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なぐり合い
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なぐり合い
マンパウル・トーマス
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Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 2 of 4

2

おれは今でも、渚から水浴小屋へ坂になって昇っている木の釣橋を、おれたちが三人づれで降りて行った時のことを、ありありと覚えている。いうまでもなく、おれたちはぴょんぴょん跳ねて、橋をできるだけゆらせながら、跳板からでも飛び上るように飛び上って行った。しかし下に着いてからは、亭や籃椅子の間を渚沿いに走っている、その木橋を渡りつづけないで、陸のほうへむかって、ほぼ海浜ホテルの方角を、というよりはもっと左のほうをめざして、進んで行った。砂浜には日光が焼きついて、乏しく枯々に草の生えた地面から、脚を刺す浜薊や燈心草から、乾いた、むっとする匂いを発散させていた。聞えるものは、青黒い蝿のたえまないうなり声ばかりだった。蝿は重苦しい暑さの中に、じっと動かぬように見えると思ううちに、突然場所を換えて、ほかのところで、また鋭く単調に歌いはじめるのだった。水浴で涼しくなった効能は、もうとうになくなっていた。ブラットシュトレエムとおれとは、汗を拭くために、かわるがわる帽子を脱いだ。ブラットシュトレエムは、防水布の廂の突き出たスウェエデン式の水夫帽を、おれは丸いヘルゴランド風の毛の鳥打――いわゆる大黒頭巾というやつを。ジョニイはやせているおかげで、殊にまた着物がおれたちのよりは上等で、夏向きに出来上っていたせいもあったろう、別段暑さには苦しめられなかった。例の洗いのきく縞の布地の、軽い楽な水兵服で、頸と脛がむき出しである。短かいリボンがついて、イギリス字で銘の入った青い縁無し帽を、きれいな小さな頭にいただいている。長い細い足には上等な、かかとのほとんどない白革の半靴をはいている。――こういうなりのジョニイは、大股に昇るような足どりで、膝を少し曲げ加減に、ブラットシュトレエムとおれとにはさまって歩きながら、持前の優雅なふしまわしで、その頃盛んにはやっていた「小さい海女さん」という俗謡を歌った。しかも早熟な少年たちが案出したある淫猥な替え唄をつけて歌った。ジョニイはいつもこうだった。まだほんの子供のくせに、もういろんなことを知っていて、そのうえ、平気でそれを口にのぼせるのである。が、歌ってしまうと、急にちょっといい児ぶった顔つきをして、「ちぇっ。誰だい、そんな悪い唄を歌う奴は。」といいながら、あの小さな海女にあんなみだらなことを話しかけたのは、まるでおれたちだったかのような風をした。

おれはどう考えても、唄を歌うような気持にはなれなかった。なにしろもう会戦の地点、すなわち運命の決する場所が、間近に迫っていたからである。砂浜のちくちくする草は、砂まじりの苔ととぼしい草生に変っていた。おれたちの歩いているのはロイヒテンフェルトだった。これはずっと遠く、左のほうにそびえ立つ、黄色い丸い燈台にちなんで、そう名づけられたものである。――と、いつのまにかおれたちは歩きつくして、もう目的地に来ていた。

そこは暑い静かなところだった。ほとんどだれも踏み込んだことのない、白楊の樹立のために、外からは見えないところだった。そうしてこの樹立の中の空地には、生きた柵のように、若者たちが輪になって坐ったり、ねそべったりしていた。みんなたいがい、おれたちよりも年上で、さまざまな階級の人間だった。見物人の中では、おれたちがたしかに一番おそく来たらしかった。ただ行司兼審判官として決闘に臨むべき、舞踏の師匠クナアクだけは、まだ来ていなかった。しかしヤッペもド・エスコバアルも、ちゃんと顔を見せていた――おれはすぐに二人を見た。二人はずっと離れ合って、輪の中に坐ったなり、お互いに見ないふりをしていた。無言でうなずきながら、二三の知った顔に挨拶してから、おれたちもまた、暖かい地面へ腰をおろして、両膝を立てた。

みんな煙草をのんでいた。ヤッペとド・エスコバアルも、巻煙草を口の隅にくわえて、煙に眉をしかめながら、めいめい片方の眼を閉じていた。それを見ると、なぐり合いを前に控えて、そんな風に坐ったまま、世にも何気ない様子で巻煙草をふかすというえらさを、二人ともかなり自覚しているのがよくわかった。両方とも、もう紳士然たる服装だったが、ド・エスコバアルのほうが、ヤッペよりもはるかに当世風だった。薄鼠の夏服に、ひどく尖った黄靴、淡紅色のワイシャツに、はでな絹のネクタイ、それからまるい、つばの狭い麦藁帽子をあみだにかぶっている。だから分けた髪の、額のはずれで、濃い固い、油で黒光りのする小山になで上げたのが、帽子の下からはみ出していた。折々、右の手をあげては振った。はめている銀の腕輪を、カフスの中へゆり戻そうとするのである。ヤッペのほうはずっとみすぼらしかった。脚は上着やチョッキよりも色の薄い、きっちりしたズボンに入っている。ズボンは並の黒靴の下で、革紐でとめてある。それから明色の縮れ髪にかぶさった格子柄の運動帽は、ド・エスコバアルと反対に、ぐっとまぶかに引き下げてある。しゃがむような恰好で、両腕を膝にまいているが、よく見ると、第一にシャツの袖口に、カフスがただ乗っかっているだけなのと、第二に、組み合わせた指の爪が、余り短かくきりすぎてあるか、またはそれをかみ切る悪癖が彼にあるか、どっちかだということがわかった。ところで、みんな軽快な納まった様子で、煙草をふかしているにもかかわらず、一座の気分はきまじめで、いや、堅くなっていて、おもに黙りがちだった。これに反抗を試みたのは、実をいうと、ド・エスコバアル一人だけだった。鼻から煙を吐き出し吐き出し、彼はたえまなく、大きなしゃがれ声で、しかも巻き舌で、そばの連中に話しかけていた。このから騒ぎがおれはいやだった。そして爪が短かすぎてもなんでも、ヤッペのほうに加勢してやりたい気がした。ヤッペはほんの時々、肩越しに隣近所へ言葉をかけるくらいで、そのほかは、見たところ、全く落ち着き払って、自分の煙草の烟を見送っていた。

そのうちにクナアク先生が来た――薄青い縞のネルの普段着で、海浜ホテルの方角から大急ぎでやって来て、麦藁帽をとりながら、おれたちの円座の外に立ちどまったその様子は、今でもおれの眼に残っている。クナアクが喜んで来たとは、おれは思わない。むしろなぐり合いなんぞに立ち合いを約束したのは、いやなのをむりに我慢してのことだったと、おれは確信している。ところがその位置なり、喧嘩早い、明瞭に男性的な意気の青年たちに対するその厄介な関係なりが、きっと余儀なくそうさせたのであろう。浅黒くてきれいでふとった(ことに腰のあたりがふとっている)クナアクは、冬になると、内輪の家庭的な集まりでも、また公開的に集会所でも、舞踏と礼式を教え、夏はこのトラアヴェミュンデの海浜ホテルで、宴会幹事兼水泳監督という役を勤めていた。きどった眼付、波打つような、うねるような歩き振り――ひどく外輪にした爪先を、まずそろりと地につけておいて、それから足の残りを落すのである――得意げな、せりふめいた言葉づかい、芝居じみて納まり返った態度、類もなくこれ見よがしに念入りなしぐさ――そういうもので彼は女性を夢中にさせた。しかし一方、男の連中、ことに批評的な半大人の連中は、彼の価値を疑っていた。おれはしばしば、このフランソア・クナアクの人生における地位について、考察してみたが、いつも、それは特殊な架空的なものだと思った。生れのいやしかった彼は、最高の生活様式を保育しながら、手もなく宙に浮いているようなものだった。そして社交界には加わらずにいて、しかも社交界から、その儀礼的理想の擁護者兼師匠として報酬を受けていたのである。ヤッペも、ド・エスコバアルも彼の弟子だった。ただしジョニイやブラットシュトレエムやおれなんぞのように、内弟子格ではなく、集会所で公開的に教えを受ける組だった。そしてクナアク先生の人物が、若い人たちから最も苛酷な品評をこうむるのは、そういう授業の際なのであった。(おれたち内弟子どもは、その連中よりはおとなしかったのである)――小さな娘たちとの優雅な交際法を教える男、コルセットをつけているという打ち消しがたいうわさの立っている男、フロックコオトの裾を指先でつまんで、女のするようなお辞儀をしたり、とんぼ返りをしたり、不意に高く飛び上って、空中で足をこまかくばたつかせては、またどすんとはめ木の床の上へ落ちて来て、はずんだりする男、いったいこんなのが男といわれるだろうか。というのが、クナアク先生の人物性行にかかっている疑惑だった。それに彼があまりに納まり返って、えらそうにかまえているのが、かえってこの疑惑をそそったのである。おれたちとの年の違いは莫大なもので、うわさによると(なんだか滑稽に思われるが)ハンブルグには妻子があるということだった。この大人という特質と、いつもみんなが舞踏室でばかり逢うという事情とのために、クナアクはとっちめられて、化けの皮をはがれる憂目を免れていた。クナアクには運動競技ができるか。今までに一度でもできたことがあったか。勇気があるか。力があるか。要するに、男児の面目を備えているといえるか。彼はその座敷芸と釣り合うべき、さらに剛健なる特色を立証して、尊信を博し得るような場合には、出会ったことがないのである。しかし中には、彼のことを臆面もなく、猿だとか卑怯者だとかいってまわる少年たちもあった。クナアクは大方それを知っていたのだろう。だからこそ、今日は本当のなぐり合いに興味を持っていることを示し、かつは同輩として若い人たちの仲間入りをするために、ここへやって来たのである。本来なら、水泳監督という職掌柄、こんな違法の名誉係争を許してはならぬはずなのに。だが、おれの確信に従えば、彼はいい気持でこの事に当っていたのではなく、あぶないところへおびきよせられたと、明らかに自覚していたのである。冷たい眼で彼をじろじろ見る者が、大分あった。そして彼自身は、大人も来ているかと思って、そわそわとあたりを見まわした。

慇懃な調子で、彼は遅刻をわびた。土曜日の集会のことについて、ホテルの幹部と評議していたのでおそくなったといった。ついで「闘技者はそろっているのか。」ときっぱりした口調で問うた。「それなら、もうはじめてもいいだろう。」彼はステッキに身を支えて、足を組み合わせたなり、おれたちの円座の外に立って、柔かな鳶色の口ひげを下唇でおさえながら、陰気な玄人らしい眼付をした。

ヤッペとド・エスコバアルは、立ちあがって巻煙草を投げ捨てると、戦闘準備にかかった。ド・エスコバアルは大急ぎで、あっといわせるような速さではじめた。帽子と上着とチョッキを地面へ投げる。ネクタイやカラアや胴締までも外して、前の品々のところへ投げる。それから例の淡紅色のワイシャツさえ、ズボンの中から引きずり出して、すばやく袖を抜くと、紅白の柄のメリヤスの肌着一つになった。黄ばんだ、もう黒々と毛の生えた腕が、上膊の中ほどからあらわれている。「それじゃ願いましょうか。」と巻き舌でいいながら、まんなかへ歩み出ると、彼は胸を張って肩をゆすり上げた。――例の銀の腕輪は、はめたままである。

まだ仕事のすまぬヤッペは、ド・エスコバアルのほうへ顔を向けて、眉をあげながら、眼はほとんど閉じたなりで、一刹那、相手の足もとを見つめた。なんだか「まあ待てよ。そんなにべちゃくちゃいわなくったって行かあな。」とでもいいたそうな様子だった。ヤッペのほうが肩幅はひろいのに、相手とむかい合って立ったところを見れば、ヤッペはとうていド・エスコバアルほど運動家らしくもなく、戦闘的にも見えない。革紐つきの、きっちりしたズボンをはいた両脚は、X形になりかかっているし、手首をボタンで締めた、ゆるい袖の、少しもう黄色くなった柔かなシャツといい、そのシャツの上にかかった灰色のゴムのズボンつりといい、どうもそのいでたちは、えらそうに見えなかった。これに反して、ド・エスコバアルの縞のメリヤス襦袢と、ことに腕に生えている黒い毛とは、ひとかたならず勇壮凄絶な印象を与えた。二人とも顔色は蒼かったが、ヤッペは平生紅い頬をしているだけに、それが余計目立った。彼の顔は元気な、少し乱暴な金髪の男によくある顔で、獅子鼻の上にそばかすが一むら乗っている。一方ド・エスコバアルの鼻は、短かく真直で先が垂れている。そしてまくれた唇の上には、口ひげが薄黒く生えかかっている。

Chapter 2 of 4
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