Chapter 1 of 28

一 リリー・レーマンに憧れて

ドイツへ行ってリリー・レーマンについて歌の勉強をしようと思って三浦政太郎と一緒に横浜を出帆したのは、一九一四年(大正三年)五月二十日のことでした。

私は非常に船に弱いので船の中ではずっと寝通しでしたから、香港に着きました時はほっと致しました。それにイルミネーションが綺麗でしたので、余計に明るい気持ちになりましたが、ここでお船は一晩お休みしたのでやっと元気を取りもどしました。

お船が香港に着く前の晩のことでした。私は生まれて始めて洋服を着ようと思って三浦に話しましたら、

「日本の婦人が洋服を着ると、胴が長くて足は練馬大根のように短く、まことにみっともない。船中では着物を着ていて、向こうへ着いて、どうしても洋服を着なくてはならなくなるまで洋服を着るのはお待ちなさい」

「だって私は、まだ一度も洋服を着たことがありませんから、向こうへ着いてから始めて着るのではよけいみっともないと思いますの、だからお船の中で着馴らして少しでも着かっこうの良いようにしておきたいのよ」

「向こうに着いてから、西洋の婦人の着方をよく見習った方が良い。船中で妙な癖でもつくとその方がよけいみっともない」

「いいえ、妙な癖なぞつけません。一日でも着馴らした方が良いと思いますのよ」

私は洋服を着ることを強く主張いたしましたところ、

「今から夫にさからうようでは、末恐ろしい」

と三浦はおこりました。私はそんな気で申したのではありませんでしたが、この船中の洋服事件が生まれて始めての夫婦喧嘩でした。

さて香港に着きましたところ、ペストが流行いたしておりましたので、同船の児玉さん、あの有名な児玉大将の息子さんはじめみなさん上陸なさいましたが、三浦も私もペストが恐いので上陸せず、広い食堂で二人きりで食事をいたしました。淋しい晩餐でした。

ポートサイドに着きますと、オーストリアの皇太子様が、セルビアの青年に殺されたというニュースを聞かされてびっくりいたしました。この前の大戦の前奏曲だったのです。ポートサイドでは、有名な鱈のお料理を御馳走になりましたがそのうまかったこと、鱈をトマトとオリーブオイルで煮たものですが、今でもそのおいしかったのが忘られません。

七月九日マルセイユに着き上陸しました。大きな馬が車を曵いて何台も何台も、とても数え切れないほど通ったのが強く印象に残っておりますが、その沢山な数よりも馬が大きいのでびっくりいたしました。私たちはマルセイユから汽車に乗って、リヨンを通って憧れの都ベルリンへ着いたのが七月十一日でした。

ベルリンでは、シャーロッテンベルグのフラウ・ドクター・スミスさんのお宅に下宿して、三浦はカイゼル・インスティテュートへ入って勉強を始めました。ここには田丸博士が働いていらっしゃいました。

私も早速リリー・レーマンに歌を教えて頂こうと思ってお訪ねしましたところ、ちょうど夏のお休みでリリー・レーマンは田舎へ避暑に行っていてお留守なので、秋にお帰りになるまで待つことにして、下宿で自分でピアノを弾きながら歌の勉強をしておりましたが、このお宅にお茶に来るお客様たちが、あなたの声は非常に美しい、と褒めてくれますし、また、道を歩いているととても素晴らしい歌が聴こえて来るので、窓ぎわへ行って立ち止って聴き惚れたが、その声の持主はフラウ・ミウラ、あなただったのか、と褒めて下さる方もあって、外国へ来て、まだ先生について勉強をしない前から、大勢の方に褒められて本当に嬉しゅうございました。

こうしている間にも戦争がだんだん身近に迫って来ましたが、とうとう開戦になりました。すると私の下宿の前には消防署がありましたが、そこの消防夫が全部兵隊に代ってしまったし、私が逢う女の方はみんな泣きながら、「とうとう戦争になってしまった、ドイツは敵に囲まれているから大変だ」といったり、「私の夫は出征するが戦死をするのが心配だ」とか、大騒ぎでした。そして毎日毎日、往来を沢山な兵隊が行軍していましたが、足を揃えてパッパッと歩くのを見ると非常に強そうに見えました。

私が往来を歩いていると、見ず知ずのドイツ人が「あなたは日本人だろう。日本は国はちっちゃいがロシアを負かした大変強い国だ、世界で指折りに強い日本はきっとドイツの味方になってくれるに違いない。日本がドイツの味方になってくれたらドイツはきっと勝つ」といって、なかには抱きついてキッスをする人さえありました。けれど私は、日本がイギリスと同盟を結んでいるので、もしもイギリスがドイツと戦争をするようになったら、日本はイギリスの味方をしてドイツと戦争をしなければならなくなるだろう、そうしたら私達はどうしたらいいのかしらと、心配で心配で、夜もおちおち眠れませんでした。

この心配はすぐ本当になりました。イギリスがドイツに戦争を始めました。ドイツ人が私ども日本人を見る眼が違って来ました。殊に子供の敵愾心が強く現われて来たので、私は往来を歩いていて子供が石を投げやあしまいかと心配でたまりませんでした。

こうした心配の最中に、ドイツの社交界で羽振りのいいある夫人から、ドイツの戦争に費うお金を寄附するために赤十字社の音楽会に日本を代表して出演して下さい、という依頼を受けました。日本を代表して、というので、これは私の意見だけでは御返事が出来ませんので、大使館の御意見をうかがおうと思って大使館に参りましたところ、貼出しがしてありまして、ベルリンにいる日本人はきょうのうちにベルリンから逃げておしまいなさい、それもドイツ人に知れないように逃げなさい。日本とドイツの戦争は今日明日中に迫っているというのでびっくりしてしまいました。これは赤十字社の音楽会どころの騒ぎではないと思って下宿にとんで帰って三浦に話をしますと、三浦は落ちつき払って、たとえ日本とドイツの戦争になっても、科学の研究には変りがない筈だから、ベルリンに止って勉強を続けると申します。私は戦争になったら音楽の勉強などとても出来ないからイギリスへ行きたいと、夢中になって三浦をかき口説き、やっと一緒にイギリスに逃げることに決めました。そして田丸博士も一緒にお逃げになるといいと思いまして電話をかけましたが、当時電話はドイツ語だけに制限されて、日本語は勿論外国語のお話は許されませんでした。だから大使館の命令でドイツ人に知れないようにきょうすぐ逃げ出すことを、何といってお伝えしてよいか非常に困ってしまって、三浦といろいろあれこれと考えた末、田丸博士を電話に呼び出して、ドイツ語で、「私達は今夜バンホッフのステーションから汽車に乗りますからあなたも御一緒に汽車にお乗りなさい」と、それだけお話をして大急ぎで荷物をトランクに詰め込んで、下宿のフラウ・ドクター・スミスには急に音楽の勉強のため旅行をいたしますから、といってステーションに駈けつけました。

ステーションに田丸博士は見えましたが、自分はドイツに残っているといわれるので、私たちは田丸博士に見送られてベルリンを出発いたしました。それは私たちがベルリンに着いてから一ヶ月のちの八月十四日でした。この汽車には前田侯爵、こないだ南方で戦死された前田大将ですが、前田侯爵や林銑十郎大将なぞ日本人が百名ほど乗っていて、後で判りましたがドイツから逃げ出した最後の日本人だったのでした。汽車は非常に混雑して便所まですし詰めの有様で、私ども日本人は全部三等車に乗せられました。一等と二等にはドイツの兵隊がぎっしり乗っていました。

オランダの国境を越えたのは夜中の十二時でしたが、うす暗いステーションに降りた時にはほっと致しました。これで助かったとは思いましたが、それでも日本がドイツと戦争をすることをドイツ人に感づかれては大変だと、お互に話をするのも声を低めてひそひそ話をするといった有様で、ステーションのうす暗いのも手伝ってなかなか緊張した、薄気味の悪い気持ちで一杯でした。けれどいい塩梅にドイツ人に感づかれないでドイツから逃げ出すことが出来ました。

やっとのことでロンドンに着きましたのが八月十六日で、スコットランド人のおかみさんの下宿に落ち着きました。

ロンドンも戦争でひっくり返るような騒ぎです。学生はみんな志願して兵隊になりました。私の下宿の息子も大学生でしたが兵隊を志願して出征しました。ロンドンの往来も兵隊の行進で一杯でしたが、ドイツの兵隊が大きな、がっしりした体格で、グーステップでタッタッタッと歩調をとっているのに較べて、ロンドンの兵隊はひょろひょろしていて、歩き方もドイツの兵隊より元気がないので、こりゃあイギリスの方が敗けるんじゃあないか、と思いました。本当にその時はそんな気持ちがしたのでした。

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