Chapter 1 of 15

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お久美さんと其の周囲

宮本百合子

月に一二度は欠かさず寄こすお久美さんの手紙は、いつもいつも辛そうな悲しい事許り知らせて来るので子は今度K村へ行ったら早速会って話もよく聞いて見なければと思って来は来たのだけれ共、其の人の世話になって居る家の主婦のお関を想うと行く足も渋って、待たれて居るのを知りながら一日一日と訪ねるのを延ばして居た。

書斎にしてある一番奥の広い部屋の廊下に立って見ると、瑞々しい稲田や玉蜀黍等の畑地を越えた向うに杉の群木にかこまれたお久美さんの居る家が静かに望まれた。

茶色っぽい蔵部屋の一部が、周囲の木の色とつり合って、七月始めの育ち切れない日光の下になつかしげにしっとりと見えて、朝霧の濃く立ちこめた朝早くなどは、そのじき傍を通って居る町への往還を行くおぼろげな人影や馬の嘶きなどのために小器用な背景となるその家は一しお心を引かれる様な姿であった。

西洋洗濯をして居るので、朝から日の落ちるまで、時によると夜中白い洗濯物が高い所に張り渡された繩と一緒にヒラヒラと風に吹かれて居るのを見たりすると、五月蠅い程沢山な髪を味も素っ気もない引きつめの束髪にして西洋人の寝間着の様に真白でブワブワしたものを着た胴を後まで廻る大前掛で押えたお久美さんが、肩までもまくり上げた丈夫らしい腕に一杯洗物を引っかけて手早く一つ一つ繩のより目に挾んでは止木を掛けて居る様子を思い浮べたりして居た。

祖母の家に居るのだから出入に何にも億劫な事はないのだけれ共ついつい延び延びにして居て来てから七日目の晩大変好い月に気が軽くなった子は、祖母を誘ってとうとう山田の家へ出かけて行った。

庭からズーッと裏に廻った二人ははてしなく続いた畑地に出た。

霧のしっとりした草深い小道の両側にはサヤサヤとささやかな葉ずれの絶えずする玉蜀黍がズーッと一列に並んで、薯や何かの低い地を被うて居る作物の上には銀粉を散らした様な細まやかな閃きが躍って居る上をフンワリとかぶせた様なおぼろげな靄が気付かない程に掛って居た。

ゆるい勾配の畑をかなり行き抜けると小高くなった往還を越えた向うがもう山田の家で、高い杉並木が道一杯に真黒に重い陰を作って居る間から、チラチラと黄色い灯がのぞいて何かゴトゴトと云って居る人声が聞えて来た。

高い中でも飛び抜けて太くて大きい二本杉が門の様になって居る所からだらだら坂を下りて右に折れるともう主屋で、何となしモヤモヤした空気と物の臭いが四辺に立ち迷って居た。

今まで心の澄み透る様な中に居たのが急に蒸しっぽい芥々した所に出て、気味の悪い息を胸一杯に吸って仕舞ったので、何かに酔いでもした様な気持になった子は、眉をしかめて生唾を飲みながら暗い中に立ち止まって仕舞った。

傍の三尺の入口からズーッと奥に続いて居る土間の陰気にしめっぽい臭いや乾いた穀物と青菜の入りまじった香りがすきまなくあたりをこめて、うす暗い電燈の光りがランプの火の様な色でどんよりとともって居る。

子は半年振りで見る山田の家の中を珍らしい様な気になりながらのぞいた。

茶色になって虫の食った箪笥の上には小鏡台だの小箱だのがごたごたと乗って、淋しい音をたてて居る六角時計の下に摺鉢に入れた蚊いぶしの杉の青葉がフスフスとえむい煙を這わせて居る中に五つ六つの顔がポツリポツリと見えて居る。

東北の人特有な鼻のつまった様な声が活気のない調子でやりとりされて居るのを見ると、寺の様に高い天井と黒く汚れた壁だの建具だの外無い部屋の中がまるでお化けが出そうに陰気に感じられた。

子の目の前には割合に気持の好い自分の家の食堂だの書斎だのの色が一寸閃いて消えた。

子には掛り合わずにさっさと皆の中に入って行った祖母は急に子を見失ったのを驚いた様に、

「おや、子はどこへ行きましたろう。

と黒い中をすかし込むので出場を失った気味で居た子は漸う次穂を得た様に出て行って、

「今晩は。

と御辞儀をした。

祖母丈だと思って居たらしいお関は年に合わない肝高な浮々した声を出して、

「まあ何だろう、子さんも居らしったんですか。

そんな所に居らっしゃるんだもの、一寸も分りませんでしたよ。

さ此方へいらっしゃい。

ほんとにまあよく居らしったのね。

いつ東京からお出でなすったんです。

と立てつづけに喋り出した。

子は薄笑いをしたまんま縁側に腰をかけて背を丸めて煙草を吸いつけている祖母の傍に座った。

「まあおさん。

と押しつけた様な声で云ったきり動いて来ようともしないでじいっと此方を見て居るお久美さんは一番奥の方にいつもの装をして座って居た。

髪を洗ったと見えて長くばあっと散らしていつもの白いダブダブを着た膝を崩して居るので二つのムクムクした膝頭やそれから上の所が薄い布の中ではっきり盛り上って居て、ゆるい胸の合わせ目から日焼けのした堅い胸がクッキリと出て居る様子は、まだ漸う十五六の小娘の様に無邪気らしくて、とても子より二つも三つも年を重ねた人とは見えなかった。

丸々した指を組み合わせて膝の間に落し、少しかがむ様にした上半身のこだわりのない様子、狭いけれ共、形のまとまった額つきが、髪の生え成りを大変器用にまとめて居る。

半年振りで会うお久美さんの体の中には先にもまして熟れたリンゴの様な薫りが籠って居る様で、子は胸が躍る様な気持になりながら麗々しい髪の一筋一筋から白い三日月の出て居る爪先までまじまじと眺め入っては折々目を見合わせて安らかな微笑みを交して居た。

子の顔を一目見た時お関の心の中には口に云い表わせない悩ましさが湧き上った。

自分が受取ってかくして仕舞った二通の子からの手紙の事も、又此れから二月もの間自分の意志を焼く様な事許りを二人でするのだろうと思ったりして、どことなく心のある様な身のこなしを仕ながらお久美さんに許りは変らない上機嫌の顔を見せて居る子が腹立たしくて腹立たしくてならなかった。

まして、久々で東京から来たのに手土産一つ持って来ない事も気を悪くさせる種の一つになって居た。

お関は年寄と話しながら絶えず二人の方を視て居た。子が今年の正月頃用事で五日程来て居た頃にはまだ髪なんかも編み下げにして着物の着振りでも何でもが如何にも子供子供して居たのに、急に肩付がしなやかになって紫っぽい薄地の着物を優々しく着てうっすりお化粧をしてさえ居る今の子を見ると、お関は堪えられない程のねたましさと憎みを感じて居た。

妙に二つ分けにした髪が似合って居る事も気に入らなかった。

お関は二人が口を利き出すのを待って居た。

何か云い出したら此方に話を引っぱって困らせてやろうと云う明かに意識される程の毒々しい期待で、喉元まで声を出し掛けて居た。

そして一方では子に自分の心を知らさないために盛に年寄と喋った。

張り切った心で半分覚えない様に小作人の噂をして居た時不意に子は低い声で、

「お久美さん一寸。

と云い出した。

それと同時にお関は風の様に子の方を向いて、

「ああそう云えば、ね、おさん。

東京ではこの頃どんな浴衣が流行って居ましょうね。

と云うなり口元には、子が気づいて不快を感じた程小気味の悪い満足の微笑がスーッと上った。

チラリと目を見合わせて、

「ホラね、きっとそうだと思った。

と無言の中で云い合った二人は厭な顔をしてそっ方を向いて仕舞った。

お関は尚憎体な笑をたたえて、

「ねえ子さん、東京じゃあ今、

と執念く云うので、かくし切れない程気をいら立たせた子はそれでも声だけは静かに云った。

「さあ、どんなんでしょう。

皆各々自分のすきなのを着てるんだから一寸口じゃあ云えないでしょう。

それにそんなに私は気をつけても居ません――

「そうですか。

そいじゃあ何でしょう、貴女なんかハイカラさんなんだからどこからどこまで流行りずくめで居らっしゃるんでしょうねえ。

そんな髪が流行るんですか。

何て云う名なんでしょうね。

珍らしい頭ですねえ。

「私みたいなおちびに似合う流行はどこにもないでしょう。

と戯談の様に云いは云っても、子は腹立たしい気にならずには居られなかった。

「なあにそんな事あるもんですか。結構ですよ、女は、あんまり大きいと腰から下がしまりがなくっていやなものですよね。

去年から見るとどれ位いいお嬢さんにおなんなすったか知れませんよねえお祖母様さぞお楽しみでしょうねえ。

部屋の隅の方で帳面をつけて居た恭吉と云う洗濯男だの蠅入らずの前で何かごとごとして居た小女などは、田舎人の罪のない無作法と無遠慮でわざわざ頭をあげて子の方を見て居た。

お久美さんはだまって頭を下げて膝の所に浮いて居る白い布を集めたり手にのばしたりしながらお関に気兼をしいしい、折々子の眼をのぞき込んでは気の毒そうな――自分も子も――顔をして居た。

子はお久美さんと話したいと云う願望で胸がかたくなる様であったけれ共、仮りにも自分よりは一段下に居るべき者だと思って居る女の前で益々乗ぜられる様な素振りを現わす事はこらえる丈の余裕は有った。

年の故で人の好くなって居る祖母は、たった一人の女の子の孫に与えられた賞め言葉ですっかり満足して仕舞って、子供の様な眼差しをしながら、他人から見れば立派でも美くしくもない孫の体を見上げ見下しして、

「ほんとにねえ、年と云うものは恐ろしいものですよ。去年来ました時には前の川で魚を取る事許りに根をつくして居ましたっけが、此頃は一角大人なみに用を足してもくれましてね。

けれども朝から晩まで机の前に座ったっ切りで居られるのは何より心配ですよ。

第一躰のためによくありませんのさ。

昔の労症労症って云ったのは皆座って居る者に限って掛ったものですからね。

と真面目らしく云うのを聞いて居た者は、皆笑って仕舞った。

お久美さんは体を前後に振って永い間たまって居た心からの笑いが今あらいざらい飛び出しでも仕た様に涙をためて笑いこけた。

静かに微笑みながらお久美さんを見守って居た子は、鮮やかな赤い唇が開く毎びに堅そうに細かい歯ならびがはっきりと現われる単純で居て魅力のある運動に半ば心を奪われて居て、今自分が何を笑って居るのかと云う事さえもたしかではない様であった。

一しきり笑いがしずまるとお関は又元の頑なな顔の表情に立ち返って、

「それにしてもまあ女の子の育つのを見て居る位不思議なものはありませんですよ、

まるで何て云って好いか丁度日あたりの好い所に生えた芽生えの様なもんですね。

一日一日とお奇麗におなんなさる。

好いお嫁さんにおなんなさいますよ。

私見たいに老耄ちゃもうお仕舞いですよ、ほんとうに、皺苦茶苦茶で人間だか猿だか分りゃあしない。と云い云い二人の娘を見た眼には明かに憤怒の色が漂って居た。

子は少し驚ろかされて此の四十五の恐ろしく嫉妬深い女の顔を眺めた。

妙に厚ぼったく太い髪と顔下半分の獣的な表情は、そのゼイゼイした声と一緒にお関を余程下等な感じの悪い女にさせて居た。

歯からズーッと齦まではかなり急な角度で出っ歯になって居て、その突出た歯を被うには到底足りないで一生僅か許りの隙間を作って居なければならない唇は、まるで大夜具の袖口の様で荒れて白く乾いた皮は石灰を振りかけた様にパサパサになって居た。

男の様に育った喉仏はかすれた太い声の出る理由を説明はして居るものの不愉快な聞手の気持を和げる役には立たない。

美くしいと云うまででなくても賢しこそうなと云う顔を好む子はお関の顔を見るとどうしても哀れな模倣で一生を送る猿と違いはない様な感じを押える事は出来なかった。

「何の何のお関さん。

四十代は男も女も働き盛りですよ。

生れついた片輪の事を考えれば、人並みに生れついたのを有難いと思わなけりゃあなりませんよ。

年をとれば皺の出来るのは、勿体ないがどんな立派な宮様だって同じですわね。

と云った祖母の言葉にお関は幾分か力を得て、又目前にもう七十を越した自分よりもっともっと皺だらけの美くしさも何にもない年寄が居るのをはっきり知って、

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