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蓮の花開く音を聴く事
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蓮の花開く音を聴く事
南方熊楠
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Chapter 6 of 7

六

牡丹奇縁は小説乍ら、其第十回、魏玉卿が學生中、隣家の美人卞非雲にほれ、合格授職の後、その依然處子たるを娶る敍事に、明朝時代の新婚祕俗を精寫しある故、手當り次第、相似た諸國の事例と駢べて寫し出そう。

云く。

玉卿便把二双手一、抱レ腰忙扶上二綉榻一解レ衣之際、見二燭火明亮一、只見三得皓體呈レ輝並無二毫毛點一云々。

玉卿は曾て卞家の婢を頼んで、非雲の裸浴を覗いた事あるから、粗ぼ其樣子を知り居た筈だが、埃及の回徒に在ては、新婚の夜、新夫が新婦の顏を初めて見る直前、顏見せ料若干錢を渡し、さて否がるのを強て其顏を露はし視て「神樣辱けない、今夜お目出たう」と祝うと、新婦もお目出たうと祝う。さて壻が嫁の衣を剥ぎ、襦袢裸にして其下部を展げ、其上で行なふのだ。(Lane,‘The Modern Egyptians, 1860,’ Everyman's Library ed., p. 177)

大和物語に、内舍人なりける人、大三輪の御幣使に大和國に下り、井手邊で、美しい女兒が抱れて一行をみるを認めて、呼寄せみると末恐ろしい尤物だつたから、ゆめ異男し給ふな我に會ひ給へ、大になり給はん程に參りこんと、一件の豫約し、之を形見にし給へとて、帶を解て取せ、其兒の帶を取て去た。女兒は其時六七歳だつたが、其事を忘れず、男は多情の者ですぐ忘れ了つた。爾來七八年して其女兒十四五歳になり、昨今の紅葉然と色付てきた時、其男復た同じ役目で、同じ所に宿つたとまで有て、跡はが尻に留つた如く、闕文とは殘念だ。

然し南方大士、龍猛直傳の神通もて洞知するに此女は昔の約束を忘れず、男の帶を後世大事と肌に卷き、其一端を彼處に插込みをり、君ならずして誰か解べきと、摺り付けられて男も氣が付き、慾火難レ禁一丈高、直ちに其帶を解て一儀に及ばんとしたが、前年取去た女の帶を示さぬ内は、雨風吹けどもまだ解ぬ/\ナンテ一首よんだと云ふ樣な咄で有たらう。コイツは餘りアテに成ぬが、較や似た事が古羅馬に在て、新夫が新婦と營生するには、必ず先づ新婦の帶を極めて解け難く結んだ、所謂ヘルクレス結びを解き果すを要した。今もアンヂラでは(と知た振で書くものの地圖を搜してもどこか分らず)侍女が新婦の下紐を小六かしく結んだ七つの節を解かぬ内は、いくらあせつても新夫が幹事し初め得ぬ(Wester marck,‘The History of Human Marriage,’ 5th ed., 1925, vol. , p. 465)。

此時玉卿蕩魂意迷、耐不住、云々、非雲哀聲喚レ痛、※髮倶鬆、云々。

初婚に新婦が痛と喚ぶは萬里同風なるは上に述た。鬆は髮亂と康熙字典に出づ。爰には非雲が新夫に抗して髮亂れたとしたらしいが、外骨氏説に、本邦古畫に亂髮の女が露身せるは、之を下敷きにして行ふた體多しと、有たと記臆す。モロッコの諸部族、多くは新婦亂髮で帶なしに新夫の室に來り、スラヴ諸民も亦新婦は髮を亂し、波蘭の或部分では新夫が新婦の編髮を解くといふ(Westermarck, upi supra)

非雲二出一身冷汗一、氣力已竭、云々。

法苑珠林九二に、晉の武都の太守李仲文、在都中十八歳の娘死せるを假葬した、後ち仲文官をやめ、張世之が代つた、其子字は子長、年二十、侍徒在二厩中一夢一女(仲文の死女)年可二十七八一、顏色不レ常、自言前府君女、不幸早亡、會今當二更生一、心相愛樂、故來相就、如レ此五六夕、忽然晝見、衣服薫香殊絶、遂爲二夫妻一寢息、衣皆有レ汗如二處女一とある。處女が新枕の節、全身に汗をかく者か。此事を續南方隨筆七八頁に記したのを見て、北京大學の誰かゞ、オレイクワモスてふ戯號で、汗で無てだ、破素の出血で衣がみなれた事だと示された。然し、恐して破身の際一身より冷汗を出すは、牡丹奇縁の記事にもあり、源語源氏が紫の上と新枕の條にも「思ひの外に心うくこそおはしけれな、人もいかに怪しと思ふらんとて、御衣を引やり給へば、汗に押浸して額髮もいたうぬれ給へり」と有ば、汗とみる方宜しからうと思ふ。

明治廿二年、米國ミンガン州アナバー市で、松平康國氏に聽たは、岡本保孝極貧乍ら藏書甚だ富り(一旦家計迫つて止むを得ず書籍只一箱を賣たと云から、其では何の足しにも成まじ、何程の價の物ぞと問ふと、たつた千兩との答えに、聞た人仰天した、常に傘を吊下げ雨洩りを禦いで讀書したと。此事逸聞らしいから、忘れぬ内に書留めおく)。其著難波二に狹衣物語卷一上、うとましかりつるかしらつきに慣つらんかしと思へば、猶心つき無れど云々、物きたなく、疑はしかりつる祷りの師の、心清きも見顯はしては(是は狹衣大將の御意に、初には飛鳥井姫君を疑ひて、威儀師に親しく慣れつらんと思したるが、左には非りけりと思しうる事の有し也)。

取替ばや物語卷四、いかなりける事ぞと、なま心おとりもしぬべき事ぞまじりたるや、大臣のあながちにもて離れ、有ぬ樣にもてなしゝも斯てなりけり云々。むげに淺墓なる若き人達などにや有むと、口惜けれど(是は帝の内侍督に忍びて遇給へる時に、世慣て有しを思しわく事の有と、かく思しめす也)とある。(西鶴の武道傳來記六の二に、天正中伊豫の合戰に討死した人の幼女を護つて東都に立退た忠臣が七十餘歳になり、二八ばかりに成長した故主の娘は諸人の執心うたてく、表て向き夫婦同樣に暮し居た。一夜、身に誤りのなき事は後日に相知るゝ御事なり。……此美女御寵愛のうち、なほ/\身の曇を去て、月の都の只中に住玉ひぬとある。後日に相知るゝ御事、又御枕のうち身の曇り去るとは處女膜が彼の御ン事に御寵愛の其夕べまで嚴存せしを指たのだ)。

皮想の見解の輩は、處女膜の存否を、男を知たか否の試金石の如く主張するが、既に支那の小説金瓶梅二五回にも、女兒が鞦韆より滑つて、板に一件をすり付け損じた、後ち人に嫁がしむると、是は素女でないとて逐歸された話あり。種々の怪我と病氣又幼少より指を入て洗ふ爲に、早く此膜を失ふ事多く、又膜の性質により度々交會しても破れざるあり。甚しきは姙娠せるに膜全たきも、一双の朱唇萬客嘗る遊女で、膜破れぬもある(Tardieu, Etude Mdicolgale sur les Attentats aux Murs Pars, 1859, pp. 52―58; Ellis, op. cit vol. , p. 139)。

故に處女膜の存否は、曾て男と關係した、しないを證明せず。西諺に、空を飛ぶ鷲と、岩を這ふ蛇と、大海を渡る船と、男が入れた此四つの跡は知れ難いとは十分の道理あり(Mouchot,‘Dictionnaire de l'Amour,’ Troyes, 1811, p. 21)。

大迦葉尊者妙賢女を娶り、共に清淨行を修むる事十二年、迦葉佛弟子と爲て妙賢は無衣外道に歸し、其端正無比なるが故に、五百無衣外道に犯さる。後ち迦葉、妙賢が王舍城に來るに逢ひ、其容貌の變れるをみて、既に破素されたと知た(Schieffiner,‘Tibetan Tales,’ 1906, p. 203)

好色五人女一の三に、清十郎、女共が獅子舞見に、立去た幕の内でお夏と戯れた後ち、一同伴て姫路に歸る、「思ひなしか、はやお夏腰付き扁たくなりぬ」とあるが、五百人にもしられたら、姿で分るは知れた事、お夏は「其年十六まで、男の色好で、今も定まる縁もなし」とあるから、其時まで素女だつたか、甚だ疑はしく、腰付き扁たく成たは、幕の内での早業に疲れてか、破素された徴候か、判然せぬ。凡て素女を識るの法、煩はしきまで世に傳ふるが、多くは奇怪で實行難く、要は甲斐でみるより駿河一番、額髮もいたうぬれる程なら、先は素女と推尊して可なりと惟ふ。

玉卿亦覺二忍耐不一レ住。便即披靡而泄矣、取二出羅一視レ之、只見二猩紅亂點一、遂呼二侍婢一藏二之笥匣一、原來此晩、他二人叙話、至二雲雨之際一、了音婉娘小玉(玉卿の三妾)倶在二房外一、窺听前々後々、無レ不二聽説一、云々。

明治十二年頃、紀州日高郡の一村に住だ予の從兄が、二里程距つた村より妻を迎へた。當日午後、予の叔父が、他數人を率ひ、嫁を伴ひ、件の村え來る途上、諸村の男女老若道側に待受け、爭うて嫁の顏に近付き、覗き、騷きが烈しくて、叔父は殆んど死ぬる思ひをなしたと語つた。それは其でよいとして、さて、其夜お定りの床盃がすみ、彌よ嫁御が死ぬる段に成て、叔父が較や遠方から偵がふと、怪しむべし、新夫婦のみ籠つた新築の離れ屋の、ぐるりの石垣に、幾らともなく横さらふ角鹿の蟹樣の物が取付き這廻る。近く往てみると、其村は勿論、小山を一里ばかり越た他村の者共迄、其離れ屋を取卷き耳を側立て、屋内の音を聽くので、慓悍な輩は小川を渉り、石垣を攀ぢ付て爭ひ聽き、交る/\下り歸つて、今の息は長かつた、是からどうするらしいと、俟ち構えた群衆に報じ誇る、中には六十過た老人も少なく無つたと、叔父が予に語つた。

又、那賀那の某村に「山吹も巴もみえぬ木曾路哉」てふ、山吹にも劣らぬ勇婦が有た。それが嫁入た當夜、擧村聽きに往くと、久しく闃として聲無つたが、初夜過る頃、新婦の聲が明月と共に澄み渡つて、ハーヱーと聽え、さて曉近く成る迄も一聲を聞ず。多分件の嬌音と倶に寢入て了つたらしいとの噂、それより其女をハーヱーの某樣と崇め、新婦の典型と仰がれ居た。ハーは心の眞底から出る感動詞、ヱーは善いの義、あら嬉しや、うましをとこに遇ひぬなど長く言ず、夜の九時に及んだ駒鳥の如く、ただ一聲して輒ち已だは、勇婦の最期ぞ潔よき。話休饒舌、廣文庫二册に屠龍工隨筆を引て云く、犬張子には汚穢の物を入るゝ事とも云ひ、諸禮者流には、小さき小袖などを入て、兒の守り也と云て、取とめたる説も無きに、彼の火酢芹命の御子孫、隼人等、御垣を守りて狗吠するより事發りて、内裏には狛犬据られ、后宮御方にも、又こま犬のある事、清少納言が記し、夫れに隨ひて、狗の顏したる張子を翫びと出來たるを、女の方に傳えて、嬌めきたる翫具となりし。又幼き兒に、紅晴を付るを犬の子といひ、兒の泣くを犬の子/\とてすかすも、其心ばへ成べしと。是では混雜千萬で何の事か分らず。「類聚名物考」には溺器の樣記しあれど、陶製の物有たと聞ぬ。日本百科大辭典を見るに、同じ犬張子の名で異製異用の者が種々有たらしい。大英博物館に在た日、張子製に金銀泥や碧朱燦爛と彩色した物有て、書籍を調べても何の用に宛たか判らず。書上げに困んだ所え、津田三郎氏(海軍大佐、日露戰爭前に伯林で客死す)が來り、ダカラ學者は世間に通ぜぬ、是は新婚の夜、「シルシ」の血を拭ふた紙を入れおき、翌日、父母舅姑が、蓋を取て檢視する物だと教えられたので、ンナール程とへこたれ、それから又、例の東西の諸例を引合せて、出來るだけ長文を認め、大分お禮を受た。近年まで紀州串本港では、漆器の匣を婚夜、新婦と倶に壻方え屆けおき、翌朝壻方より返し來るを、嫁の母が檢して、安心又は心配する習ひだつた。所謂「われたのがお里え響くおめでたさ」だ。「女用訓蒙圖彙」上には、犬張子一双を雛道具の次に圖す。雛遊は本と女子に、成人後、人の妻たり、母たる道を學ばしめた戯れ(骨董集上編下前。日次紀事、三月三日の條。昔々物語合考)、故に新婚の當夜迄、素女たりしを證するに必要な犬張子を其道具中に入れたのを女兒共に問れて白地に説明し難く、守りの厭勝のと種々牽強したので、之を犬形にしたは、辟邪の爲たる事、舊説通りだらう。牝牡二匹を置くは、壻が吾れ嫁を破素したといふに、嫁はされなんだと云爭ふ樣な時、檢證の爲に、双方の身を拭うた物を、各別に收め置くを必要としたに因る。佛説にも、比丘有て入二舍衞城一、次行二乞食一、至二一家一、有二一女人一、語二比丘一言、作二是事一來、答言我比丘法、不レ得レ作二是事一、女人言、若不レ作二是事一者、我當自傷破レ身、大喚言比丘強牽我行欲、云々とある(Tardicu, op. cit., p.52; 摩訶僧祇律二四)。(古今圖書集成。禮儀典三六、牲理三書圖解、男女初婚今俗人家女之母同入房、以果酒禮壻、而用素帛一幅置之壻袖中謂之交親、壻拜受之、厥明以驗女之貞潔其則有傳示於人者、今江淮多用之、雖士大夫亦有所不能變者蓋淪於塵俗而莫之覺也、其爲可噌甚矣、寧不有於風教乎、とあるが此書の出來た以前に此物の記事は無い物にや)。

Chapter 6 of 7
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