第一章 平等主義について――ウォレイス――コンドルセエ
(訳註)
〔訳註〕本章は第一版から現われているものであり、その第八及び第九章に当る。若干の訂正はその都度訳註で指摘することとする。
人類の過去及び現在の状態を、以上二篇において見たような見解から観察した人にとっては、人間及び社会の可完全化性を論ずるすべての人達が、人口原理に関する議論に留意しながら、これを極めて軽視し、そしてすべてこれから生ずる困難をもってほとんど測り難い遠い将来の事であると考えているのは、驚くべきことたらざるを得ない。この議論そのものがその全平等主義を破壊してしまうほどの重大性を有すると考えたウォレイス氏でさえ、全地球が花園のように耕やされ、これ以上の生産物の増加が全く不可能になるまでは、何の困難もこの原因からは生じないと思ったようである。もしこれが真に事実であり、そして美しい平等主義が他の点では実行可能であるとすれば、かかる計画を追及せんとする吾々の熱望がかかる遠い将来の困難を考えて冷却せしめらるべきであるとは、考え得ない。かかる遠い将来の出来事は神に委ねて差支えなかろう。しかし実際のところは、もし本書の見解が正しいとすれば、この困難はそんなに遠い将来のことでは決してなく、実は目前切迫のものである。もし人類が平等であるとすれば、現在の瞬間から全地球が花園のようになる時まで、耕作の発達上あらゆる時期において、食物の欠乏による窮迫が不断に全人類を圧迫するであろう。土地の生産物は毎年増加していくであろうが、しかし人口はこれよりも遥かに急速に増加する力を有ち、そしてこの優越せる力は、必然的に、道徳的抑制、窮乏、及び罪悪の、週期的のまたは不断の作用によって、妨げられざるを得ないのである。
コンドルセエ氏の『人類精神発達史論梗概』Esquisse d'un Tableau Historique des Progrs de l'Esprit Humain. は、ついに彼を死にまで至らせた残酷な迫害の圧迫の下に書かれたものと云われている。彼がもし、この書がその存命中に読まれてフランスの賛同を得るという希望がなかったのであるならば、これはまさに自己の主義を日常の経験がかくも残酷に裏切っているのになおこれに忠実な人物の特異の一例である。世界の最も開けた国の一つにおける人間の精神が、最も野蛮な時代における最も野蛮な民族ですらこれを恥辱とする如き忌わしい情欲や恐怖や残忍や悪意や復讐や野心や狂暴や愚劣の擾乱によって汚されているのを目にするのは、人類精神の必然的不可避的進歩に関する彼れの思想に対し恐るべき衝撃であったに違いなく、従っていかなる出来事が起ろうとも自己の主義の正しいことを確信するのでなかったら、これに耐えることは出来なかったであろう。
この遺著は、彼が完成しようと企てた遥かにもっと大きな著作の輪郭に過ぎない。従ってそれは必然的に、それによってのみあらゆる理論の真理なることが証明され得べき細論と適用とを欠いている。しかしこの説を、空想ならざる真実の事態に適用したときに、それがいかに全く矛盾したものであるかを示すためには、ほんの二、三の観察を加えてみるだけで十分であろう。
完成へと向う人間の将来の進歩を論ずるこの著の最後の部分において、コンデルセエ氏は曰く、ヨオロッパの各種文明諸国民において現実の人口をその領土と比較し、またその耕作や勤労や分業や生活資料を観察するならば、その勤労による以外にその欲求を満たす方法のない一定数の人間がなければ、同一の生活資料従ってまた同一の人口を維持していくのが不可能であることが、わかるであろう、と。
かかる階級の人間の必要を認め、また後にその家長の生命と健康とに全く依存している家族の不安定な収入に論及した後1)、彼は極めて正当にも曰く、『しからばここに、吾々社会の最も数多くかつ活動的な階級を不断に脅かすところの、不平等、従属、更に窮乏すらの、原因が存在するのである』と。この困難の説明は正しくかつ巧妙であるが、しかしこの困難を除去するための彼れの方法は、おそらくは全然無効なことがわかるであろう。
1) 時間と長い引用を省くために、私はここでコンドルセエ氏の考えの若干の要旨を伝えることとするが、希うらくはそれを誤り伝えないことをと思う。しかし私は読者がこの著作そのものを参照されんことを望む。これは読者を説得し得ないまでも、面白いものである。
生命の蓋然率と金利とを計算して、彼は、老齢者扶助を行う基金を提唱し、この基金は一部は各自の従来の貯蓄から作りまた一部は同一の掛金をしながらその利得を得ない中に死んだ者の貯蓄から作るのである、と云っている。同一のまたはこれに類似の資金はその夫や父を失った妻子にも扶助を与え、また新家庭を有つべき年齢に達した者にその勤労を延ばすに足る資本を提供すべきである。かかる制度は――と彼は曰う――社会の名において、かつ社会の保護の下に、作られ得よう。更に進んで彼は曰う、計算を正しく適用すれば、信用が大財産家の排他的特権となることを防止し、しかもこれに等しく強固な基礎を与え、かつ勤労の進歩と商業の活動とが大資本家に依存する程度を減少することによって、より完全に平等の状態を保持する手段が見出され得よう、と。
かかる制度や計算は紙の上では極めて有望に思われるかもしれぬが、しかしこれを実生活に適用してみれば完全に無効であることがわかるであろう。コンドルセエ氏は、勤労のみによって生活する階級があらゆる国家に必要であることを認めている。彼は何故にこれを認めたであろうか。けだし彼は、増加せる人口に対し生活資料を獲得するに必要な労働は、必要という刺戟なくしては行われ得ない、と考えたからであるというの外には、理由はあり得ない。そこでもし上記の計画による制度によってこの勤労に対する拍車がなくなってしまうならば、すなわちその信用と、妻子の将来の養育とについて、怠惰安逸な者が活溌勤勉な者と同じ立場におかれることになるならば、吾々は果して、人間が、今日公共繁栄の主発条をなしている自己の境遇を改善せんとする活溌な努力を発揮するものと、期待し得るであろうか。もし各人の請求を検討し、各人が全力を払ったか否かを決定し、これによって扶助を与えたり拒否したりする、審判所を作るとすれば、これは英蘭貧民法のより大規模の反覆以外のものではなく、自由と平等との真の原則を全く破壊し去るであろう。
しかし、かかる制度に対する右の大反対論は別とし、しばらくそれが生産に何らの妨げを与えないと仮定しても、しかもなお依然最大の困難が残るのである。
もし何人も一家を養うに十分の食料に確信がもてるならば、ほとんど何人も一家をもつであろう。そしてもし生れてくる子供に全く貧困の恐怖が存在しないならば、人口は異常な速度をもって増加するはずである。この点についてはコンドルセエ氏は十分に気がついており、そしてより以上の改善に関する記述を行った後、曰く、
『しかし産業と幸福とがかくの如く増進するにつれ、各世代の享楽は増大し、その結果として人体の物理的構成上当然人口の増加を来すであろう。しからば、ある時期が到来すれば、等しく必然的なこれらの法則は互いに衝突し、人口の増加がその生活資料を超過して、その必然的結果は、真に退歩的な運動たる幸福及び人口の継続的減退か、または少くとも善と悪との間の一種の擺動かの、いずれかとなるということにならなければならぬのではなかろうか。かかる時期に達した社会においては、この擺動は、週期的窮乏の常住の原因とならぬであろうか。そしてそれは、一切のより以上の改良が不可能になる限界を示し、人類の可完全化性に対し、それがいつかはそこに到達するがしかし決してこれを超過し得ない時期を、指示するものではなかろうか。』更に彼は附言して曰く、
『かかる時期がいかに遠い将来であるかを知らないものはない。しかし吾々は果してそこに到達するであろうか。吾々が現在ほとんど想像することも出来ないほどの進歩を人類がした後でなければ起り得ない出来事が、将来実現するか否かは、いずれも等しく云々し得ないことである。』
人口がその生活資料を超過した時に起ると予想される事態に関するコンドルセエ氏の描写は、正当である。彼が述べている擺動は確かに起るものであり、そして疑いもなく週期的窮乏の常住の原因であろう。ただこの記述において私がコンドルセエ氏と意見を異にする唯一の点は、それが人類社会に適用される時期に関するものである。コンドルセエ氏は、それは非常に遠い将来でなければ適用され得ない、と考えている。しかし本書のはじめの方で述べ、そして人類社会のあらゆる階級に存在することがわかった貧困によって著しく確証される、限られた面積における人口と食物との自然的増加の比例が、幾分でも真に近いものであるならば、事実は反対に、人口がその安易な生活資料を超過する時期はとうに到達しているのであり、この必然的擺動、この週期的窮乏の常住の原因は、たいていの国において、人類の歴史あって以来存在しているのであり、また現在も引続き存在していることが、わかるであろう(訳註)。
〔訳註〕最後の文にある『たいていの国において』なる句は第二版から加わる。
なおその後は第一―二版では次の如くなっていた、――
『……人類の歴史あって以来存在しているのであり、そして、吾々の天性の肉体的構造に何か決定的な変化が生じない限り、引続き永久に存在するものであることが、わかるであろう。』
本文のような形になったのは従って第三版からである。
しかしながら、コンドルセエ氏は更に、たとえ彼がかくも遠い将来にあると考えるこの時期が到来しても、人類と、人間の可完全化性の擁護者とは、少しもそれに驚く必要はない、と云う。ここで彼は進んで、この困難を、私には理解出来ない方法で除去しようとする。すなわち彼は、この時期までには、笑うべき迷信の偏見が道徳に対して腐敗堕落的権威を振うことはなくなると述べた後、生殖を妨げる乱婚か、またはこれと同じくらい不自然な他の手段かに、言及している。しかしかかる方法によってこの困難を除去するのは、多数の意見からすれば、確かに、人間の平等と可完全化性の擁護者がその見解の目的であり対象であるとする徳性と醇風とを破壊するゆえんであろう(訳註)。
〔訳註〕第一版ではここで第八章が終り、次からは第九章となっている。
コンドルセエ氏が検討を試みている最後の問題は、人間の有機的可完全化性である。彼は曰く、もし既に挙げ、そしてその発展においてそれ自身の働きのうちにその力を拡大する証拠が、現在人間のもっていると同一の自然的能力と同一の組織を仮定しても、人間の不定限の可完全化性を確証するに足るものであるとすれば、この組織、この自然的能力そのものが、更に改良の余地ある場合には、吾々の希望はいかに確実となり広大なものとなるであろうか、と。
医学の進歩、より健全な食物と住宅の使用、過労を避け運動により体力を増進せしめる生活方法、人類堕落の二大原因たる窮乏と過大の富の破壊、理性と社会秩序の増進によってより有効になった物理的知識の改善による遺伝病や伝染病の漸次的除去などから、彼は、人間は絶対的には不死になることはないとしても、その出生と自然死との間隔は絶えず増大し、口で云えるような期限はなくなり、そして不定限という言葉であらわすのがちょうどよいようになるものと、推論している。彼はそこでこの不定限という言葉を定義して、無限の点に絶えず接近するがそれには到達しないことか、または、言葉では云えない量に向っての無窮の時代における増加かのことである、と云っている。
しかし確かに、以上いずれかの意味でこの言葉を人間の寿命に適用するのは、最高度に非学問的であり、それは自然法則におけるいかなる現象によっても全く保証されないものである。種々の原因による変化があるということは、規則的な不退転の増加とは本質的に異るものである。人間の平均寿命は、ある程度までは、気候の適否、食物の良否、風俗の善悪、その他の原因によって、変化するであろうが、しかし、吾々が何らかの信頼し得る人類の歴史を有って以来、人間の自然的寿命が真に少しでも延長されたか否かは、立派に疑い得よう。あらゆる時代において、一般の偏見は実際この仮説と正反対であり、そして私はこの一般の偏見は大して重視しようとは思わないけれども、それは反対方向への著しい進歩が少しもないことを証明する、いくらかの傾向はあるはずである。
これに対しておそらく、世界は未だ非常に若く、全くの子供なのであるから、何らかの差異がそれほど早く現われようとは期待すべきではない、と云われるかもしれない。
もしこれが事実であるならば、人類の科学はたちどころに終りである。結果から原因と進む推理の全系連は破壊されるであろう。吾々は、自然の教科書はもはやこれを読んでも何の役にも立たないから、これに眼を閉じてよかろう。最も荒唐無稽な臆説も、慎重な数次の実験に基づく最も正当な最も崇高な理論と同じ確実性をもって、提唱され得よう。吾々は再び古い思索方法に戻り、そして体系を事実の上に樹立せずに、事実を体系に合うように歪曲してもよいことになろう。ニュウトンの壮大一貫せる理論は、デカルトの荒唐奇矯な仮説と同一の立場に置かれるであろう。略言すれば、もし自然の法則なるものがかくの如く気紛れな不定なものであるのならば、もしそれが時代を重ねてなお不易であったのに今度はそれが変化すると主張することが出来、信ずることが出来るのであるならば、人類の精神はもはや研究の刺戟などは失ってしまい、むしろ退いて惰眠を貪るかまたは単に放埒な夢と取りとめもない幻影を楽しまざるを得ないことになる。
自然法則と因果法則との恒常性は一切の人類の知識の基礎である(訳註)。そしてもし前もって観察し得る変化の徴候も前兆もないのに、変化が起ると推論し得るのであるなら、吾々はどんな主張でも出来るはずであり、そして月が明日地球と衝突するという主張は、太陽が予定の時間に出るという言明と同様に、争い得ないことと考えてよいことになる。
〔訳註〕第一版ではこれに続いて次の如くあったが、第二版以後では削除された、――
『もっとも私は決して、自然法則を作り上げ動かしている同じ力が、これらをすべて「たちまちに、一瞬にして、」変化せしめることはないとは、云うのではない。かかる変化は疑いもなく起るかもしれない。ただ私の云おうとするところの全部は、推理によってはかかる変化を推論することは出来ないということである。』
人間の寿命については、世界始って以来今日に至るまで、それが長くなるという徴候や前兆は全然ない(訳註)。気候、習慣、食物、その他の寿命に及ぼす眼につく影響が、それが不定限に長くなるという主張の口実となっている。そしてこの議論の薄弱な根拠は、寿命には正確な期限をつけることが出来ず、何歳までは生きられるがそれ以上は生きられないとは云えないから、従ってそれは永久に延長することが出来、従って不定限または無限と云ってよい、というのである。しかしこの議論が誤っており不合理なことは、コンドルセエ氏が一般自然法則の一つと考えてよいという、彼れのいわゆる動植物の有機的可完全化性または退化を、少しく検討してみれば、十分にわかるであろう。
〔訳註〕ここには第一版には次の註があったが、第二版以後では若干の修正の後本章末尾の本文に繰入れられた、――
『疑いもなく多くの人々は、地上における人間の不死とか、また実に人間及び社会の可完全化性とさえいう如き不合理な逆説を、本気になって反駁するのは、時間と言葉の浪費であり、このような無根拠の臆測はこれを黙殺するのが一番よい、と考えるであろう。しかしながら私はこれと意見を異にする。この種の背理が有能有為の人々によって主張されるときには、黙殺していたのでは彼らにその誤りを納得させることにはならない。彼らは、自ら考えるところをもってその悟性の広大なることとその見解の徹底的なることの徴標なりとして己惚れているのであるから、この無視をもって単にその論敵の精神力の貧困と狭隘の証示と考え、単に世間はなお彼らの崇高なる真理を受容する用意がないと考えるに過ぎぬであろう。
『これに反し、健全な学問によって保証されるいかなる理論をも直ちに喜んで採用するという態度をもってこれらの問題を率直に検討するならば、蓋然性も根拠もない仮説を作るのは、人類科学の領域を拡大するゆえんではなくしてこれを縮小するものであり、人類精神の改善を促進するものではなくこれを妨害するものであり、吾々を再びほとんど知識の嬰児期に逆転させ、科学が最近その保護によりかかる急速な進歩をした思索方法の基礎を弱めるものであるということを、彼らに教えることとなるであろう。荒唐無稽な思弁に対する現在の狂熱は、おそらく、各種の科学部門において近年行われた大きな予期しない発見から生じた一種の精神的陶酔であるように思われる。かかる成功に眩惑されているものは、万事が人力で思うがままになるように思われるので、彼らは、かかる幻想の下に、真の進歩が少しも立証されない事柄を、進歩が顕著で確実で周知な事柄と混同したのである。彼らを説得して落着いていささか厳正苛酷な思考を行わせ得るならば、彼らといえども、辛抱強い研究と十分立証された証拠に代えるに放恣な空想と無根拠な主張をもってすれば、真理と健全な学問との大道は害されざるを得ないことが、わかるであろう。』
聞くところによれば、ある家畜の改良家の間では、どんなよい種類でも望むがままに作ることが出来るというのが、公理になっているという。そしてこの公理は、仔のあるものは親よりも良い素質を多くもつものだという、もう一つの公理に基づいているのである。有名なレスタシアの牧羊においては、小さな頭と小さな脚の羊を得るのが目的である。かかる飼育公理に則って進むならば、ついには羊の頭と脚は消えてなくなるのである。しかしこれは明かな不合理であり、従って吾々は、その前提が正しくないのであり、限界が吾々にわからず、またそれが正確にどこだと云えなくとも、実際は限界があるのである、と確信し得るであろう。この場合、改良の最高限度、すなわち頭と脚との最小の大きさは、不定であるとは云えようが、しかしこれは無限とかコンドルセエ氏の字義での不定限とかとは非常に違うものである。この事例において、私は、より以上の改良が行われなくなる点を指示することは、出来ないかもしれぬけれども、そこに到底達し得られない点ならば非常に容易に云うことが出来る。すなわち飼育が永久に続くとしても、かかる羊の頭と脚は鼠の頭や脚のように小さくは決してならないと断言するに、躊躇しないのである。
従って、動物の間では、仔のあるものは親よりも良い素質を多くもつものであるとか、または動物は不定限に完全化し得るものであるとは、云い得ないのである。
野生の植物が美しい庭園の花になる進歩は、おそらく、動物の間で見られぬほど顕著なものであるが、しかしこの場合でも、進歩が無限だとか不定限だとか主張するのは、この上ない不合理であろう。改良の最も明かな特徴の一つは、大きさの増大である。花は徐々として栽培によって大きくなってきている。もしこの進歩が本当に無限であるならば、それは限り知れぬほど大きくすることが出来るはずであるが、しかしこれは不合理極まることであって、吾々は、動物におけると同様に植物においても、限界が正確にどこにあるかはわからぬけれども、改良には限界がある、と確言し得よう。花の品評会の賞品を競う園芸家は、おそらく、しばしば強い肥料を使って、しかも失敗するということがあろう。しかし同時に、これ以上には出来ないと思われる最も美しいカアネイションやアネモネを見たと云う人があれば、それははなはだ僭越な云い分であろう。しかしながら、カアネイションやアネモネは、栽培によって決して大きなキャベジのようには大きくすることは出来ないというのなら、将来の事実と少しも矛盾せずに、主張することが出来るが、しかもキャベジより大きい大きさというものは考え得られる。これより大きくはなり得ない麦の穂を見たとか、樫を見たとかいうことは、誰も云い得ないが、しかしそれらがどうしても達し得ない大きさならば、容易にかつ全く正確に指摘することが出来よう。従ってこれら一切の場合において、無限の進歩と、限界が単に不定な進歩とを、注意深く区別しなければならぬのである。
動植物の大きさが不定限に増大し得ない理由は、それらが自分の重みで倒れるからである、とおそらく云われるであろう。私はこれに対して云う、このことは経験によらずして吾々はいかにして知るのであるか、その体躯を構成する力の程度に関する経験によらずして、と。私はカアネイションはとてもキャベジの大きさにはならぬうちに、その茎では支えることが出来なくなるのを、知っている。そして私はこのことを、ただ、私がカアネイションの茎の組織の弱さと、粘りのないことに関する、経験から、知るだけのことである。キャベジのように大きな頭を支える同じ大きさの物質ならば、ほかにはあるであろう。
植物の枯死に関する理由は、現在吾々には全くわからない。何人も、何故にある植物は一年生であり、あるものは二年生であり、またあるものは多年生であるかを、説明することは出来ない。動植物及び人類において、これら一切の場合の問題全部は、経験の問題である。そして私が人間は死すべきものであると結論するのは、単に、あらゆる時代の普遍的経験が、この眼に見える肉体を形作っている有機物の死すべきものなることを証明しているからにほかならない。
『吾々は、みずから知るところによらずして、何をか推理し得ん。』
人類はその寿命を限り得ぬほどに延長する方向に向って進み来り、また進みつつあるということが、明かに説明され得ぬ限り、健全なる思索は私が、地球上における人間の死に関する以上の如き見解を改めることを許さないのである。そして私が二つの特例を動植物界から引用した主たる理由は、ある部分的の改良が行われ、またこの改良の限界を正確に定め得ないということを根拠として、無制限の進歩を推論する議論の誤りなることを、出来れば解明し例証したかったからである。
動植物がある程度まで改良し得ることは、何人もよく疑い得ない。既に明かな決定的な進歩が行われている。しかも私は、その進歩には限度がないというのは非常な不合理らしいと考える。人間については、種々の原因により大きな変化があるけれども、世界が始って以来人類の体躯に何らかの有機的改良が起ったということは、明かに確証し得ない。従って人間の有機的可完全化性を主張する議論の論拠は非常に弱く、単なる臆説と考え得るのみである。しかしながら、遺伝に注意すれば、人間の場合にも動物の場合と類似のある程度の改良が不可能であるとは思われない。智能を遺伝し得るか否かは疑わしいが、大きさや力や美しさや容貌やまたおそらくは寿命ですら、ある程度遺伝することが出来る。だから誤りは、小程度の改良が可能であると考える点にあるのではなく、限界の定められぬ小改良と、真に無限の改良とを区別しない点にあるのである。しかしながら、人類は、かかる方法で改良を行えば、必ず悪種の人に独身生活をさせなければならなくなるから、遺伝に注意する方法は決して一般的に行うべきではない。実際この種の試みで慎重に行われた例は余りなく、私の知るものは、古いビッカスタフ家だけであるが、この一家は、慎重な結婚を行って、皮膚の色を好くし、身長を高くするのに成功したと云われている。ことにモオドという牛乳しぼりの女と上手に血を交えたので、この一家の体格の大きな欠点の二、三は是正されたという。
人間が不死に向って接近しているというようなことはあり得ないことをもっと完全に証示せんがために、寿命の延長が人口の議論に対してその上にも大きな重要性を有つことを、述べる必要は、思うにないであろう。
コンドルセエ氏の著書は、啻に一有名人の所見の概要たるのみならず、また革命当初のフランスの多くの文人の所見の概要たるものである。この意味で、これはわずかに概要に過ぎないが、注意に値するように思われる。
疑いもなく(訳註)多くの人々は、地上における人間の不死とか、また実に人間及び社会の可完全化性とさえいう如き不合理な逆説を、本気になって反駁するのは、時間と言葉の浪費であり、このような無根拠の臆説はこれを黙殺するのが一番よい、と考えるであろう。しかしながら私はこれと意見を異にする。この種の背理が有能有為の人によって主張されるときには、黙殺していたのでは彼らにその誤りを納得させることにはならない。彼らは、自ら考えるところをもってその悟性の広大なることとその見解の徹底的なることの徴標なりとして己惚れているのであるから、この無視をもって単にその論敵の精神力の貧困と狭隘の証示と考え、単に世間はなお彼らの崇高なる真理を受容する用意がないと考えるに過ぎぬであろう。
〔訳註〕本章のこのパラグラフ以下終りまでは前掲の第一版註に若干加筆したものである。本訳書一五―六頁参照。
これに反し、健全な学問によって保証されるいかなる理論をも直ちに喜んで採用するという態度をもってこれらの問題を率直に検討するならば、蓋然性も根拠もない仮説を作るのは、人類科学の領域を拡大するゆえんではなくしてこれを縮小するものであり、人類精神の改善を促進するものではなくしてこれを妨害するものであり、吾々を再びほとんど知識の嬰児期に逆転させ、科学が最近その保護によりかかる急速な進歩をした思索方法の基礎を弱めるものであることを、彼らに教えることとなるであろう。荒唐無稽な思弁に対する現在の狂熱は、おそらく、各種の科学部門において行われた大きな予期しない発見から生じた一種の精神的陶酔であったと思われる。かかる成功に眩惑されているものには、万事が人力で思うがままになるように思われるので、彼らは、かかる幻想の下に、真の進歩が少しも証明されない事柄を、進歩が顕著で確実で周知な事柄と混同したのである。彼らを説得して落着いていささか厳正苛酷な思考を行わせ得るならば、彼らといえども、辛抱強い研究と十分立証された証拠に代えるに放恣な空想と無根拠な主張をもってすれば、真理と健全な学問との大道は害されざるを得ないことが、わかるであろう。