Chapter 1 of 1

Chapter 1

山地の稜

宮沢賢治

高橋吉郎が今朝は殊に小さくて青じろく少しけげんさうにこっちを見てゐる。清原も見てゐる。たった二人でぬれた運動場の朝のテニスもさびしいだらう。そのいぶかしさうな眼はどこかへ行くならおれたちも行きたいなと云ふのか。それとも私が温床へ水でも灌ぐとこかも知れないと考へてゐるのか。黄いろの上着を着たってきっと働くと限ったわけぢゃないんだぞ。私は今朝は一寸の間つめたい草を見て来たいんだ。だから一人だ。つれて行かない。大事なんだから。

温床とこはれた浴槽。

こゝの細い桑も今はまったくやはらかな芽を出した。その細桑の灰光は明らかで光ってそしてそろってゐる。

すぎなは青く美しくすぎなは青くて透明な露もとまって本当に新らしいのだ。

右手の奥の方では寄宿の窓のガラスも光る。黄ばらのひかり、すぎなと砂利。

これはレールだ。

それから影だ。手帳。

ゆっくり行けば朝のレールは白くひかる。強くて白くかゞやく、

子供のうすい影法師、私は線路の砂利も見る。

ごくあたり前だがぬれてるやうな気もします。

工夫がうしろからいそいで通りこす。横目でこっちを見ながら行く。少し冷笑してゐるらしい。それでもずんずん行ってしまふ。万法流転。流れと早さ。も一人あとから誰か来る。うしろから手帳をのぞき込まうとするのか。それでも一向差支へはない。やっぱり工夫だ。ところが向ふのあの人は工夫ではなかったんだな。大工か何かだったな、どてをのぼって草をこいで行ってしまふ。

この横が土木の似鳥さんの泊ってゐる家だ。女もゐる。そのうちの前で手帳なんかをひろげたって一向気取ったわけぢゃない。

(紙の白と直立。)

一向気取ったわけぢゃない。しなければならなくてしてゐるんだ。けれどももしこれがしんとした蒼黝い空間でならば全くどんなにいいだらう。それでも仕方ない。

低い崖と草。草。東の雲はまっ白でぎらぎら光る。

虎戸の家だ。虎戸があすこの格子からちらっとこっちを見たかもしれない。けれどもどうも仕方ない。あすこの池で魚を釣ってゐるのは虎戸の弟だ。たしかにさうだ。

立派だ。この雲のひかり Sun-beam がまさしく今日もそゝいでゐる。

雲は陽を濾す、雲は陽を濾すとしようかな、白秋にそんな調子がある。

向ふから女の人と子供がやって来る。みたやうな人だ。純哉さんのうちの人だ。知らない風で行かうか。何か云ひさうだ。とまる。

云ふ云ふ。

「まんつ見申したよだど思ったへば豊沢小路のあぃなさんでお出ゃんすた。おまめしござんしたすか。」この人がこんなに云ってくれるとは思はなかった。けれども×××××××××××××××××××××とき××××××××××××××××なんだ。

「はあ、おありがどござんす。お蔭でまめしくて居りあんす。」純哉さんもおまめしくてと云はうかな、いや家から出てどこへ行ったかわからなかったと云ふんだ。この辺を夕方しょんぼり行ったり来たりしてゐたのを見た人もあると云った。台湾、やっぱり云はない方がいゝ。

「お内のお母さんだぢと始終ご一緒して居りあんす。」純哉さんの妹は唇が紫で心臓が悪かった。この人も少し紫だ。

「はあそでござんすか。」この人の鼻はけはしくて写楽のやうに見えるけれどもどこか立派なところもある。

「それがらおうぢのあねさんおあんばぃ悪ぃふでごぁんすたなぢょでお出ゃんすべなす。」

「はあ、あんまり変らなござんす。」

「おりゃの米子どもいっつもお話し申してあんす。」

ありがたう。そんなにほかの人までが考へてゐてくれるのかな、おれでさへ昼学校では大抵まぎれて忘れてゐるのだ。

「ほんとにおありがどござんす。」おじぎをしたのでこの人はもう行かうとする。いまはお礼を云ったのだ。もう一ぺん云はう。

「ほんたうにおありがどござんす。暖ぐなったらど思ってゐあんすたどもやっぱりその通りで善ぐもならなぃで。」

「まぁんつたびだび米子どもお話してあんすすか。」

「おありがどござんす。」

「おありがどござんす。」

汽車はのぼって来るのぼって来ると子供が云ってゐる。人は影と一緒に向ふへ行く。私も行く。

雲が白くて光ってゐる。早池峰の西どなりの群青の山の稜が一つ澱んだ白雲に浮き出した。薬師岳だ。雲のために知らなかった薬師岳の稜を見るのだ。

今日も鳥が啼いてゐる。お城の方へ行かうか。おしろには前の日曜のさみしさがまだ浸み込んで残ってゐるからだめだ。さうして見るともっと東の遠くの方まで出かけよう。

製板所も見えます。向ふから工夫がひとりやって来る。ちゃうど私にぶっつかるばかりだ。私は線路をあるいてゐます。一寸でも挨拶しよう。けれどもそれもをかしい。たゞ私はみちを避けよう。さうだ。この人は何とも思ってゐないのだ。ずゐぶんみんな歩くのだからすっかりなれてしまってゐるのだ。それから瀬川の鉄橋のたもとから髪の長いせいの低い太った人が出て来ます。黒沢のやうにも見える。黒沢にしては何だか顔が厳しいやうだ。やっぱりさうだ。

「今日何処まで。」

「はあ、すぐそごまで、お通しやてくなんせや。」

「はあ、いゝえ、向ふ側さすか。」

「はあ。」

鉄橋のこっち岸の石垣を積み直すのだ。今日はずゐぶん人が来てゐる。請負の〔二字分空白〕さんも居るだらう。ずうっと足の下だ。こっちは橋の上を行くのだから一向かまはない。南の方はそら一杯に霽れた。土耳古玉だ。それから東には敏感な空の白髪が波立つ。光の雲のうねと云った方がいゝ、南はひらけたトウクォイス、東は銀の雲のうね、書いて行かうか。けれどもどうも斯う云ふ調子にのった語は軽薄でいけない。それでもやっぱり仕方ない。

もう鉄橋を渡って行かう。鉄橋を渡るときポケットに手を入れて行くのはいゝにはいゝんだ。下でも人が見てゐるし。けれどもやっぱりごく堅実に渡って行くのだ当然だ。人はゐるゐる。あの二つの顔は知ってゐる。枕木はうすい灰色曲ったり間隔もずゐぶん不同だ。水がたしかに下を流れてゐるけれどもおれはそれを見ようとはしない。気にかゝるのは却って南のトークォイスの光の板だ。

渡れ渡れ、一体これではあんまり枕木の間隔がせますぎるのだ。大股に踏んで行かれない。もう水の流れる所も通ったし、ずゐぶん早い。この二枚の小さな縦板は汽車をよける為のだな。こゝで首尾よくよけられるだらうか。もし今汽車がやって来たらはねおりるかぶら下るかだ。まづすばやく手帳と万年筆をはふり出すことだ。それからあとはもう考へなくてもいゝぞ。

すぐ向ふ岸だ。砂利の白や新鮮なすぎな。

着いた。立派な野菜だごぼうや何か。

すなつち。

馬は黒光り、はねあがる。はねあがれば馬は竜だ。赤い眼をして私を見下す。

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