子は数える程しかなかった。妖艶な臙脂色の夜会服を纏ったスペイン人らしい若い女や、朱鷺色の軽羅をしなやかに肩にかけている娘、その他黄紅紫白とりどりに目の覚めるような鮮な夜会服を着た美しい女達が、どの卓子にも見えていた。男達は大抵、燕尾服か、タキシードを着けている。背広服をきているのは私共の他に多くは見掛けなかったので、いくらか面羞い心持であったが、柏は一向平気で、四辺を見廻しながら、チビリチビリ葡萄酒をやっていた。

その中彼は何を見付けたのか、急に眼を輝して、杯をもった手を何時までも宙に支えている。

「オイ、どうした。何を呆乎している」私は小声でいった。

「素敵だ。俺の探していた通りの顔なんだ」柏は呻くようにいった。

「冗談じゃアない。近所の人がじろじろ見ているじゃアないか、見っともないから止して呉れ」と私は慎めたが、柏は耳にも入れず、

「まア、鳥渡見ろ、この卓子の五列目で、君の真背後なんだ。ロゼッチの『愛の杯』から抜出してきたような美人だ」と熱心にいった。

如何に「愛の杯」から抜出したような美人であろうとも、私には真逆、無遠慮に振返って見るほどの興味はなかった。

やがて食事が済んで、珈琲が運ばれた時、柏は突然私の肘を掴んで、

「『愛の杯』が席を立ったよ。僕は帰る、左様なら」といいながら気忙しく立上った。

「まだ、これから計画があるんだ。今から帰ってどうする」

「あの顔の印象が薄れないうちに、家へ飛んで帰って仕事にかかるのだ。徹夜だぞ」柏の言葉の終らないうちに、私は背後に軽い絹擦の音を聞いた。と見ると、裾に銀糸で渦巻模様を刺繍した真黒な琥珀の夜会服を着た若い女が、卓子の間を縫って静に歩いてきた。丁度彼女が私の傍を通過ぎた時、軽い音を立てて床に落ちたものがあった。それは目の覚めるような緋房のついた小さな象牙の扇子であった。私は素早く手を延して拾い上げると、背後で、

「お嬢様、お扇子が……」という老婦人の声がした。先に立った女はツと足を停めて振返った。彼女は美しい口許に微笑を浮べながら、私の差出した扇子を受取って、

「有難う」と仏蘭西語でいった。老婦人は乳母か、家庭教師か、二人は軽く一揖して廊下の外に姿を消してしまった。

柏は私の引止めるのもきかず、間もなく、そそくさと帰っていった。

柏に置去りを喰った私は勘定を支払って食堂を出た。食後の葉巻に火を点けて、高い廊下の窓から、火の海のような市街の光景を見下した。まだ時間は早かったし、それに飽気なく柏が帰ってしまったので、どうしても此儘、寂しい川岸の下宿へ帰る気になれなかった。目の下の大通りを数限りない自動車や、乗合自動車が右往左往に疾走ってゆく、両側に立並んだ、明るい飾窓の前を、黒い人影が隙間もなく、ギッシリとかたまり合って、宛然、黒い川を押流したように、動いている。じっと心を落着けると、今迄気付かなかった自動車の警笛、停車場の汽笛、その他様々な物音が相まじり合って、異様などよみをつくっている。気のせいか、何処かで管弦楽をやっているようだ。

私はフト思いついて、廊下伝いにサボイ劇場へ入った。私は服装を遠慮してわざと二階の後方の席を買った。芝居は至極あまいもので、些しも私の感興を唆らなかった。平常の私なら、一幕が済むと、欠伸をして帰り仕度をするのであるが明日からは当分芝居も見られぬという境遇が、名残を惜しませるのか、寒い風の吹いている戸外へ出るのが大儀だったのか、私は夢心地に満堂の拍手の音を聞きながら、漫然と幕の上ったり、下りたりするのを眺めていた。

私の右手の空席を一つおいて、二人の男が頻りに話合っていたが、フト私と顔を合せると、

「今度の幕合は何分だね」と仏蘭西語で横柄に訊ねた。永らく英国に暮していた私は、見知らぬ他人から猥りに言葉をかけられるのを快く思わなかった。殊に態度が気に入らない。私はムッとして相手の顔を視詰めた。男は肩をすぼめて、

「日本人だ。仏蘭西語じゃア通じない」と連を顧ていった。その男は黒の上衣のポケットに純白なハンケチを覗かせた二十七八の小柄な青年である。連は中年の岩丈な船員風の男で、長い口髭を弄りながら、太い声で青年の言葉に合槌を打っていた。二人は以前余程親しい間柄で、久時別れていて、つい其日始めて出会ったらしかった。

若い方は頗る上調子で、

「多分そんな事と思ったよ。女が倫敦にいるとなりゃ、無論大将も近くに潜んでいる訳だ。俺は無駄骨を折って紐育計り探していたが、有難い事だ。運が向いてきたんだ。厭でも応でも今度こそ結婚して貰わなくちゃアならない」

「……他にだって女はあるんだから……厭がる女の後を追うような野暮な真似はやめるがいいぜ。女は諦めて一方にかかろうじゃアないか、その方が間違いなさそうだ。へまをやると両方とも失策ってしまう」連の男は宥めるようにいったが、彼の顔にはありありと不快の色が浮んでいた。

「余計な事は云わぬがいい。俺は一遍思込んだ事は飜えさないのだから、まア俺の細工を見ているがいいよ。一ヶ月後には伊太利の海岸から新婚旅行の絵ハガキでも送る事になるだろうよ。然し運ってやつは不思議なものさ。煙草屋の店先で君に会おうとは思掛けなかったよ。六ヶ月間も行方を晦ましてひとり占めをしようなんて、君も中々凄腕だよ」

「ひとり占めだなんて、そんな事があるものか、俺も気心の知れた相手が欲しいと思っていた矢先なんだ」

二人は極めて小声で囁合っているが、私には不思議と聞取る事が出来た。彼等は一体何事に就て語合っているのか、要領を得ないが、兎に角この二人は只ものでないと思った。次の幕が開いたが、私は舞台より隣席の二人の挙動に興味を牽かれるようになった。若い方の男は紙片に何やら認めて、廊下に立っている案内人に手渡していた。それからの二人の言葉は一言半句も聞取る事は出来なかった。然しながら察するところ、二人はある婦人に対して異った主張を固守しているらしかった。而もその婦人というのは、どうであろう、柏の所謂「愛の杯」の主人公で、例の扇子の持主ではないか。私の胸は異常な驚愕と好奇の念に奇しく跳った。私の眼は絶えず筋向うのボックスに注がれた。そこには思い做しか、愁わしげな様子で、じっと舞台を見下している彼女の横顔が真紅のカーテンを背景に美しい線を描いていた。

やがて最後の幕合がきた。私はその時まで忘れていた煙草を思出して廊下へ出た。私は人々の間を縫って、引つけられるように彼女のボックスの方へ歩いていった。品位のいい容貌、優雅な物越し、附添いの老婦人の態度などから推して、彼女はどうしても身分のある家の令嬢に違いないと、私はひとり極めにしてしまった。それにしても私の隣席の仏蘭西人とどのような関係があるのであろう。私はそんな事を思いながら、廊下を歩いていたが、暫時して席へ戻ると、其処には既う先刻の仏蘭西人は見えなかった。私は出抜かれたような気持で、直ぐ筋向うのボックスに眼をやった時、思わず、

「オヤ」と叫んだ。ボックスは空である。つい今しがたまでいた彼女と老婦人の姿は、掻消すようになくなっていた。

このようにして問題の人々は、いつ迄経っても姿を見せなかった。もともと芝居には最初から興味を感じていなかった私はそうなると一刻も辛抱しておられない。

私は間もなく戸外へ出た。劇場地のストランドも、裏へ出ると、遉に芝居の閉場る前は寂蓼を極めていた。薄霧のかかった空には、豆ランプのホヤを被せたような星が、朧に光っていた。その通りには更に裏通りへ通ずる石畳を敷いた急勾配の露路が幾つもあった。それ等は孰れも両側の高い建物に挟まれて黒い陰の中に埋っていた。

私は下宿まで歩いて帰る積りで、人通りの稀れな、明るい街路を靴音を立てながら、歩いていった。とある露路の角に差かかった時、突然、啻ならぬ女の叫声をきいたので、驚いて足を駐めると、不意に真暗な露路から飛出してきた女と危く衝突りそうになった。私は蹌踉きかかった女をしっかり抱きとめて、

「どうかしましたか」といったが、街灯の光に照出された白蝋のような女の顔を見ると、余りの驚愕に私は言葉が閊えてしまった。それは夕方以来、私を悩ましていた、あの美しい女である。

「早く、何卒、タクシーを呼んで下さい。早く、早く」女は激しく息をはずませながらいった。

私は彼女を抱くようにして、夢中で大通りの四辻まで走っていって、折よく通りかかった空車を呼止めた。

彼女を乗せた自動車が雑鬧のうちを無事に疾走り去ってしまうのを見届けると、私はホッとして元の道路へ引返した。

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