Chapter 1 of 5

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私の家はどういふわけか代々続いて継母の為に内輪がごたくさした。代々と云つても私は自分の生れない以前のことは知らぬが、父の時代が既にさうであつた。父は早く実母に死なれて継母にかゝつた。その継母に幾人もの男の子が出来て、父は我が家にゐるのが面白くなくなつて遂に家を飛び出した。父は長男であつたが亡父の遺産を満足に受けつぐことも出来なかつた。それは継母の奸策の為めであつた。

私も丁度父と同じやうな行き方になつたと云ふのは何と云ふいんねんだらう。私は長男であつた。継母には二人の女の子が出来た。その女の子が私よりは大事がられて育つのを私は平気で見てゐられなかつた。質のよくない継母は私のさうした妹に対する嫉妬的な心理を知れば知るほど、私になほさらそれを見せつけた。尤も一年中そんなことばかりはなかつたが、兎に角私は家にゐるのが面白くなかつた。それに父までが継母と同類のやうにさへ私には見え出したのである。一年一年成長して行くだけ私の継母に対する観察は深刻になり、皮肉になり、父に対しては冷笑的になつた。同時に継母の私に対する憎しみもあくどく、そして辛辣になつた。父もそれに随従した。私の父は少し後妻に巻かれる方であつた。私と云ふ先妻の長男を家庭内で冷遇することが少なからず後妻の気に叶ふので、父はさかんに私を冷遇して後妻に媚びる癖があつた。父は自からそれを気づいてゐたかどうかは知らぬが、私はその頃まだ十二三の少年であつたが、父の愚劣さを認めてゐた。

父は私を家庭に置くことさへ後妻に遠慮して私を仕立屋の叔母の家へ弟子入りさせたりした。私は其所でも意地の悪い叔母の亭主に冷遇され、それでも一年以上辛抱したが、病気になつて家へ帰つた。私は叔母の家へゐる間父のことをどんなに気にして考へたか知れなかつた。私は家にゐると父をさほどに思ひはしなかつたが、家を離れると朝夕父のことを思はずにゐられなかつたのだ。父の善良なこと父が曾て私を誰れよりも可愛がつてくれたこと、父が一頃親類先の旧い借金に苦しんでゐた当時の心事を私は自分の記憶から呼び起しては父に対する感傷的な涙を味はつた。仕立屋の一年間はさうした悲しい日が多かつた。殊に酒好きな父の泥酔がいちばん気になつた。

然しそれほど心に思つた父も私が家へ帰つて病気がよくなると、一日も早く仕立屋に行くやうにとすゝめた。私は叔母の亭主といふ人が心から嫌ひであつた為めに、仕立屋に再び行く程ならば何処か他の商店に奉公したいと父に云つた。間もなく或る呉服屋の徒弟にやられた。然し半年とは辛抱しきれなかつた。それなり一年あまり私は家に止つて家業の手伝ひをしてゐた。その頃私の家は佐賀ステーション前に宿屋を営んでゐたのである。家業柄私は家にゐればいろ/\の役に立たぬではなかつた。尤もそれは小僧同様の役ではあつたが、例へば客の乗車券を買つて来てやつたり、ステーションまで手荷物を抱へて客を送つたり、夜になると泊り客を届け帳に記入して派出所へ持つて行つたり、その他いろ/\の使ひをしなければならなかつた。

然し継母と私との衝突が毎日絶えないので父はどうしても私が家に止まることを許さなかつた。私も強ひて家にゐる気はなかつた。寧ろ早く何処かへ行きたかつた。然し私は奉公は心から嫌ひであつた。自分は到底奉公に行つても長く勤まる気づかひないと自分でも知つてゐたのである。若し年齢が許すならばステーションの駅夫か機関車乗りにでもなりたかつた。それなら勤まらぬことはないと思つた。人の家に住み込んで奉公してゐるやうな気づまりな思ひをせずにすみさうであつた。然し其の頃私はまだ十三だつたので、その望みは叶はなかつた。

継母と衝突して父に叱られると、それなり私は家を出て三日も四日も帰らないのが例だつた。さすがに父は心配するらしかつた。それがまた私にとつては好い気味であつた。で出来るだけ遠い田舎の親類先を訪ね廻つて日を過ごした。目がふらついて倒れさうなひどい空腹を持ちこたへながら、田圃道の稲田のいきれの強い真夏の暑い日中を辿つたり見知らぬ村の子供の群れに交つて小川に水を浴びたりして次から次に親類の家を泊り歩いた。然し到る先で直ぐ私の様子を見てそれと嗅ぎつけ、二日とは泊めてくれぬのであつた。

「そんなにして家を出歩いてはいかんがのう、早うお帰り、親に心配させるもんぢやないぞよ。これから来る時は許しを得て来るもの。そすれば何日でもをつて好えから。」と親類先の老人から云ひ聞かされるのが常だつた。そして僅かばかりのおこづかひを貰つてはそこを追はれるのであつた。

赤の他人でも私の実母のことを多少でも知つてゐる町の人は私の日常を見て気の毒がつてくれた。

「ほんとになあ、お母さんが生きてゐなさつたらどんなにか仕合せぢやつたらうに、およしさんはみめよしで、好い人でなあ、せめてお祖母さんでござらつしやれば……。」と、或る所では見も知らぬ老女が私を見て、しみ/″\さう云つてくれることがあつた。私はそんな時は、嬉しさ過ぎてきまりが悪くて顔をそむけた。私の母方の祖母は女ながらに界隈では敬はれてゐた人で、町の年若い男女は読み書きの稽古に通つて来てゐたのを、私はおぼろげながら記憶してゐた。私は母の死後六歳時分までその家で育てられた。「亜細亜人種……阿弗利加人種……。」と生徒達の読本朗読の声を聞き覚えに私は覚束なくも口真似をしたりしてゐた幼ない頃の自分を思ひ出す。教室の柱や壁には生徒達のいたづら書きの痕が黒々と染み込んでゐた光景を思ひ出す。机を幾つも積み重ねたその頂上に読み書きの覚えの悪い、または行儀のよくない生徒が坐はらされて両手に煙りの立つ線香を持ちながら泣きしやくつてゐるをかしいさまを私はその時分毎日のやうに見た。母の実家は裏町筋から曲つた横町の、田圃寄りのさびれた古寺の前だつた。そのあたりには軒の傾いた貧乏士族の家がひからびたやうに並んでゐた。母の家は小さな塾だつた。祖母の死後私は旅先にゐる父のもとに引きとられた。その時は六つ位で、私は初めて父に逢つたのである。同時に継母を知つた。父は私を引きとつて間もなく故郷の佐賀に帰つてステーション前で宿屋を始めたのだ。

佐世保の造船所へ行つて職工になる決心をしたのは十三の秋だつた。同じ町から行つてゐた年上の友達が職工になつてゐた。その友達は青服のズボンをはいて黒セルの上衣を着込んで、鳥打帽を冠つて久しぶりに佐賀に帰つて来た。或る日手荷物を提げて汽車から降りて来る姿を一目見て私は直ぐに彼れであることを知つた。ズボンのポケットからズボン締めの帯皮へ時計の鎖をかけ渡したりしてゐる気取つた風が少なからず私の目を引いた。

その頃の職工は決して今日のやうに労働者、若しくは職工などと頭から賤しめる風はまだ一般になかつた。それどころか、機械師とか、西洋鍛冶などと云つて到る所で青服姿を珍らしがつて尊敬する風だつた。職工自身でも自分の職業は立派で高尚であると云ふ誇りを抱いてゐたのだ。それは今日の飛行機や飛行家等が世間にもてはやされるくらゐに彼等はもてたのだ。それはその筈である汽車と云ふものが今の飛行機ほどに世人の感動と讃嘆の中心でさへあつたことを思へば機械職工が珍らしがられたのも不思議でないであらう。然し何事も最初の間である。誰れにでも出来るやうになると世間は珍らしがらなくなり、果てはその真の値打をさへ馬鹿にするのだ。馬鹿にされるやうになると遂にはされる方自身でも自からを賤しみ侮るやうになるのだ――私のその友達が青服姿で故郷の町へ帰つて来た時分は、職工の値打ももう都会人の目にはそれほどではなかつたが、私の目には珍らしかつた。私は彼が非常に立身して故郷へ帰つて来たのだと思つて見上げた気持で彼に近づいて挨拶し、それから彼の家まで彼と二人がゝりで手荷物を持つて行つてやつたりした。彼は亡父の供養の為めに帰郷したのであつた。一週間ほど滞在する予定だつた。私はその間、彼の家を毎晩のやうに訪ねて佐世保の造船所の有様を彼に聞かせて貰つた。どんなに重い鉄でも機械でも宙にまき揚げて運搬するグレンと云ふ機械のあること、大きい軍艦でも商船でも鯨のやうに引き揚げて修繕するドックと云ふものや日清戦争で分捕りした軍艦や、いろ/\の機械が置き場もなく造船所の海岸に転がつてゐることなどを彼は話して聞かせた。

「僕等は毎日のやうに軍艦の中に行つて機械の修繕をするんだよ。士官にビスケットやパンを貰ふんで軍艦へ仕事に行くのがいちばん楽しみさ。」と友達は語つた。

「ほう、職工になりたいな僕も、軍艦の中はそんなに広いかい。どれくらゐあるの幅は。」

「鎮遠なんかは二十間ぐらゐあるよ。それは広いよ。」

私はさうした軍艦に乗り込んで行つて機械を修繕したりする職工はどのやうに偉いであらうと想像した。此の友達は既にそのやうな偉い職工の一人になつてゐると思ふと私はいつまでも自分はぐづ/\してゐる時でないと考へた。

「僕のやうな者でも職工になれるだらうか。」私は普通の少年と異つてゐる自分の性質上の欠陥や身体の虚弱を顧みながらそれを先づ聞いて見た。

「なれるとも。最初見習職工に志願するんだよ。それから三ヶ月すると一日十銭の日給になるよ。それから三ヶ月目毎に昇給するんだ。」

それを聞くと私は一日も早く行きたくなつた。彼と一緒にでも行きたいと思つた。

「僕は是非行くから、その時は世話しておくれなあ。」

「あ、するとも。でも君は家にをらんにやなるまいが。長男だらうが。それにひとり息子ぢやないか。」

「うんにや、家にをらんでも好え、僕がよそへ行けば家では却つて都合が好えのさ。」

私は思つた。今佐世保へ行つたら父も少しは私のことを心配するであらうと。自分を余計者扱ひにして妹ばかりを大事に育ててゐる彼等は少しは思ひ知るであらう。と思つた。ならうことなら佐世保よりもつと遠い旅の空へ行つて父を驚かせてやりたいと思つた。さうでもなければ後妻にまかれてゐる父を覚醒させ、そして真実の親らしいものを父から呼び起すことは出来ないと思つた。今度家を出たら、生涯家に帰らないやうにしたいとさへ思つたのである。

その年の十月末に私は父に無断で佐世保へ出奔した。佐賀から佐世保まで二十里位であつたがその時分汽車はやつと武雄まで通じてゐた。武雄からまだ十里の道を歩かなければならなかつた。父の知り合の人であちらで商売をしてゐるのを私は多少たよりに思つてゐた。行きさへすればどうかなると云ふ気であつた。

「茂ちやんだつて屹度何とかしてくれるに違ひない。」と私は曩に久しぶりで佐賀へ青服を着て帰つて来た友達をも頼みにしてゐた。

武雄のステーションで汽車を降りると、その駅の運輸部に勤めてゐる叔父に見つかつた。「どこへ行くのだ。清六。」叔父はさう云つて私をじろりと見た。

「佐世保へ。」私は多く答へなかつた。叔父の方でもそれきり何にも問はなかつた。此の叔父は父の異腹の弟で、数年前遺産分配についてごた/\を起した以来兄弟同士は前より一層敵視し合つてゐたので、さうした意味合から叔父は私に対しても強ひて冷淡であつた。其の実彼は私を憎んでゐないのであつた。その叔父の心持はよく私には分つてゐた。彼は私の父と仲が悪い上に私の継母にも少なからぬ悪感を持つてゐたのである。そして私が継母の為めに家庭で虐待されてゐるのをひどく憤慨し、私を不憫に思つてくれてゐることを私はよく知つてゐた、それにもかゝはらず彼が私の姿をプラットホームで見つけて、極めて冷淡に唯一言言葉をかけたきりで向ふへ行つてしまつたのは、事務が忙しい為めばかりではなく、「あいつは子供ながら俺を兄きと仲違ひになつてゐるので、親ぢの味方になつて矢張俺に対して敵意を抱いてゐるかも知れぬ。」と叔父は私を見た瞬間その折角の愛情を自から傷けてしまつたらしかつた。私にもその瞬間それに似よつたものが萌したのは事実である。父や継母を呪ひながらも此の叔父を見ると「父の敵」と云ふ感じを直ぐ私は感じた。叔父の愛情を解しながら強ひてそれに応じまいとする頑迷さが私にあつた。何といふ不幸の一族であらう。

叔父は貨車の傍に立つて仲仕達が荷を下してゐるのを見ながら鉛筆を走らせてゐた。私はそれを一目見返して今一度叔父の横顔を遠く見てステーションの出口を出た。それから人の続いて歩いて行く方へついて、長い国道に出た。私が前夜いろ/\と寂しい道中を想像したのとは異つて、晴れやかな秋の日の輝く国道には旅人の姿が賑やかに続いてゐた。附紐のひら/\と長く垂れたメリンスの着物にくるんだ赤ん坊を負ぶつた里行きらしいかみさんや、爺さん婆さんの老人づれ、背負商人、青服を着た職工、お坊さん、田舎娘、さうした姿が黄や赤や青や黒やの点々を国道に作つた。

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